22.
マリーヴェルはゆっくりとアルロに近づいた。
「薬と包帯は?」
アルロは固まったままだったが、それはすぐに見つかった。
アルロの部屋には相変わらず何もない。窓辺のチェストの上に薬と包帯がそっと積まれていた。
「座って」
アルロの部屋には小さな机と椅子が一つだけ。
マリーヴェルはアルロにそこに座るように言った。
「あ、あの、姫様」
「薬を塗るわ。私では治癒できないから。座って」
マリーヴェルにそう言われると、考えるより先に体が動く。アルロは黙って座った。
マリーヴェルは薬を取ってアルロの傷口に塗った。
「姫様、汚れます」
「洗えばいいでしょう」
だって、マリーヴェルは、潔癖なのに。少し手に汚れがつくのも嫌がるのをアルロは知っている。
それなのに、マリーヴェルは少しも気にしない様子でアルロの傷に薬を塗った。
アルロの左腕は赤く腫れ上がって一部膿んでいる。目を背けたくなるほどのひどい傷だった。
マリーヴェルは泣きそうになるのを必死で堪えて薬を塗って、包帯を巻いた。
泣いたらアルロは、もっと隠してしまう。泣かせたとなったら自分を責めてしまう。
そんな気がした。
だから、なんでもない事のように包帯を巻いた。
「できたわ」
巻くのに熱中したおかげで、涙は少し引っ込んだ。
「私にもっと魔力があれば、綺麗に治しちゃうんだけど」
アルロは答えなかった。
見られたくなかったのだろうか。いつもなら何を言ってもちゃんと返事をしてくれるのに。
マリーヴェルはわざと笑って見せた。
「上手くなったでしょう?手当て。お母様に教わっているのよ」
「・・・・・」
「・・・・・」
アルロが黙ってしまうと、途端に沈黙が流れる。
こんな時どんな風に言えばいいのか、マリーヴェルにはわからなかった。気の利いたことが何も言えない自分が歯がゆい。
こんなことはもうやめて、と言いたい。けれどそれは言えなかった。アルロの顔を見たら、言えない。
「そんな顔しないで」
マリーヴェルはアルロの顔に触れた。青い顔をしている。少しでも落ち着けたくて。
「アルロ、何考えてるの?」
「姫様の手を・・・」
汚して、か、煩わせて、か。どちらもか。アルロの声は掠れて、最後までは聞こえなかった。
「言ったでしょ。私がやりたくてやったの。隠さないで、って私が言ったでしょ」
「・・・・・」
アルロが喋らないと、会話にならない。
「痛くない?」
「——はい」
やっと答えてくれた。マリーヴェルは包帯の上から傷に触れた。
「姫様、力はもう——」
今日はすでに力を使っている。これ以上は無理をすることになる。そう思い止めたのだろう。
こんなに疲れ切った様子なのに、まだマリーヴェルの心配をしてくれている。
「使わないわ。触れるだけ」
さっき見た傷を思うと、痛くないわけがない。少し熱いこの腕が、早く治るよう願うしかできない。
「本当に痛くないの?」
「痛くないと・・・」
アルロがポツリと言って止まった。
マリーヴェルは待った。するとまたしばらくして、ぽつりと呟く。
「痛いと、ほっとするんです」
そう言ったアルロの顔はマリーヴェルを見ていなかった。自分の傷に視線を落とし、マリーヴェルの手に自分の手を重ねた。
自分から触れてくるというのも珍しい。
マリーヴェルより二回りくらい大きな、かさついて荒れた手。
アルロは憔悴していた。
疲れ切っているように見えた。
こんな、電池の切れたような呆けたアルロは初めて見た。いつも、静かではあるけれど、その瞳はいつもマリーヴェルに向けられていたから。
マリーヴェルは怖くなって息を飲み込んだ。
アルロを失うような気がして——いや、失ったような気がして。
繋ぎ止めなければ。
泣いてる場合じゃない。
「アルロ」
グッと手に力を込めた。包帯の中の傷が今度こそ痛んだのだろうか、アルロは一瞬眉を寄せた。
「痛いのがいいのなら、私があげる」
アルロが自分で自分を傷つけるくらいなら。
「傷を広げたくなったら、私に言って。——言えなくてもせめて、隠さないで」
マリーヴェルは必死だった。それに、自分には分かる、という確信があった。
もう見逃さない。
普段のアルロなら、やはりここでそんな事はさせられないと言っただろう。とんでもない、と。
だが、アルロは疲れ切っていた。
頭がうまく働かない。
もう考えるのを手放したかった。そう思ったところに、いつものマリーヴェルの命令がすっと頭に入ってきた。
「分かった?傷を触る時は言うのよ」
「はい」
アルロは力なく頷いた。
それからしばらく、奇妙な日が続いた。
アルロは相変わらず厳しすぎる訓練をしていたし、生気のない表情をしていた。
ただ、傷口をえぐるようなことはしなくなった。レノンとの面会の間隔が空いたせいも大いにあったが。
それでも、ふと時間が空いた時などに、アルロはどうしようもなく、居ても立っても居られないようになるときがあった。
消えてしまいたくなる。
ここにいてはいけないような気がする。
自分が黒く淀んだ汚い存在なのに対して、ここは明るくて美しく、清らかな場所だから。
つらくてつらくて、あれをしないと落ち着かない。
そんな時は決まってマリーヴェルがやってきてアルロに声をかけた。
「アルロ、私と遊びましょう」
マリーヴェルはそう言って他愛もない話をして、いつもと同じようにゲームに興じ散歩に出かける。やがて疲れて別れる。
そうするといつの間にか気が紛れて、やらなくても大丈夫になっていたりする。
それでもどうしようもなくなった時には、アルロは約束通りマリーヴェルを訪ねた。
「姫様・・・」
どうしていいかわからず困ったような、いつになく頼りない顔をしたアルロをマリーヴェルは、特に何も言わず部屋に入れた。
部屋に二人きり。対面に座らせて、包帯の上からそっと傷を触る。
「——どう?」
「はい」
その返事が、少しほっとするような声音で、マリーヴェルは窺うようにしていた緊張を解いた。
決して強くはないが、少し強めに傷に触れる。アルロはそれだけで落ち着くようだった。
それくらいなら、傷は悪化しない。
正直、痛むであろう傷に触れるのはマリーヴェルも怖かった。
けれどそこに癒しの力を少し込めれば、アルロは目に見えてほっとするようだった。
この力が、心まで癒してくれたらいいのに。
——心の傷は癒せないのよね・・・。
かつてシンシアが、ユートスを訪ねた帰り、寂し気にそうこぼしたのを覚えている。
母でも無理なのだから、マリーヴェルにアルロの心の傷を癒すことなどできないだろう。
けれど少しでもほっとできるのなら、この力をもっと精錬してアルロのために使いたかった。
「アルロ、私の訓練に付き合ってくれてありがとう」
そう言って笑って見せると、アルロは更に困ったような顔をするのだった。
とにかく繋ぎとめておきたかった。
アルロの行為はエスカレートする一方だったから。この痛みに陶酔して、この行為に依存してしまって、そのままどこか遠くへ行ってしまうような。
マリーヴェルは感覚的にそう思った。
痛みが足りないと言うのなら、頬をつねるなり、頭を殴るなりする覚悟もして、傷つけないで痛みを与えるにはどうすればいいのか、密かにぬいぐるみで練習したりしていた。でも、その必要は今のところなかった。
マリーヴェルがやめろと言わないから、アルロは隠そうとはせず、傷つけたくなったらマリーヴェルを訪ねるようになった。
そうしているうちに、アルロがマリーヴェルを頼る回数は1日に5回が1回になり、2日に1回になり。かなり緩やかに、それでも減っていった。
マリーヴェルは希望が見えたとほっとした。
これでまた以前のようにアルロが元気になるかもしれない。
そう思ったのに。
——アルロのそれは、また急激に回数が増えた。
マリーヴェルは悩んだ末、結局シンシアを訪ねた。
シンシアは執務室で仕事をしていたが、マリーヴェルの顔を見ると手を止めてソファに座り、手招きをしてくれた。
マリーヴェルはその隣に掛ける。
「どうしたの?」
ゆっくりと話を聞いてくれるのだと思うと、マリーヴェルは悩んでいたことがすっと口から出た。
「お母様、アルロがまた・・・傷を」
それだけ聞いて、シンシアは察した。
アルロと一番近くにいるマリーヴェルが、アルロの様子を感じ取らないはずがない。
自分で自分を傷つけていることも知っていたのか。
「——あ、もしかして、エラとの話を聞いていた?」
マリーヴェルは頷いた。
「——ねえ、お母様、アルロがどんなになっても、この家から追い出すようなことはしないわよね?」
「当たり前じゃない」
シンシアが即答して、それも強い口調だったから。マリーヴェルはほっとした。
思っていた以上にマリーヴェルは思い詰めていたようだ。
アルロの自傷行為が露見したら、離されるのではないかと思って。
それだけで一気に気持ちは軽くなった。
その勢いに乗って、マリーヴェルはポツリと話す。
「アルロ、良くなったと思っていたのに・・・また悪くなったの」
希望を持っただけに、その後の失望は大きかった。
アルロに失望したわけではない。——自分にだ。
アルロを少しは癒せたと思い上がっていた自分に。
「マリー」
シンシアは泣きそうに見えたマリーヴェルをそっと抱き寄せた。
「心配だったわよね」
「うまくいったと思っていたのに」
マリーヴェルが悔しそうに言った。
アルロの調子が悪くなったのは、おそらく、つい先日、アルロがレノンとの面会をしたからだろう。
シンシアも、アルロをレノンの元には行かせたくなかった。けれどアルロは追い立てられるようで。休日に一人で行ってしまいそうだった。
傷が良くなってきているとエラから聞いて、落ち着いてきたのだと判断してしまった。
まさかその裏に、マリーヴェルが関わっていたとは。
わかっていなかった自分を殴ってやりたい。
「傷を、マリーが治してあげていたのね」
「私は何も。アルロが傷を広げないようにしているだけよ」
「それでもすごいことだわ」
「良くなったと思っていたのに。だめだった。どうしたらいいの・・・このままだとアルロは壊れてしまう」
マリーヴェルは自分で言ったその台詞に戦慄したように、身体を震わせた。
「アルロが・・・壊れちゃう」
アルロは必死で抗っていた。
自分を傷つけることで、ボロボロになった心を守っていた。
けれど、生きるためにやっているその行為が、実はじりじりと死に向かって歩いている。
シンシアはマリーヴェルを抱きしめる手に力を込めた。
抱きしめるしかなかった。
アルロがレノンとの面会をしていることを、マリーヴェルは知らない。
レノンの事で恐怖を引き起こしたのは、ついこの間の事だ。思い出させたくはなかった。
腕の中のマリーヴェルは、まだこんなに小さい。
たった1人で傷ついたアルロを何とかしようとした日々は、さぞかし恐ろしかったことだろう。
「1人で頑張っていたのね。大好きなアルロの事だから。気づかなくてごめんなさいね。怖かったわね」
「う・・・うぅ」
マリーヴェルは嗚咽を漏らした。
シンシアはその背中を宥めるように叩く。
「マリー、大丈夫よ。アルロがどんなに傷ついても、私たちがずっと味方でいてあげましょう。それは私もマリーと同じ気持ちよ」
断ち切るべきだった。アルロとレノンの関係を。
アルロが会いたがっているからと、表面しか見ていなかった。
それは大人である自分のすべきことだったのに。
「お母様が、アルロと話すわね。どうにか、アルロがここを居場所と思って、安心して暮らしてくれたらいいのだけれど。だから、ここからは任せてくれるかしら」
マリーヴェルはやっと重い荷物を渡せたような気持ちになった。
まだ何も解決してはいなかったけれど。