28.
「お母様、どうしよう」
就寝前に部屋を訪れたシンシアに、マリーヴェルは切羽詰まった口調で言った。
シンシアは何かよほど深刻なことかと身構えた。
ベッドに入っているのに体を起こしたままのマリーヴェルの横に、そっと腰かける。
「どうしたの」
「アルロがね。昨日、声を出して笑ったの」
「・・・まあ」
それは、良かった。
アルロは微笑むことはあっても、声を上げて笑うところは見たことがない。今まで一度も。
非常に喜ばしいことだ。
しかしそれがなぜ、どうしよう、となるのか。
「私、涙をこらえるのが大変だったわ。だってせっかくアルロが笑ったのに、私が泣いたら台無しでしょ」
シンシアは微笑みそうになるのをこらえた。ここは微笑ましく思っても、本人は非常に深刻だから。
「——どうして泣きそうになったの?」
「何でかしら。・・・嬉しかったから?アルロが声を上げて笑うなんて、初めてでしょう?本当に、楽しくて仕方ないって感じで——ううん、楽しくって笑うのなんて、当たり前のことよね。そんな当たり前のことを見ただけなのに。当たり前を貴重なことみたいにしたくなくって・・・ああ、何言ってるのかしら」
「わかるわ」
間違いなく劇的な瞬間だったのだろう。
子供達の驚きつつも喜びで溢れそうな表情が思い浮かぶ。
アルロを楽しませようという目的であの手この手でいたのは知っている。何より素晴らしいのはこの子達が無理をしてないところだ。自分たちもただ自然体で楽しんでいる。
実に子供らしい、純粋な気遣いだった。
楽しくなるのは当たり前だから、当たり前に一緒に楽しもうという、意図的でない行動。
「それで、泣きそうだったのが、どうしようって?」
「違うわ」
「じゃあ、他に心配事?」
マリーヴェルは困惑したように自分の両手を見下ろしていた。
特につらそうにしているわけではない。シンシアは待った。
「アルロの笑い声がね、頭から離れないの」
「笑い声?」
「はは、って。いつもより少し高い声で。その声が頭の奥でずっと響いているの。それで、その声を思い出すと、胸が痛くて、痛くて、もう、じっとしていられないの」
シンシアは黙って頷いた。マリーヴェルが続ける。
「そしたらね。私、アルロの顔をちゃんと見れないの。どうしようお母様!!」
「ええ、どうしましょうね・・・」
シンシアは別の意味で口元を覆った。
これは、おめでたい。マリーヴェルの初恋だ。
今までのはずっと好き嫌いの好きだった。いつしか大好きに変わって、かけがえのない好きには変わったが、それでも親愛の情に変わりない。
ライアスはマリーヴェルの「好き」にいちいち反応して、落ち着かない様子だった。しかしシンシアから見ればただの子供同士の親愛で、男女のものとは程遠かった。だから微笑ましく見守っていたのだ。
それが、マリーヴェルがついにアルロに恋をしてしまった。
いずれはそうなるかもしれないとは思っていた。
喜ばしいことだ。まだまだ子供だと思っていたマリーヴェルの成長だ。
同時にその相手がアルロであれば、2人の間の障害の多さに、素直に応援してやれないのも複雑なところだが。
——とはいえ。
まだ8歳と13歳。今からそんなことを心配しても仕方がない。
マリーヴェルは全身全霊をかけてアルロを立ち直らせた。
2人の間に強固な絆があるのは間違いないことだ。
シンシアは笑いながらマリーヴェルをベッドに寝かせた。もう寝る時間はとうに過ぎている。
「ほら、目を閉じて」
「眠れないわ。アルロの顔が思い浮かぶと、もう、ドキドキしちゃって」
「それは困ったわね」
「でも、嫌な感じじゃないのよ。ふわふわして、何でもできそうな気になるの。だけど怖いの。あー・・・それに、恥ずかしい」
「忙しいわね」
シンシアはくすくすと笑う。
「アルロが笑っただなんて。素敵なことじゃない。いい事しか起きていないのに、何も心配はいらないでしょう?」
「でも、私、アルロに明日からちゃんと笑えるかしら」
「大丈夫よ」
シンシアはマリーヴェルの頭を撫でた。
「貴方はアルロが大好きだから、ちゃんとアルロとお話しできるわ。それにもし、上手に話せなかったり顔が見れなくったって、アルロはそんなことで貴方の事を嫌いにならないわよ」
「嫌いに・・・ならないかしら」
「ええ」
「絶対?」
「絶対」
確信を持って力強く言い聞かせる。
シンシアがそう言ってようやく、少し不安は和らいだようだ。
「さあ、もう寝なさい。明日目の下にクマを作ったままアルロとお勉強できないでしょう。アルロが心配しちゃうわ」
マリーヴェルは目を閉じた。
「——ねえ、お母様。本当に良かったわ。アルロが、笑ったの」
感慨深いように、深く深呼吸しながら、マリーヴェルが言った。
「ええ」
「もっともっと、楽しい事いっぱいしたい。アルロが毎日笑ってくれたらいいのに。これまでの分も」
「そうね」
これまでの分も。それは生まれてから今までの13年分という事だろう。シンシアは心の底から同意した。
しばらくして、マリーヴェルはようやく眠り始めた。
シンシアは寝室に戻って、ガウンを脱いだ。
もうすっかり暖かくなった。
寝室ではライアスが待ち構えてガウンを受け取ってくれる。
「今日は長かったですね」
寝る前に子供達の顔を覗いてくるのはシンシアの日課だった。その後、寝室で過ごす。
「マリーが——」
言いかけて、シンシアは少し悩んだ。
ライアスとは、これまでもいつも、何でも話し合ってきた。
子供を育てる環境、側に置く使用人、初めて魔力を発現した時。エイダンが光の片鱗を見せた時にも。
だが今回の事は・・・。
じっとライアスの顔を見てみる。
この夫は、娘の事となると暴走してしまいかねない気がする。
「少し、なかなか眠らなくて」
「どうかしたのですか」
「アルロが笑ったそうです。声を上げて」
ライアスはガウンを掛けて戻ってきて、シンシアの横に座った。
寝室のソファは2人掛けがテーブルを挟んで2つ用意されているが、使用されるのはいつもどちらか一方のみだった。
「懸念していたことが起こらなくて良かったです」
そう言いながらゆっくり肩を揉んでくれる。ライアスの温かくて大きな手はとても心地がいい。
シンシアの安心しきった表情を見て、ライアスも表情を緩める。
「私もアルロの笑い声を聞きたいわ。——このまま子供達が仲良く、元気に育ってくれたらいいのだけど」
「はい」
シンシアはライアスにもたれた。ライアスの手が止まり、ゆっくりと髪を撫でて梳くように動く。
「そろそろ・・・アルロの今後の事も、考えたいです」
「はい」
アルロは賢い。ただの使用人にしておくには惜しい人材だ。学園やマリーヴェルの付き添いで学んだことだけではなく、ちゃんとした教育を受けさせ、ゆくゆくはペンシルニアを支えていってほしい。
もう少しアルロが落ち着けば、後見人として手続きを進められたらと思う。
そういう人間はさほど珍しくはない。
ルーバンもそうだ。教育を受けるほどの経済的な余裕がない子供に、将来への投資で支援をする。
「——話は変わりますが」
シンシアが言うと、ライアスの手が止まった。
「もうすぐ春の祭典ですね」
「はい」
ファンドラグの春の祭典。
ファンドラグの神殿はルクレティアという神を祀っている。
古代、ルクレティアは魔力を人間に分け与え、神の国へ去っていった。
王都郊外にあるロイアー湖から大神殿までの道は、そのルクレティアの通り道だと言われている。
式典では、その道を花馬車に乗った王族が通り、その後の道に人々が花を撒く。花で道が覆いつくされ、美しい花の道が出来上がる。
王都のそのメインストリートにずらりと露店が並び、式典に便乗して1年に1度のお祭り騒ぎになる。
冬の終わりを感じる大規模なお祭りだ。
「今年はイエナ様が身重だから、ティティとアレックスで花馬車に乗るんですって」
「そうですか」
「ティティに、一緒にどうって言われたのだけれど」
これまでも、公爵家として王家と並んで様々な式典に参加することはある。花馬車は初めてだ。
「皆で、ですか」
「ええ。私たちがいたほうがアレックスが大人しいからって」
「春の祭典は・・・警備が最も難しいのです」
人々と王家の距離が一番近くなるのが春の祭典だ。花馬車には屋根がない。
「王女の時は毎年参加していましたよ?」
「それは・・・そうですが」
ライアスも警備に当たったことがある。
花に囲まれた幼いシンシアの、楽しそうな顔は今でも鮮明に思い出される。
陽の光に照らされてキラキラと反射する銀の巻き毛、金の眼はそれに負けないくらい嬉々として輝いていた。人々の熱狂を受けとめ、にこやかに手を振っている。
天使そのものだった。
「花馬車から後ろを振り返ると、それは美しい花の道が出来上がっていくのです」
シンシアは遠い目をしていた。かつての情景を思い浮かべているようだった。
花の道は神の通り道だから、翌日まで、誰も踏み荒らさない。
花が咲くようにみるみる道を覆いつくしてゆくのは圧巻だ。
「まるで自分達が花の道を作っていくような気になって。そんな素敵な風景を、せっかくだから子供達も見れたらいいんじゃないかって思ったんですけど」
「・・・・・・・」
少し考えて、ライアスはゆっくりと頷いた。
「警備体制を、予定より少し厳重にしましょう。我々は王城で待っている予定でしたから、そちらの騎士を動かせばいいので」
まだ祭りの日まで十分に時間がある。
シンシアは良かった、と笑った。
「それで、その式典が終わったら、露店に行きたいんです」
「御冗談を」
即座に言い切るライアスに、シンシアは不思議そうに言った。
「本気ですけど?」
「シンシア・・・お願いです。私の寿命を縮めるようなことを言わないでください」
「困ったわ。ライアスには長生きしてもらわないと」
シンシアは悲しい顔をわざと作って、ライアスを見上げた。
ライアスはぐっと喉を鳴らす。
これはあと一歩か。
シンシアはするりとライアスの膝に上った。
ライアスがぎょっとする。そこににっこりと笑って、肩に手を伸ばした。
「ライアス。貴方と一緒なら、どこだって大丈夫でしょう?」
今までずっと行きたくてもいけなかったお祭りだ。街に行くのですら、ライアスはすぐに厳重にしてしまうから、気を遣ってごくたまにだけ。
子供達も手を離れつつあり、身軽になってきた今。少しくらい、ライアスと一緒なら。
「髪色を変えて、街の人の服を着て、そっと行きましょう?二人で」
「貴方は、そんな・・・」
まさかシンシアがそんなことを言い出すとは思ってもいなかったようだ。結婚して12年も経つのに、ライアスは未だに時々シンシアが分からなくなる時がある。
何もかも見通し達観したような時もあるのに、こうして悪戯好きな少女のようなところもある。
シンシアがぱちぱちと瞬きをする。
光り輝く金の瞳がライアスに注がれた。
「いけません。そんな顔をしても」
ライアスは視線を逸らそうとして——シンシアに両頬を掴まれた。
シンシアの目が、愛おしそうに見つめてくる。
「夜の露店では、外国の珍しいものも並ぶんでしょう?花火も打ち上がるんですよね。2人っきりで、デートしましょう」
2人っきりで、夜のデート。
そんなことは今までしたことがない。護衛なしで身分を隠して出かけるなど。考えたこともなかった。
いつも完璧に、鉄壁の守りで臨んでいたから。
ぐう、とライアスは唸った。
もうすぐキスをされるほどの距離である。頭が働かない。
シンシアの期待のこもった視線に敵うはずもなく、最後には頷くしかなかった。