15.
結局、湖の氷が突然溶けた原因は不明だった。
地底の火山が活性化したのかもしれない、というのが今のところ一番有力な説、ということだが。
とにかく、トラブルがあったのでやはり早く帰ろうということになった。ユートスの体調のこともある。
一行は予定より早くハギノル湖を出立することを決めた。
入れ替わりで調査団が派遣されるらしい。
マリーヴェルはあの夜アルロと話した事は、まるで無かったことのように振る舞った。
だからアルロも、狼が出たことも言わなかった。
あの時、狼は血走った目で、どこか常軌を逸しているように思えた。——が、マリーヴェルの口からそれを言う事はできない。
今回の不可解な出来事は主に湖の氷が突然溶けたこと、だ。
馬車に乗ろうとするところで、ぽん、とユートスがマリーヴェルの頭を撫でた。
「予定と違ってしまったな。がっかりしていないか?」
気遣ってそう言われたが、マリーヴェルはあっさりと笑った。
「目的の釣りはできたし、楽しかったわ。魚も美味しかったし。早く魚をお母様とお父様に見せたい」
「そうか」
「みんな怪我がなくて、何事もなくて良かったわね」
見渡す限りの騎士たちに声をかけると、皆が胸に手を当て頭を下げる。
マリーヴェルが湖に落ちてさぞかし肝を冷やしただろう。
ユートスが馬車の入り口に立って、マリーヴェルに手を伸ばした。
「また調べて報告させるから。心配しなくていい」
マリーヴェルはその手を取って首を傾げる。
「噴火っていってたけど・・・魚達は大丈夫なの?」
湖の水も氷のように冷たかった。
確かに、噴火の前兆も全くなかったし、湖の水温が上がっている様子はない。活火山なら、魚の死骸が岸辺に流れ着いてくるだろう。
だからこそ対応できなかったのだ。少しでも事前に異変があれば、近づいてはいない。
「マリーヴェルは賢いな」
「あの時・・・白熊に火を放ったから氷が割れたんじゃない?」
試しに言ってみると、その騎士は慌てて手を振った。
「そ、そんな!私はそこまで強力な使い手ではありません!」
まあ、それもそうだ。
火の魔力は王家が強く、今一番強いと言われているオルティメティでも、湖の氷全てを溶かすのは難しいだろう。
「言ってみただけよ」
マリーヴェルはふっと笑って、髪を後ろに払った。銀のストレートの髪がひらりと宙に舞う。
マリーヴェルはユートスの手を借りて馬車に乗った。
今までも、出掛けるたび危険に晒されてきた。
誘拐されそうになるのもいつものことだし、出先で爆発が起きたり、襲い掛かられたりもよくある。
大体が国外からの刺客、と聞いている。金の眼のマリーヴェルを奪おうとして。
ほとんどがマリーヴェルの遠くで起きて、また静かに処理されていく。今回もきっと、何らかの陰謀があったのだろう。
出かける度にそんな事になっているなら、もう出かけない方がいいのかと思っていた。前国王の旅行ならかなりの警備だから、便乗すればよいかと考えていたのに、結局こんなことになった。
それでも、今回は怪我人もなさそうでよかった。
シンシアのようにペンシルニアにいるようにするから、と言ったら、シンシアが悲しそうな顔をして、ライアスはその必要はない、と言った。
——完璧に守ってみせるから。そんな心配はせず、やりたいことをやりなさい。
そうは言われても、自分のせいで誰かが怪我をするかもしれないと思えば、遠出する気にはなかなかなれない。
だがライアスのその言葉通り、今回も中隊規模とはいえ、騎士団長まで付き添わせる厳重さだった。
湖に落ちてから迎えに来るまでが迅速だったのも、ダンカーの采配だろう。
だから、大丈夫だ。
マリーヴェルは走り出した馬車から、遠くの湖を見た。
湖は再び凍りそうになっていて、あちこちに氷が浮かんでいる。
何が起きても、ペンシルニアの者達が守ってくれる。
マリーヴェルがどれほど無力でも。アルロに闇の力があっても・・・。
翌日、ペンシルニアの屋敷で降ろされたマリーヴェルはシンシアに出迎えられた。
途中の街までライアスが出向き、迎えに来ていたので、かなり心配をかけたようだというのは思っていたが。
「——湖に落ちたって聞いたのよ。怖かったでしょう」
マリーヴェルは泳げない。濡れるのが嫌だと言って今日まで来た。
「アルロが助けてくれたの。ずっと離さずに、岸まで引っ張ってくれて」
マリーヴェルが言うと、シンシアはアルロに頭を下げた。
「ありがとう、アルロ。本当にありがとう」
「や、や、やめてください。とんでもないです。僕は、ただ・・・」
これ以上はアルロが耐えられないと言いそうなので、シンシアは顔を上げた。元気そうな二人ににっこりと笑う。
「さあ、中に入って、ゆっくりしましょう。北方地方は寒かったでしょう」
シンシアは行ったことがない。マリーヴェルの話を楽しみにしていると伝えていたから、マリーヴェルも話す気満々だ。
王室の馬車はもう行ってしまって、残ったペンシルニアの騎士たちも荷ほどきを始めていた。
マリーヴェルは部屋にたどり着くのも待ちきれずに、馬車での旅、釣りの事、北方の景色の事と、息つく暇もないほどに歩きながら話し続けた。
「お祖父様が4匹、私が6匹も釣ったのよ」
「まあ、6匹!」
「湖の魚って、少し臭いの。でもね、燻製にしたらとっても美味しいのよ。それに、長持ちするんですって!」
「じゃあ、エイダンにも食べてもらえるわね」
「そうね。ああ、みんなの分も釣れれば良かったんだけど」
そう言ってマリーヴェルは歩きながら、通りすがりの使用人らに目をやる。
「うちの皆にってなると、湖の魚が皆いなくなっちゃうわ」
「お気持ちだけで。ありがとうございます」
通りすがりだったメイドの1人がそう言って、にこやかに頭を下げる。
マリーヴェルの興奮は冷めない。
「ああ、すごく楽しかったわ」
「1人で寂しくなかった?」
「アルロもレナも、お祖父様もいたもの。全然!」
そこまで断言されると、嬉しい反面少しだけ寂しいような気もする。
「お母様こそ。私がいなくて寂しかったんじゃない?」
見透かされたように言われて、シンシアはまあ、と目を見開いた。
「そうね。マリーがいないとお屋敷が静かで、寂しかったわ!」
そう言って抱きしめると、マリーヴェルはくすくすと笑った。
無事で良かった。シンシアは腕に力を込めて、マリーヴェルの柔らかな体を抱きしめた。
数日経っても、調査の結果はあまり成果がなかった。
夜遅く、子供達が寝静まってから、この日シンシアはライアスと執務室にいた。
ここのところ、夜になれば報告書と睨み合う毎日だ。
「あの村は人口も少なく、出入りする人がいればすぐにわかるはずなのです。——見かけない人間はいなかったと言われています」
「湖周辺も人の気配はなかったと言っていたものね」
ファンドラグと最も敵対関係にあるシャーン国は、国境が西に位置する。ハギノル湖とはさすがに遠いし、あの国もまだまだ立ち直っていない混乱の中だ。こちらに何か仕掛ける余裕があるとも思えない。
北の国はかなり険しい山を超えなくてはたどり着かない。冬の山越えは自殺行為だ。
とはいえ、道がないわけではないだろうが。結局、誰の仕業かが分からないし、湖の分厚い氷を溶かす方法からしてわからない。
「手がかりが全くないというのも、不思議な話ですね」
普通、痕跡は何かしら残るものだ。
「唯一、手掛かりというのか・・・獣が凶暴化したという情報くらいでした。家畜が襲われる頻度が増え、村の塀が一部壊されたり、といった程度ですが」
「凶暴化・・・」
シンシアは深刻な顔で考え込んだ。
今、エイダンは12。この冬で13になる。魔王復活まで、あと2、3年だろうか。
けれど、兆しがあるのだとしたら・・・?
『魔王が出現し、人々は病に倒れ、獣は魔物となり人を襲った——』
シンシアが覚えているのはその程度の情報だ。
——獣が魔物となり人を襲う。それは、どういうことなのだろう。この凶暴化とは違うのだろうか。
「シンシア・・・?」
長い間黙っていたから、ライアスが心配して声をかけた。
「あ、すみません。考えていて・・・」
「何が気に掛かりますか」
一瞬、なんでもないと言おうかと思った。しかしライアスの目が気遣うような眼差しで。
「・・・獣が凶暴化、というのが。——何かの前触れでなければいいのですが」
「前触れ、ですか」
ライアスが不思議そうにした。
シンシアはこれまで、時間をかけて王宮の古文書を調べていた。
しかし、分かったことはほとんどなかった。
かつて魔王という者がいて、光の力がそれを滅する。絵本で巷に知られている昔話と同程度だ。
ファンドラグで光の力が尊ばれるのは、古代、魔王を斃し国を建てたからとお伽噺で言われている。
魔王というのが何かの自然災害の比喩では、と説く者もいた。でも、前世で読んだ小説では確かに魔王と勇者は剣を交えたはずだ。
少なくとも人の形をしているのではないだろうか。
「何か病気が流行ったりはしていませんか?」
「病気、ですか?そういう話は聞きませんでした」
「そうですか・・・」
魔王が出現してからの病、というのは、ただの病ではないのだろうか。ただの病なら、治癒師が直せるはずだ。聖女も必要ないだろう。
「シンシア、考えていることがあるのなら言ってください」
シンシアはライアスの濃茶の瞳を見た。今ではもう、この人の強さと信頼と愛を、疑うことはない。
けれど、どう言えばいいのかわからない。
魔王という言葉自体、耳馴染みのないものだ。前世で魔法使いと言うようなものだ。
「・・・・うまく説明できそうにないのですが」
「構いません。どういったことが気になっているのか、単語だけでも」
ライアスが心底心配し、何か力になりたいと思ってくれているのが分かる。
そっと手を握り込まれた。それに力を得るようで。
「闇とか、魔とか・・・そういった、古代の情報の」
「調べましょう」
本当に断片的に、言葉だけだったのに。ライアスはしっかりと頷いた。
「この数年、ファンドラグで調べても成果がなかったのですよね。他国の密偵に古代の情報を集めさせましょう」
不安そうにするシンシアの肩を抱いて、宥めるように撫でた。
「シンシア、貴方が何を案じているのかわかりませんが、言葉にできなくとも、気掛かりがあるのでしたら、徹底的にできることはします。任せてください」
言葉が足りなくても、絶対的に信じてくれる。
「ありがとうございます」
シンシアはライアスの胸に顔を埋めた。