14. 闇の片鱗
寒くて、寒くてたまらなかった。
真昼だというのに、鬱蒼と茂る木々のせいで太陽の光はほとんど入らない。
気が付けばマリーヴェルはアルロと2人きり、岸辺に倒れるようにして辿り着いていた。
「姫様、ご無事ですか。お怪我は」
「だ、だいじょうぶ。さむい、だけ」
本当に寒くて、上手く舌が動かなかった。
激しく咳き込んだが、そんなに水は飲んでいない。アルロが支えてくれたから。重たい衣服に沈んでもおかしくなかったのに、なんとか岸までたどり着いたようだ。
湖を見れば、氷はどこにもなかった。すっかり溶けてしまっている。同じ湖とは思えない程景色は変わってしまっていた。
湖なのに、流されたのだろうか。
重くなった上着を脱ぐと、アルロが水を絞ってくれた。
濡れていて寒いが、着ないよりはまだ着ていた方がましだ。震える手で必死に服を寄せた。
「——すぐに騎士達が来るでしょうから。ここで待ちましょう」
マリーヴェルは頷くのがやっとだった。
一体何が起こったのか。
周辺を見渡してもただの森で、人の気配もない。冬の森の、不気味な静けさだった。
小刻みに震える体を、アルロが抱きしめてくれた。手を包み込んでくれる。
アルロの手の方が、ほんの少し、温かい。
「姫様、痛いところは、ないですか」
「うん」
はあ、と息をかけて手を温めてくれる。
それくらいしかできなくて、アルロはもどかしくてならなかった。
自分に魔力があれば。マリーヴェルを温めることができただろうか。もしくはもっと屈強な身体があれば、抱きかかえて湖畔を走り、村へ戻ることができたかもしれない。
さほど流されてはいないはずだ。しかし、騎士が来るまであとどれくらい待てばいいのだろう。
ギリギリ足はつくほどの深さだった。だから何とか、マリーヴェルを抱えて岸まで上がることができた。
がさ、と足音がする。
もう誰か来たのか、とそちらを見て、2人はぎょっとして固まった。
狼が、銀光りする目を向けながらこちらへじりじりと近づいてきていた。
慌てて周囲を見渡せば、音もなくいつの間にか狼の群れが2人を取り囲んでいた。
「お、大きい・・・」
犬しか見たことのないマリーヴェルにとって、森の狼は恐ろしい獣だった。
低い姿勢で、少しずつ距離を詰めて来る。10匹近くいるが、数える余裕もなかった。いつ飛び掛かられるのかと、息をすることもできない。
確実に、獲物を見る目をしている。そうっと、少しずつ、ゆっくりと歩を進められる。興奮した口元から涎が溢れていた。
犬の牙というのは、あんなに大きくて鋭く見えるものだっただろうか。
ぎゅっと、アルロがマリーヴェルを強く抱きしめた。
アルロ、駄目よ。
マリーヴェルは恐怖の中で叫んだ。声にはならなかったが。
アルロがマリーヴェルを庇おうとしている。アルロは襲われても、何とか自分を守ろうとするはずだ。自分の代わりにアルロが狼に食べられてしまう。マリーヴェルにはその傷を癒す力もないのに。
そんなのは、嫌だ。
助けて、お父様、お母様、お兄様・・・!
マリーヴェルはぎゅっと目を閉じた。
体を強張らせて衝撃に耐えようとして——。
しかし、襲い掛かられる衝撃は、いつまでもなかった。
代わりにアルロの腕の力が緩んで、マリーヴェルは恐る恐る目を開けてアルロを見た。
アルロは瞬きもせずに、狼たちを見つめていた。その黒い眼が、キラキラと星を有しているように光っている。
「アルロ・・・?」
アルロは返事をしなかった。不自然に、狼たちが静止している。アルロがそれを見つめている。
アルロが何か、しているように見えた。
どれくらいの時間がたっただろうか。ぽたぽたとアルロから水滴が落ち、それが汗なのだと気づいて、それでも何もできなかった。少しでも動いたらアルロの邪魔をするようで。
アルロも、狼たちも微動だにしていなかった。
やがて遠くから馬の蹄の音がする。
それがどんどん近づいてきて、狼たちが弾かれたように駆け出して逃げていく。
「マリーヴェル様ー!!」
聞き慣れた騎士の声だった。
はっ、とアルロが息を吐いた。そこで初めて呼吸を思い出したかのようだった。
「ここよ!」
マリーヴェルは叫んだ。それと同時に、アルロの体はその場に力なく崩れ落ちていった。
「アルロ・・・アルロ!?しっかりして、アルロ!」
体は限界だった。間に合って、よかった・・・。
アルロは意識を手放した。
ペンシルニアに拾われた頃からだろうか。
自分の中に「それ」があるような気はしていた。
けれど、深く深く、深淵にあり、それを引き出すのは並大抵のことではないと思っていた。
要らないものだと思っていた。
だから、もう諦めて手放せばいいと思っていた。
そんなものはなくても、もう生きていける。
むしろきっと、父はまた・・・。
だが、マリーヴェルが危ないと思って。
アルロは躊躇なく「それ」に手を伸ばした。
それはかつて「闇の魔力」と呼ばれたものだった。
周囲の人を不幸にすると言われている魔力だった。——でも、マリーヴェルを守れるのなら。
無理やり引き起こした反動はすさまじく、頭は割れるように痛み、耳鳴りは激しく、全身の血が沸騰するようだった。
それでも、その魔力の動かし方を、アルロは本能的に知っていた。
それをどうすれば獣たちの体を動かせるのかわかっていた。
何年ぶりかのその使い方を誤ることはなかった。
同時に10匹を統制するのはとてつもない苦しみを伴ったが、それでもやり遂げた。
マリーヴェルを助けに来た騎士を視界の端に見た時、アルロはもう、死んでもいいと思った。
「アルロ・・・アルロ」
か細い声が聞こえる。
アルロは重い瞼を開けた。
辺りはもう暗かった。
ふかふかの温かいベッドに寝て、心地よい感覚に包まれている。手には柔らかい感触。
見れば、マリーヴェルがすぐ近くで手を握っていた。手がポカポカと温かい。
マリーヴェルの魔力が、ごくわずかに流れてきているようだ。
「アルロ、ああ、目が覚めたのね」
マリーヴェルは自分で目を拭った。泣いていたのだろうか。
「はい・・・あの、僕」
「けがはないのだけど、気を失っていたのよ。どこか、つらいところはない?」
「大丈夫です・・・」
体は少し重いが、気を失った時ほどのつらさはない。
体を起こすと、宿泊していた宿だった。夜中なのだろう、辺りは静まり返っている。
マリーヴェルも寝間着だった。部屋には誰もいない。もしかしたら抜け出してきたのかもしれない。
「良かった。治癒師は、疲労だからそのうち目覚めるって言ってたんだけど」
「はい。大丈夫です。姫様、もしかして力を使われたのですか」
今までも練習台といって何度か擦り傷に手をかざされたことはあったが。その時は全く変化を感じなかった。
「何もできないけど、せめて・・・。結局私では、何もできないわ」
いや、今までと違って、確かに魔力の流れを感じた。マリーヴェルの切実な思いが、癒しの魔力を高めたのだろうか。
「ありがとうございます。楽になりました。姫様、お体は」
「なんともないわ。——何だったのかしら、氷が割れる季節でもないのに、って。それにあの時、狼が、動かなくなって・・・」
「ぼ、ぼく・・・その・・・」
アルロはゴクリと唾を飲みこんだ。
言わないわけには、いかないだろう。
隠して仕えることなど到底できない。そうなると、マリーヴェルに拒絶されることも覚悟しなくては。
そう思うと声は乾いていた。
「僕は、・・・闇の力の発現者です」
「闇って、人を操るっていう?」
「はい」
マリーヴェルは、それを聞いて黙った。
これまでずっと心配そうな顔をしていたのから、急に真顔になる。
今まで見たことのない表情だった。何を考えているのかが、読み取れない。
急にひどく大人びているような。
「もともと、ずっと隠してたの?」
「い、いえ・・・ずっと使えなかったんですが、必死で」
しばらく沈黙の後、マリーヴェルは低い声で静かに言った。
「——アルロ、このことは、誰にも言わないで」
「え・・・?でも」
マリーヴェルは真剣な顔をしていた。有無を言わせない、力があった。
「命令よ。私の言う事は絶対でしょう?」
「でも、闇の魔力は・・・周囲を不幸にすると言われていて。・・・この力でもし、姫様に、危険があっては」
「危険なんてないわ。狼からも私を守ってくれたでしょう?」
ぐっ、と手に力が入る。
「絶対に、魔力の事は誰にも言わないで。約束して」
魔力は魔力人形のような測定器を使わなければ、普通は保有しているかどうかわからない。力を使わない限り、誰かに感知されるということはない。
マリーヴェルの言い方が恐ろしい程真剣で、アルロは気圧されるように頷いた。
「は、い・・・」
この時アルロは、不思議に思っていた。
マリーヴェルに拒絶されるかもしれないと思ったのは、闇の魔力が母親に気持ち悪いと言われていたからだ。拒絶される決定的な原因になった。
けれどマリーヴェルは闇の魔力自体がどうという様子でもない。不幸を呼ぶという迷信を知っているようでもない。
それなのに、なぜここまで秘密にすることを念押しするのか。
それも、思い詰めたような顔で。
「姫様・・・何か・・・」
何かあるのだろうか。闇の魔力は、やはりファンドラグでも受け入れられないのだろうか。
光の魔力を有する国だから。
「いいえ」
マリーヴェルはきっぱりと言い放った。
「アルロは何も心配しなくていいの。何も、問題ないわ。何も——」
その言い方が、少し怖いような気迫さえ感じた。




