2.
治癒師の元で包帯を巻いてもらい、肩には薬を塗ってもらった。
騎士にはつきものの怪我だから、と軟膏を処方されて、勉強部屋へと戻る。
マリーヴェルは授業を受けていたので、その後方にそっと控えて途中から参加した。
幸いマリーヴェルはちゃんと授業を受けてくれていた。時々開くページが違うが、アルロがいなかったので先生がちゃんと面倒を見てくれていた。
「——はい、今日はここまでで。次は課題が多いですから、できるところまでしてきてくださいね」
「はい。ありがとうございました」
マリーヴェルがお辞儀をして、アルロも頭を下げた。
「アルロ君、もう大丈夫ですか?」
「はい。ご心配をおかけしました」
先生は良かった、と言ってくれて、ではまた、と去っていった。
それを頭を下げて見送っていると、その手首をがしっと掴まれる。
「行くわよ」
「えっ・・・」
治癒師の所にはちゃんと行ってきた。そう思い後ろに一歩下がると、マリーヴェルはまた一歩詰め寄って来た。
「誰にやられたのか、言って」
マリーヴェルは肩を指した。アルロは腰が引けたまま俯く。
「本当に、この程度、何ともありません。姫様、どうか、気になさらないでください」
「こんなに真っ青じゃない!」
「でも、少しも痛くないですから」
マリーヴェルの方が痛そうな顔をした。
「痛くないわけ、ないでしょう?」
「でも、こんなの、——」
父親の所にいた時は、いつもの事だったし。
どこからが痛いなのか、よく、わからない・・・。
でもこれを言うとマリーヴェルがもっと怒りそうだったから、アルロは黙った。
黙ったものの、マリーヴェルは察したようだった。
「やっぱり許せない」
マリーヴェルは静かに怒りを含ませた声を出した。
「アルロが言わないなら、今から訓練所に行って聞いてくるわ」
「ひ、姫様!待ってください・・・!」
マリーヴェルが走り出そうとして、廊下の向こうから歩いてくるエイダンが目に入った。
エイダンの部屋はマリーヴェルの勉強部屋と同じ2階にある。
エイダンはゆっくり歩いてくると、呆れたように首を傾げた。
「廊下で大声を出して、何やってるの?」
「アルロが怪我してるの!」
「ひ、姫様・・・」
憤慨するマリーヴェルと、それを必死で止めようとするアルロ。——エイダンはすぐに察した。
「その肩の打ち身なら、僕だよ。さっき手合わせした」
「なんですって?」
「何か問題?筋肉つけてほしくて、訓練を勧めたのはマリーでしょ」
エイダンはやれやれ、といったように言った。
「訓練中に多少の怪我をするのは当たり前だよ」
「それにしたって。ついこの前始めたばかりのアルロを、どうしてお兄様が手合わせするのよ」
「別に全力でやり合うわけじゃないんだから。実力の合う相手とばかりやるわけじゃない」
「あ、あの・・・姫様、そうなんです。稽古を、付けてくださっただけで・・・」
「あー、そうそう、まあ、ちょっと動きを見てみただけだよ」
エイダンは僅かに良心がとがめて、少しだけ視線を逸らした。
本当はもっと手加減をするつもりだった。タンが、近年まれにみる逸材かもしれない、なんていうから、気になって動きを見ようと思って。
そうしたら、思いのほか俊敏で、つい力が入ってしまった。
「動きを見るだけで、こんな痣を作るの?」
「僕もよく作ってたけど」
マリーヴェルは納得していない様子だった。
「お兄様、アルロをいじめたりしてないわよね」
「なんで僕がアルロをいじめるんだよ。なんなのその発想」
「・・・・・・・・」
マリーヴェルはじろりとエイダンを見つめた。
昔から自分がアルロを追いかけると、この兄はいい顔をしない。まさかそんな陰険なことをするだなんて思いたくないけれど。
「何だよ。マリーが言ったんでしょ?筋肉つけろって」
そう言われてマリーヴェルの瞳が揺れた。
「怪我をしてまで、鍛えてほしいわけじゃないもの」
元気になってほしくて、筋肉つけたらって言ったのに。
そりゃあ、父のように筋肉があったら素敵だと思ったけれど。逆に怪我するんだったら、もう——。
「姫様・・・僕、続けたいです」
マリーヴェルは言われて振り返る。
「その、最近楽しくなってきてて・・・」
アルロの目は今までになく輝いていた。いつも精気のない目をしていた。もしくは、優しく穏やかで、凪のような。
マリーヴェルの好きな黒い瞳が、初めてキラキラとしたのを見れば、それ以上何も言えなくなる。
「わかったわ」
マリーヴェルはアルロに向き直った。
「でも——だったら、もっと自分の体を大切にしないと。怪我をしたらちゃんと治療を受けて。痛いのを我慢しないで」
「が、我慢してないです」
嘘は言っていない。アルロは真面目な顔でそう言っている。
「じゃあ、ちゃんと気を付けて。傷があったら治療して」
マリーヴェルだったらあんな傷があったら大騒ぎしていると思う。
もどかしくて、でもアルロが楽しそうだから。
「——ああ、やっぱり私、魔力の勉強もする!お母様に言うのは嫌なんでしょ?私の治療だったら、受けてくれる?」
「え、あ、その・・・」
アルロはちら、とエイダンを見た。
自分なんかが、光の治療を受けるのは分不相応だと思うのだ。
だがエイダンの答えは意外なものだった。
「いいんじゃないか?練習台になってもらいなよ」
「その言い方やめてくれる」
マリーヴェルが低い声で返す。
今まで身の入らなかった魔力の勉強の方にも、アルロのおかげでやる気が出るなら悪くはないだろう。
エイダンはそんなことを考えながらそのまま部屋を通り過ぎていった。
その後ろ姿をしばらく2人で見つめてから、さて、とマリーヴェルが気を取り直すように言った。
「さ、次の授業、何だっけ」
「次は古典です。その後マナーです」
「宿題あったかしら」
宿題もあったし、部屋にあったはずの教材もマリーヴェルは忘れてきている。
これもいつものことだ。マリーヴェルはあらかじめ準備をするという事もないし、宿題もアルロが手伝わないとやらないし、把握すらしていない。
そのための侍従なのだろうと思っているので、アルロはすぐに荷物を取りに行った。
その日全ての授業が終わり、マリーヴェルはその場に崩れ落ちた。
特にマナーの授業は、長時間同一姿勢を保っていたり、何度も立って座ってを繰り返したり。
8歳にはなかなかに厳しい内容だと思う。
アルロが片付けをして終わってもまだ立ち上がらない。
「・・・姫様、大丈夫ですか?」
「むり」
「え・・・っ」
「今日はもう、むりぃ」
床に寝転ばないだけでも褒めてほしいくらいだ。
もう疲れ果てて、部屋に帰るのもつらい。
そうはいっても、アルロにはエイダンと違ってマリーヴェルを抱き上げるほどの筋力もない。
早く鍛えなければと思うアルロだった。
「私、なんでこんなことしてるんだろう・・・。何の意味があるの?」
その場にうずくまってしまったマリーヴェルと視線を合わせるようにアルロもしゃがんだ。
「あ、あの・・・でも、姫様、最後はとっても美しかったです」
アルロが必死で言うと、マリーヴェルは少しだけ顔を上げた。
「本当に、お姫様みたいで・・・っあ、姫様は、姫様なんですが、なんていうか、みとれるくらい綺麗で。息をするのも忘れて・・・お辞儀も、歩くのも、皆が見惚れてしまうと思います」
「・・・・・・・・・ほんと?」
「はい」
アルロは一生懸命そう言ってくれる。アルロが言うと本当に思えて、マリーヴェルは自然と表情が緩む。
「綺麗に、できてた?」
「はい。先生も最後に褒めてくださったじゃないですか」
1時間近くずっと駄目だ駄目だと言われ続けて、最後の台詞だけだったが。
それでも、確かに褒めてはもらえた。
「もう一回言って」
「えっと・・・褒めてくださったのは——」
「じゃなくて。アルロが褒めて。そうしたら元気になるから」
アルロは一瞬迷った。
が、迷ってはいけない。ここは考えていると思わせてはいけない。
タンが言っていた。主人の意欲を引き出し、士気を高く保つのも仕事だと。
「姫様は、とても美しかったです。絵画に出て来るようでした」
言っている側からマリーヴェルの表情がへにゃ、と緩んだ。
マリーヴェルは怒ると本当に怖い顔になるのだが、緩むと途端に親しみのある愛らしい雰囲気になる。
気持ちも浮上したようで良かった。
夕食までの間に授業の復習と宿題に取り掛からなくてはいけない。
そもそも机に向かってもらうことが難しいため、やっとスタート地点に立てた気分だった。
学校の宿題をさせるという重労働