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18. アイラの力

 エイダンの心配は幸いにもすぐ解消された。

 ペンシルニアからの伝書で、マリーヴェルは既に屋敷に帰宅している事が判明したからだ。

 湖の水が溶けたため原因を究明中、現地調査官の指示に従う事、とあった。

 やはり何か起きてはいるようだが、行っては駄目だとは言われなかった。

 長居はするなというのを言外に感じるものはあるが。

 更に末尾にこう付け加えられていた。

 ——アイラの側を離れず、言うとおりにしなさい。

 これはシンシアの意向を感じる。筆跡はライアスだったが、ライアスがこんなことを言うとも思えない。

 アイラと共に向かうとは言ったが、こんな事を言われるなんて。

 アイラが何らかの能力を持っているのだろう、と昔ライアスはエイダンに言ったことがある。自分の失敗体験でもあったから、その言葉の意味を今日まで聞けずにいた。

 シンシアとライアスは何か知っているのだろうか。

 今度ゆっくり聞いてみようと思った。

 

 心配事もなくなったから、エイダンにとってハギノル湖への旅は、予想外の、嬉しいおまけの旅となった。

 整備されていない道は却って変化があって面白かったし、ただ走り抜けるだけではない面白さもあった。

 珍しい植物や獣を見つけたり、野営の景色が美しかったり。

 アイラとたくさん話もできた。

 アイラは料理も得意で、エイダンが香草が苦手と言っていたから、獣の肉をワインで臭みを取って焼いてくれた。それが美味しくて、料理の時間まで楽しみになった。

 この旅を、エイダンは一生忘れないだろうと思った。皆にとっては普通の行軍の一つかも知れないけれど。

 自分にとっては、きっと二度とない特別な旅だった。

 そうして、数日後。

 その楽しい雰囲気も、ハギノル湖へ近づくにつれて薄れていった。

 ——空気が、重い。

 何がと言われても表現しづらい。それくらい微かな変化だった。

 息がしにくいような。どことなく窮屈な、重い感じがした。

 湖にたどり着いて、騎士等は現地の調査官と情報交換に向かった。

 調査官だという男がエイダンの側まで来て、頭を下げる。

 今はまだ何の成果もないという事だった。

「——なんか、おかしくないか」

 ゲオルグがそう言ったが調査官は首を傾げた。

「おかしい、と言いますと」

「ここはこんなに空気が淀んでいたか?冬だってのに」

 湖からの沙霧が立ち込めている。冬の朝の空気とは思えなかった。

 どうだ、と聞かれて、オレンシアも辺りを見渡した。

「重苦しいです」

 森は異様に静かだ。鳥の羽ばたきも聞こえない。獣達が息を殺して身を潜めているようだった。

 調査官は困り果てていた。

「湖の方には何の変化もないのです。家畜が落ち着かない様子だという以外、村にも変化はありません。強いて言えば魚が獲れない、と——ただ、今回同行している騎士の中にも、違和感を訴えるものはいるのです。しかし、それは肌の感覚で、説明が難しいというので」

 魔力探知機にも反応はなく、お手上げだ、とのことだった。

 エイダンは馬から降りた。

 我慢できないほどでもなければ、言葉にするのも難しい。エイダンはここへ来るのが初めてだから、元々こういうところだと言われたら納得する程度の空気だ。

 アイラも馬から降りて、すたすたと湖の方へ近づいていく。

「アイラ・・・あまり湖に近づいたら、危ないよ」

 アイラは答えなかった。

 湖の少し前で立ち止まり、すっと手を挙げた。

「————————え」

 エイダンは信じられない思いでその光景を見つめていた。

 アイラの体から、ゆっくりと光が浮き上がっていく。

 その光の元は、間違いなく魔力に近い。けれど今まで見たどの魔力にも相当しなかった。

 何かは分からない、けれどとてつもなく強大な力。

 そして、神聖なやわらかい光だった。

 その光が周囲を包み込む。

 魔力のない人間には、全く何が起きたか分からなかっただろう。けれどエイダンはその空気の揺らぎを確かに感じ取った。

 光はやがて広範囲に広がっていった。

 一瞬の事だ。それでもう光は消え、辺りには清浄な空気が流れた。重苦しかった空気が、もう跡形もない。

「今の——」

 エイダンが話しかけようとした時——。

 目の前の水面が、揺れた。

 凍りかけていた水面がぐん、と揺れる。

 何か気配を感じてエイダンは目を凝らした。咄嗟にアイラの前に体を出す。

 水面が盛り上がる——いや、何か巨大なものが、水から出てこようとしている。

 それはみるみると水面から背高く首を天に伸ばした。ものすごい水飛沫が周囲を跳ね、かなり離れたエイダンらのところまで飛んでくる。

 ゆっくりと姿を見せたそれは、古代の伝承の中でしか見たことのない姿をしていた。

 銀光りする鱗に覆われた、巨大なドラゴン。翼はないが、代わりに幾重にも連なるヒレが蠢いている。

 ——リヴァイアサン。

 今まで見たどの獣よりも大きい。家程の大きさもある体を伸ばし、動くたびにキラキラと鱗が虹色に光った。

 息をすることも忘れて魅入ってしまう程の、恐ろしい美しさだった。完全な生命体を前にしたように体が動かなかった。

 反応できるようになるよりも早く、リヴァイアサンは水上のあらゆるものに一切の興味も示さず、またすぐに水底へ潜り姿を消した。

 ただ、水面で体を伸ばしただけ、というような。

 どれくらいの時間かわからない。誰も微動だにせず、一言も発さない時間だった。

 夢でも見たのかと思ったほど、今は水面も静かだ。

 ただ、目撃した一行の反応を見て、自分も幻ではなかったのだと確認する。

「——見たか」

「嘘だろ」

「今の、何だ・・・」

 そんな、恐怖の中から出るような静かな呟きがいくつか聞かれたのみだった。

 エイダンはアイラを見つめた。

 何か知っているのだろうか。そう思ったが、アイラはエイダンの方を見て、にこっと笑っただけだった。

「すごいのが出て来たね」

「すごいどころか・・・」

 ハギノル湖にはリヴァイアサンが棲んでいる。

 だが、これまで同様、おそらくどれほど調べつくしても見つけることはできないだろう。

 あれは人間の範疇にない生き物だ。

 とんでもない魔力の塊。その気になれば領地一つ、あっという間に焦土と化してしまう。

「大丈夫だよ。また眠りについた」

「あれが?眠ってるの?」

「古代の生き物達は、皆、深い深い眠りの中にある」

 アイラが言うとお伽噺ではないように聞こえる。

「それが、目覚めていたから眠らせたの?」

「あれだけじゃなくて、この一帯の獣たちが侵されていたみたい。あれは、それで起こされただけ」

「侵されて・・・?一体、何に」

「うーん・・・黒い、暗闇のような、じわじわと広がる、良くないもの」

 アイラの言葉は抽象的だった。

 けれど、わかる気がする。何となく肌で感じた、この湖を取り囲む嫌な重苦しい空気がそれだというのなら、あれは良くないものなのだろう。

「——それはどうして発生したの」

「それはわからない。でも、今はもうないよ。どこにも」

「そうか・・・」

 それを聞いて安心、とはならなかった。

 いつまた自然発生的に生じるか、誰かの作為的なものなのかも、その正体もわからないものだ。

「今回の事、両親に報告してもいいかな」

「もちろん。何があったかは説明できないけど」

「うん」

 それでも、この地に起きていることを一度整理した方がいいだろう。

 何かが起きている。

 エイダンは静かになった水面を見つめた。

 そこはただ静かな冬の湖、そのものだった。




 アイラとは結局王都まで一緒に帰ってきた。

 ワイナリーに帰らなくていいのかと聞いたら、一旦王都の自宅に帰る、と言う。冬の間はそれほどすることがなくて暇だから、ということだった。

 エイダンとしても、別れるのは心配だったし、何か聞きたいことがあった時のためにも王都にいてくれた方がいい。

 王都の葡萄亭の少し手前まで送り届けてから、エイダンは屋敷に帰宅した。馬はペンシルニアで預かることになった。

 軍馬に囲まれて一回り小さいが、今回の旅程ですっかり他の馬とも打ち解けた様子だったし、ワイナリーに急いで返す必要もないとのことだったから。

 屋敷に着くと、先触れをきいていたライアスとシンシアが揃って出迎えてくれた。

 約20日ぶりくらいだろうか。

 こんなに長く家を開けたのは初めてで、たったそれだけの期間だと言うのにひどく懐かしい。

 エイダンは馬から身軽に降りて、挨拶をした。

「ただいま帰りました」

「お帰りなさい。無事で良かったわ。———」

 シンシアは少し迷っているようだった。話したいことは多いが、まずは休ませたい。

「身支度だけ、整えてきます。先にご報告を」

「大丈夫なの?」

「はい。僕も、色々と聞きたいことがあるので」

 シンシアとライアスは顔を見合わせた。

「では、父上の執務室で待っているわね」

 防音も効いている上に、広くて応接セットも完備されている。ゆっくり話を聞くには最適だ。

 エイダンは頷いて、支度に向かった。

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