26.
アルロはペンシルニアで預かることにした。
ジーク家に今回の事件を知らせると、面目ない、全面的にそちらに任せる、と言ってきた。
とりあえずアルロには休養が必要だ。何者にも脅かされることのない環境でゆっくり休んでもらおう、となり、マリーヴェルの話し相手として過ごしてもらった。
初めはどうしていいかわからないようだったが、数日すると屋敷には慣れたようだった。
アルロが何をするでもなく過ごしている部屋に、学園を休み続けているマリーヴェルが訪れる。
「ねえアルロ。今日はこの本を読もうと思うのだけど」
そう言ってマリーヴェルは何やら分厚い本を持ってきた。
「これは・・・古代史?興味があるんですか」
「ないわ。全く意味が分からなかったの。アルロとやれば理解できる気がして」
「それは・・・どうでしょう」
公女なんだから、ちゃんとした家庭教師の方がよっぽどわかりやすく教えてくれるだろうに。
アルロはそう思いながらも、久しぶりの勉強を楽しんでいた。マリーヴェルはそうやって勉強を教えるという仕事をくれて、アルロの居場所を作ってくれているようだった。
そうやって勉強をしていると、時折ソフィアもアルロの部屋を訪れる。
「——こんにちは、アルロ」
扉からひょこっと覗く顔は、くりっとした目がとても可愛い。
「こんにちは、ソフィア様」
「ソフィア。アルロは今から私と勉強するんだから、邪魔しないで」
「いつもしないんだから、いっしょ」
「なんですってえ?」
この姉妹は、いつもこんな調子で喧嘩をしている。
アルロは兄弟がいないから、こうした口喧嘩を見るとどうしていいかわからなくておどおどしてしまう。
「アルロ、きょうのおやつはね、リンゴのクランルブ!ソフィー、大好きなの」
「そうですか」
「馬鹿ねクランブル、でしょ」
「クランルブっていったけど?」
「ほらまた!」
「マリにいってないから」
「お姉さまって言いなさいってば!」
「あ、あの・・・!その・・・」
2人の会話はテンポが速すぎて、アルロにはついて行けない。
止めようと思うと変なところで会話を分断してしまって、2人の視線が集中する。
かといってその後何と言っていいのかわからなくなる。
「ここにいたんだね」
今度はエイダンが部屋に入って来た。
エイダンはマリーヴェルがアルロのところにいると、一度は必ず顔を出す。
「お兄様、ソフィアを連れ出してちょうだい。お勉強の邪魔よ!」
「へえ。今日は何をしてるの」
「古代史」
「えらいなあ、マリーは」
そう言ってエイダンはマリーヴェルの頭を撫でた。
「んもう、私はいいから、ソフィアを」
「じゃましてないもん。マリーべんきょうしてないもん」
「ソーフィーア―!」
「まあまあ」
エイダンはそう言ってソフィアを抱き上げた。
「ソフィ―、お菓子が焼けたか見に行こうか」
「クランルブ?」
「うん、好きでしょ?」
「すき!にいさまくらいすき」
「光栄だな」
エイダンは苦笑しながら、ふと机の上で勉強をしているようなマリーヴェルを見た。
「マリー、その本逆さまだよ」
「——っえ、うそ!」
古代史は古代語で書かれているから、上下が分かりにくいのだ。
「ささかまー」
ソフィアはただ真似をしただけなのだろうが、どうにも腹が立つ。
ぐっと本を持つ手に力が入り、去っていくソフィアを睨みつけた。
「——ぼ、僕に見やすいように、してくれたんですよね。姫様、はじめから一緒に読みましょう」
アルロが気を遣ってそう言ってくれる。
そうするとマリーヴェルはすっと怒りが引いていくのだった。
一方。マリーヴェルの護衛には若者が当たった。
若い者、比較的小柄な者が選ばれた。タンも一時的に護衛に付くこともあった。
中でも、これを機会に表舞台に復帰を遂げたのが、ルーバンである。
ルーバンは影としてこつこつと実績を積み、いつかまたライアスの側で役に立ちたいとずっと願っていた。今回、小柄で護衛につける者、と聞いて真っ先に手を挙げた。
最近では他領と行き来することが多かったから、屋敷での仕事も久しぶりである。
もう30を過ぎたというのに、童顔なのか、まだまだ若く見えるのが本人のコンプレックスだった。
「本日から護衛任務に加わります。ルーバンと申します」
そう言ってルーバンは丁寧にあいさつをした。大人の男を怖がるかもしれないと聞いていたから、努めて笑顔で、優しく微笑んだつもりだった。
マリーヴェルはそんなルーバンをしばらく見つめて、ふうん、と呟いただけだった。
マリーヴェルは暇を持て余して、ただ茫然と窓の外を眺めていた。
1週間程度、毎日アルロの部屋に入り浸っていたら、ライアスからいい加減にしなさいと言われた。
きっとエイダンが告げ口したんだ。
「ふん。お兄様のいじわる」
そう呟いて窓の枠にもたれて口をとがらせていた。
ふと、部屋の隅に立つルーバンと目が合う。
「——何?」
何か言いたそうにしていたから声をかけてみたが、ルーバンはいえ・・・と目を逸らした。
「学園へは行かないのですか」
そのくせそんなことを聞いてくる。マリーヴェルはなんだかむっとした。
「なんで?」
「学園では、基本的な魔力に関する教育を受けられるからです。社交の基本も学べます」
「・・・・・・・・」
「お暇なのでしたら、復帰されては」
「学園にはルーバンも行ったの?」
「もちろんです」
「行って良かった?」
「もちろんです」
「でもルーバン、昔お母様に意地悪言ったんでしょ。そういうことしちゃダメって、学園では習わなかったの?」
「っな、そ・・・それを、誰に」
マリーヴェルはペンシルニアのメイドたちと、時々刺繍をしながらおしゃべりを楽しんでいる。
彼女たちとの噂話はとても楽しいのだ。
繕い物をするメイドたちに交じって、手を動かしながら口も動かすのが楽しい。
「お母様に意地悪したからお父様が怒ったって。——お父様はお母様のことになると、ほんっとうに怖いもの。よく生きてたわね」
ルーバンは口をパクパクと動かしていた。
いじめているような気になってマリーヴェルはそこまででやめた。
なんだかイラッとしたから言ってみたが、反論してくるとばかり思ったルーバンの青い顔をみたら、後悔した。
「それで、お母様にはなんて謝ったの?」
「・・・・・・・・」
「え、まだ謝ってないの?しんっじられない!もう10年も経ってるのに?」
マリーヴェルは目を丸くした。
護衛になっているんだから、その辺はもう済ませたんだと思っていた。
「私の顔を見るのは、ご不快でしょうから」
「謝りに行っていいですかって、聞けばいいじゃない」
「そうでしょうか・・・」
マリーヴェルはとん、と軽快な動作で立ち上がった。
「まったく。お母様への謝罪を済ませていないものを、護衛になんてできないわ。ついて来なさい!」
そんなことを言わなくても護衛なのでついて行くが、マリーヴェルはそのままシンシアの部屋へ突撃した。
シンシアはルーバンがマリーヴェルの護衛についていることは当然知っており、久しぶりね、と屈託なく迎え入れた。
ルーバンはその場に手をついた。
「奥様・・・数々のご無礼、申し訳ありませんでした・・・!」
大げさかと思う程の謝罪だったが、シンシアはあまり驚いている様子はなかった。
マリーヴェルの顔を見て、近づくとそっとマリーヴェルの頭を撫でる。
「貴方が連れてきたの?マリーは昔から、無礼者が嫌いだったものね」
そう言いながらルーバンの目の前にしゃがむ。
「10年ぶりね、ルーバン」
「長くかかりまして・・・申し訳ありませんでした」
結局ライアス負傷のどさくさで、ろくに会話も交わさぬまま今日まで来た。
「貴方の忠心はライアスから聞いているわ。マリーをお願いね」
「は、はい・・・!奥様に助けて頂いた、命に代えましても」
さすがに10年以上もすれば、もうすっかり奥様として定着している。
殿下と呼ばれていた頃がかなり遠い昔に思えた。
「——あらやだ」
シンシアは、顔を上げたルーバンを見て困ったような顔をした。
「貴方、全然顔が変わらないのね。何か秘訣があるのかしら」
結構真剣に聞いてみるが、ルーバンから参考になりそうな話はなかった。
シンシアは立ち上がってふらふらと手を振った。
「謝罪は受け取ったから、行っていいわよ。そもそももう気にしていないから。——でも、顔を見せに来てくれてありがとう。気になってたのよ、元気でやってるのか」
ふわりと笑われると、ルーバンはついその表情に釘付けになる。
「ちょっと、お母様に見惚れないでよね」
マリーヴェルの低い声が背後から聞こえて、慌てて姿勢を正した。
「誠心誠意、務めさせていただきます」
そこに妙な力がこもっている気がして、シンシアは一瞬嫌な予感がした。
思い込みの激しさが持続しているとしたら・・・おそらくマリーヴェルとの相性は良くない。
マリーヴェルは気が強いが、どこか義侠心のようなものがあって・・・概ね直感的に動くのだが、彼女なりの善悪のつけ方が、何と言うかルーバンとは違う。
シンシアの予感は割とすぐに現実のものとなった。
他の護衛と違ってルーバンはよくマリーヴェルに口を出す。ちょっとうるさい世話係のようだった。
相手にしないことも多いが、マリーヴェルが我慢ならないこともあった。
「今日はおやめになってはいかがですか」
「どうしてアルロといちゃダメなの?」
行き先を尋ねられたからアルロの部屋と言ったら、ルーバンは緑の瞳を細めてやれやれと言うように首を振った。その仕草がまた腹が立つ。
「お嬢様は光の能力をお持ちですし、何より公女様ですから」
「そういうのやめてってば、ルーバン!」
びしっ、とマリーヴェルは指を立てた。
「アルロを休ませないととかって言うならまだ納得いったけど」
「もちろん、それもありますが・・・」
「平民だとか、光だとか。人を外側で見るところ。それがルーバンの嫌なところ!」
「なっ・・・・・」
ライアスによく似た顔で言われると、ダメージが強い。
マリーヴェルはふん、と鼻を鳴らした。
何が気に入らないって、ルーバンのアルロを見る目が失礼だから。マリーヴェルの客人として接しているほかの騎士たちと違って、ルーバンは油断ならないものを見るような、もしくは取るに足らないものを見るような目を向けていた。
そのせいでアルロが委縮してしまう。
「私はね。光の力なんて、ほとんどないの。勉強も全くできないの。アルロは魔力はないけど、古代語だってすらすら読めるし、数学も難しい公式をさくさく解くのよ。分かってないわね」
「そういうことでは・・・」
「アルロの方がわたしよりずっとすごいのよ。——いい?もし、その調子でアルロに少しでも不愉快な思いをさせてごらんなさい。私が許さないんだから!」
「しょ、承知しております・・・」
心の中を見透かされたようで、ルーバンはつい言葉を詰まらせた。
出自のわからない平民が、ペンシルニアの公女と親しくしているなんて、許されるのか・・・。そう思っていたが。自分が口を出す事ではないから、言えずにいた。
困ったようなルーバンの顔を見て、マリーヴェルは別の事を考えていた。
ルーバンに突き立てていた指をまじまじと見る。
「——あら?なんだかすっきりしたわね」
試しに騎士の訓練所に行ってみた。
「お父様!」
呼ぶと、ライアスはゆっくりとこちらに歩いてきて、数歩の距離で止まる。
「マリー。おはよう」
マリーヴェルはいつものようにライアスの体に体当たりして抱きついた。
「お父様、大好き!!」
ライアスは即座にマリーヴェルを抱き上げ、ぎゅっと抱きしめた。感極まったように目を閉じてその感触を味わうように。
「マリー、いい子だ、愛している」
そしてゆっくりと身体を離し、いつもの元気な金の瞳を見る。
「もう、大丈夫なのか?」
ここは体格のいい男だらけである。訓練で掛け声も飛び交っている。
「大丈夫!」
顔見知りの面々を一周見ると、皆にこにこと笑って、手を振ったりしてくれている。
——うん、いつもの皆だ。
マリーヴェルは少しも怖くないのを確かめて、嬉しくなって笑った。
「ルーバンと話してたら、全然怖くなくなったわ。すごいわね!」
「こんなむさくるしいところででも?」
「やあね、一番むさくるしいのはお父様でしょ!」
フフフ、と笑ってマリーヴェルはライアスの腕から降りた。
「む・・・むさくる・・・マリー?どこがだ?お父様は、むさくるしい・・・?」
一番筋肉があって、魔力にあふれて、何と言うか、濃いという意味だ。
上手く伝えられないのでマリーヴェルはじゃあね、と言って訓練所を後にした。
マリーはあちこちに顔を出した結果、ちょっと耳年増にみたいになってます。




