29. マリーヴェルの初恋
マリーヴェルの授業は近頃、順調に進展している。
社会の先生は今日もご機嫌で勉強部屋へ入った。
生徒がやる気を出して授業についてきて、教える楽しみを感じる。教師としてこれ以上の喜びはない。
——おや、と思う。
マリーヴェルはいつもアルロとピッタリ机をくっつけて座っている。仲睦まじく微笑み合う様子は可愛らしく、絵画にしたら飛ぶように売れるだろうな、と経済効果を計算してみたこともあるくらいだ。
今日は普通に並んだ椅子にそれぞれ掛けている。
「ご機嫌よう、先生」
「よろしくお願いします」
挨拶はいつも通りだ。それにいつも通り返しつつ、荷物を置いて、ちら、と2人の表情を見る。
いつも通り、喧嘩している様子もない。アルロにべったりのマリーヴェルと、ひたすらに従順なアルロが喧嘩になるとは思えない。
「課題はしてきましたか?」
とりあえず2日前に出した課題である、地図の見方と書き方について尋ねてみる。
「はーい。ヒュートランの地図を使って、調べてきました。先生、わからない記号があったわ」
「おや、珍しいですね」
課題でわからないところはアルロに聞いて解決しているから、質問されることはあまりない。
アルロにもわからない記号があったのだろうか。
「どれですか?」
「これです」
「ああ、これは、水門ですね。ヒュートランはかつて深刻な水害に襲われたことがありまして——アルロ君は、聞いたことないかな?」
雇い主であるシンシアからは、アルロの得意分野を見極めたいと言われている。
だから教師はマリーヴェルと並行して、アルロにも教えていたし、どの程度知識や興味があるのかも見ている。
「40年前の、キンナー大水害ですね。それでペンシルニアの先代公爵が、大規模な治水事業を行われた」
やはり、知っていた。
「今回はアルロ君に聞かなかったんですか?」
何気なく聞いてみたが、アルロの方が恐縮してしまった。
「すみません、姫様、気づかなくて・・・」
「う、ううん!違うの!今思いついたの」
マリーヴェルは何故か先生の方を見ながら言った。
「先生の顔見てたら、この記号何だろうって、思っただけ・・・!」
「私の顔で、その記号ですか・・・?」
これはどう受け取ったらいいのだろうか、と思っていたら、マリーヴェルが厳しい目を向けてきた。
「いいから、先生、早く進めてください。時間は無限じゃないんですから」
トントン、と机まで叩く。これはいつもの先生の口癖だ。
釈然としないまま、先生は授業を再開した。
「——はい、では今日はここまでで」
パタン、と先生が本を閉じる。
「はあい。ありがとうございました」
マリーヴェルは疲れ切ったような声を出すが、授業中ずっと集中して聞いていられるようになった。進度で言えば同年代の貴族の子女としてはやや遅れているが、それでも大進歩だ。
先生は今日も満足げに帰っていった。
それを見送ってから、マリーヴェルはすとん、と元の椅子に座った。
「お疲れ様でした」
アルロが気遣うように声をかけて、片づけを始める。先生が使用した道具や広げた資料など。
マリーヴェルも本を積み重ねていった。
狭い机で、一瞬指先が触れ合う。
マリーヴェルは弾かれたように手を引いた。
「・・・・・・・」
アルロは一瞬マリーヴェルを見つめた。視線は感じたが、マリーヴェルにはそれを見つめ返す勇気が出ない。アルロがどんな顔をしているかは分からなかった。
少し沈黙が流れつつ、片付け終わってマリーヴェルはさっさと立ち上がった。
本を抱えてアルロに微笑む。ちゃんといつも通り笑えているだろうか。
「——じゃあ、次の授業までちょっと休むわね」
「あ、お供します」
アルロはいつも荷物を持って部屋まで送ってくれる。ドアを開けてくれる。
急いで荷物を持とうとするアルロに、マリーヴェルは慌てて手を振った。
「ううん、大丈夫。ちょっとだから」
「そうですか・・・?」
アルロの心配そうな表情。それを見るだけで、なぜかマリーヴェルはきゅっと胸が痛くなった。
早足ですぐ向かいにある部屋へとマリーヴェルは姿を消した。
それを見送って、アルロはしばし考え込む。
昨日から、マリーヴェルの様子がおかしい。
そして、昼下がり。
玄関ホールに集まった子供会のメンバーは話し合いの結果、今日は2人ずつに分かれて、姫と騎士ゲームという、鬼ごっこのようなものをすることになった。
騎士は姫を守りつつ、敵側の姫のスカーフを取れば勝ち、だ。
「よし、どう分かれる?」
「ソフィね、ひめがいい」
「当たり前でしょ。あんたが騎士だったら負け確定だわ」
「マリー、そんな言い方するなよ。そうとは限らないだろ。ペアの姫が逃げきればいいんだから」
「それって・・・お兄様が姫をやるって事?うえぇ」
マリーヴェルが心底気持ち悪い、というように顔を歪めた。
「そんな汚い顔しないでよ」
「はあ?失礼ね!!」
今日のマリーヴェルは終始ご機嫌斜めだ。さすがのエイダンもたじろぐ。
「何だよ、今日はつっかかるな」
「私の顔が汚いって言うからでしょ」
「姫様は美しいです」
すかさずアルロがフォローする。
いつもならここでマリーヴェルがにっこり笑って場が和らぐ。
今日はマリーヴェルが不自然に黙り込んだ。うつむいてしまって表情が読めない。
「姫様・・・?」
「マリーどうしたの?調子悪いの?」
ソフィアが下から見上げて首を傾げた。
「うわあ、おねえさま、おかおがまっか——」
ぱしん、とマリーヴェルがソフィアの口を塞ぐ。
もごもごとソフィアが反抗している。
「早くやるわよ!私とソフィアが姫!ドレスなんだから」
「はいはい。じゃあ、コイン」
エイダンがベストのポケットからコインを出した。
「僕のペアが、表ならソフィア、裏ならマリーね」
ピン、と投げたコインはすぐに弧を描いて落下し、エイダンの手に収まる。ソフィアがまじまじと大きな目でそれを見つめていた。
「表。僕とソフィアね」
「——では、次の鐘が鳴ったらスタートでよろしいですか」
ちょうどあと10分程度で2時の鐘が鳴る。
時計係のアルロの提案にみんなで頷いた。この辺りはもう、息ぴったりだ。
「よし、ソフィー行こう!」
エイダンがソフィアの手を取って1階の奥へ走っていった。
ソフィアを抱えて動く作戦か、ソフィアをどこかに隠してこっちを狙いに来るのか。どちらかだろう。
「——どうする?」
「あ、まずは、隠れますか」
「そうね」
マリーヴェルはアルロと共に2階へ向かった。
エイダンに追いかけられたら逃げ切る自信はない。
前回は逃げきれず捕まりかけて、アルロが守ろうとエイダンと素手の対決を始めてしまった。もちろんエイダンが優勢なのだが、アルロも素早く応戦しているので、エイダンも面白くなってしまったようで。
2人はそれに熱中してしまって、いつの間にか姫と騎士ゲームのはずがアルロとエイダンの格闘ゲームに代わってしまい、なし崩しに終了となったのだった。
ほんと男って奴は、とソフィアと2人でいつまでも文句を言っていた。
2階に上がってなんとなく突き当りの部屋へ行く。
タオルやカーテン類をしまっている用具入れだ。こんなところまで、きちんと掃除が行き届いている。
「——じゃあ、私はこの辺に隠れとこうかな」
あとはアルロにソフィアを見つけてもらえば——そう思って言ったが、アルロはそのまま一緒になって用具入れに入ってきて、後ろ手に扉を閉めた。パタン、と静かに音が鳴る。
驚いてマリーヴェルはアルロを見上げた。
アルロは真剣な目でマリーヴェルを見つめてきた。どこか思いつめたような表情。
「あの、姫様。僕が・・・何か、してしまったのでしょうか」
え、とマリーヴェルは動転した。
狭い密室にアルロと2人きりという事にもそうだし、アルロの恐る恐るといった声音にも。
しかしすぐに、自分がやってしまったのだと気づいた。




