6.
——ああ、泣いてる。子供が泣いてる。
「泣いてるよー」
重い体を起こそうとしたところにそう言われ、カチンと来る。
同じ部屋にいるんだから、もちろん聞こえてる。
夫はパソコンをカタカタと打って、視線も外さない。
『お風呂が、わきました』
給湯器の声が赤ん坊の泣き声と合わせて響いた。
今の私にとって、あの声の方がよっぽど有益だ。
聞こえてることをわざわざ言う意味って、何なの?
私は手元のアイロンの電源を止めて、はあ、とため息をついた。
仕事なんだよね。わかってるよ。仕事させてあげたいけど。
いいよね集中できてさ。
一つの作業を最後までできないストレス。中断、中断・・・。
せめて夜この時間だけでも、いや、1個だけでも、家事に集中させてくれないものか。
「ねえ、ゆう君。私疲れちゃったよ」
そう言うと夫はやっとパソコンの手を止めた。
「アイロン終わるまで、愛ちゃん抱っこしといてくれない?」
ほんの5分だ、多分。
夫は決して優しくないわけじゃない。
なのだけども。
ええー、とにこやかに言ったのだ。
「俺、嫌われてるからさ。愛ちゃんは俺が抱っこしても嬉しくないと思うよ」
「それでも父親!?」
——はっ。
自分の叫び声に目が覚めた。
懐かしい思い出だ。
前世で、長女を産んだ時の。
はあ、と息を吐いて、普通に寝巻きにベッドの上なのに気づく。
確かソファで寝たはず。
呼び鈴を鳴らせばメイアがすぐにやってきた。
「奥様、気がつかれましたか」
「私、寝てたのかしら」
「寝て、だなんて。気を失ったようなものです。魔力の使いすぎです。体力もないところへ、馬にも乗せられて」
なるほど、あの目の回るような気分の悪さが、魔力切れってやつか。
「どんな状況なのかしら」
「丸一日眠ってらっしゃったんです」
「エイダンは?」
「坊ちゃまはご無事です」
「怪我人は?まさか、誰か死んだり・・」
「程度に差はあれ、皆命に別状はありません。奥様が去った途端、襲撃者も撤退を始めたようで」
「夫は?」
「オレンシア卿と出合って即座に引き返し、襲撃に気付いたのです。そこから奥様を屋敷にお連れして——」
一夜明けて何をしているのか、それが問題だ。
「屋敷にいるの?」
「あ、その」
いないのね。
襲われた子供と倒れた妻を置いて。
「捕らえた者を王城へ移送し、そのまま尋問をしていると聞きました」
メイアは青い顔でそっと手を握った。
「ご気分はいかがですか」
「もう大丈夫よ」
私は立ち上がってみた。うん、いつも通り問題ない。
「着替えて、エイダンの所に行くわ。それから夫に伝令を。私が起きたって」
色々と考え直した。
いないものを待っていても来るわけじゃない。
来ないなら呼ぼう。
「会いたいと言っているって伝えて」
「まあ・・・」
メイアが驚いたように声を上げた。
そうよね、過去のことを思えば、おかしいと思うよね。
毛嫌いしていた夫に歩み寄りを見せるなんて。
やっぱりエイダンのためにも、父親があんな調子じゃ駄目だ。そして、もしその原因が過去の私が放った暴言のせいだとしたら・・・。
やっぱり、けじめをつけなければ。
私の事を嫌だと思われているかもしれないけど、そこはエイダンのために我慢して欲しい。
そもそも、エイダンに嫌われていようと、傷だらけになろうとも。父親なんだからめげずに来てほしいところだ。
神殿に行って聞こえてきた会話を思い出す。さっさと帰ってしまって、肝心の襲撃の時にいなかったライアスも。
このままじゃ駄目でしょ。
エイダンはお昼寝をしていた。
朝一通り遊んで、電池が切れたように眠っている。
今日はバンザイポーズで、両手におもちゃを持っていた。馬と、ラッパだ。
「ふふ。どこかへ遠征ですか?騎士様」
並んで横になって、すうすうという穏やかな寝息を聞いていると、私もまた眠くなってくる。
良かった。
無事で良かった。
我が子があんな風に危険に晒されるなんて。
もっと気を引きしめないと。
「ママが守るからね、えーたん」
上下する胸にそっと手を乗せる。服の上からでも高い体温がわかった。
ふわりと体にかけられた物の気配で目が覚めた。
真っ赤なマントが、自分の上にかけられている。
また眠ってしまっていた。エイダンといるとすぐ寝てしまう。
体を起こすと目の前にライアス。
「あっ」
難しい顔をした夫だった。
いつも眉間に皺を寄せているな、この人。
「貴方は、いつも床で寝ているのですか」
久しぶりの会話がそれ?
とは思ったが、顔に出したところでいいことはない。私はにこりと笑った。
「エイダンといると、ついつられて眠ってしまいますの」
「ベッドでもなく・・・」
確かに、ベビーベッドではなくてエイダンは床にマットを敷いて寝かされている。
エイダンが私と過ごすのに慣れたせいか、ベビーベッドだと柵を掴んで大泣きするようになってしまったからだ。
目覚めてすぐ走り出せないからだろうな、きっと。
「お帰りなさいませ」
色々言いたいことはあるけどとりあえずそう言えば、ライアスも驚いたような顔をする。
「ただいま・・・戻りました」
「お仕事の方は大丈夫でしたか?」
まだお昼ご飯前だ。帰るとしても夜だと思っていたのに。
「お呼びと伺いましたので」
言われたら来るのか。
神殿の帰りも、一緒に帰りましょうって言うべきだったのか?
あくまで上司にするように、ひたすら丁寧に接されても。
いや、そうさせるだけの罵詈雑言を浴びせ続けてきたのは、私だ。
「あの・・・少しお話、よろしいですか」
「はい、何なりと」
少し緊張したようなライアスに、わざと手を差し出した。ライアスは少し迷った後、その手を取って引き上げてくれる。
たくましくて大きな手だ。
私は乳母を呼んでエイダンを任せ、ライアスと場所を移した。