21. アルロとの時間
マリーヴェルは、アルロの控えめで、けれど細やかに気遣いができるところが好きだった。
疲れてくると、すぐに察知して休もうかと言ってくれる。歩く時の速さをちゃんと合わせてくれるのも。
実はとても知識が豊富で、レグナートと共に受けた授業はすべて記憶している。
マリーヴェルが何か質問すると、とてもわかりやすく説明してくれるところも好きだ。
「アルロは物知りなのね。頭がいいんだわ」
そう言って感心するマリーヴェルだったが、当のアルロはとんでもない、といつも恐縮していた。
今でもお姫様、と呼んでくれる。お姫様扱いしてくれるところも、少し恥ずかしいけど好きだ。
最近は、アルロの事が何でも知りたかった。
今までただ一緒に遊んでいて楽しかったが、いつも大切にしてくれるアルロを、マリーヴェルも同じだけ大切にしたいと思った。
そう思うと、いつも少し汚れた丈の合わない衣服や、細い体つきが気にかかる。
「アルロはジーク家のお屋敷に住んでいるの?」
紅茶をマリーヴェルが入れようとすると、アルロがさっと立って淹れてくれる。アルロの淹れてくれる紅茶は、いつもと同じ茶葉なのに少し甘く感じる。
「僕は、住込みではなくて、通いなんです。親が街にいるので」
「えっ、そうなの?孤児院出身って言ってなかった?」
「孤児院に預けられていた時に、ジーク家に拾っていただいたんですが、家族はいるんです。父だけですが」
親がいるのに、孤児院に預けられるということがあるのだろうか。不思議そうにするマリーヴェルにアルロはそれ以上語らなかった。言いたくないのだろうか。
「通いで、侍従の仕事をしているの?」
「侍従というか、雑用として雇われています。頼まれたことは何でもします。レグナート様の荷物持ちとして同行させていただいていますが・・・屋敷に戻れば、厨房とかにいる時間が長いです」
実はアルロの仕事内容もあまりわかっていなかった。雑用をするからすぐに衣服が汚れるのだろうか。ペンシルニアでも、下働きの人たちはよく汚れて着替えている。タンは侍従だから、訓練の時以外は基本的にエイダンの身の回りの世話のための動線上にしかいないが。
マリーヴェルはごくりと紅茶を飲んでから、注意深くアルロを見つめた。
「あの・・・言いたくなかったら、言わないでね。とっても失礼なことを聞くと思うの」
「はい」
「その・・・お給金って、どのくらいもらっているの?」
平均的な一般家庭の収入が、一月に30シルバ―。マリーヴェルの靴一つ分くらいの値段。
最近、平民の生活について授業を受けているから、聞いてもわかると思う。シルバーの下にペニーという硬貨がある事も勉強している。マリーヴェルはエイダンに見せてもらったことがある。
アルロは不愉快そうには全くしなかった。その代わり、申し訳なさそうに首を傾ける。
「あ、僕・・・その、知らないんです」
「えっ、どういうこと?」
まさか、給金がないということだろうか。そうだとしたらさすがに黙っていられない。
「お給金は、父に直接払われていますので。僕はまだ子供なので、お金の管理はできませんから」
さらりと言われ、マリーヴェルは釈然としない気持ちになる。
ジーク家は、私服での仕事だと聞いた。ペンシルニアのように制服が支給されるのはいわゆる上級メイド以上の者達で、他は皆自前で用意する。
だから、アルロの衣服が新しくならないのは、家が貧しいからだと思ったのだ。まさかそもそもお金を持っていないだなんて。
「お父様は、何のお仕事をされているの?」
「仕事はしていません。身体を壊してしまって、働けないんです」
「まあ。大変じゃない」
「そんなことはないです。父と二人で暮らしていくのに十分なお給金はいただいていますし、住居の世話もしていただいて。ジーク家に良くしていただいているので」
本当に・・・?
マリーヴェルは言葉を飲みこんだ。
「——何か・・・?」
アルロが気を遣うように聞いてくる。
マリーヴェルは首を振った。
「ううん。大丈夫なら、いいの。何か困ってないか、知りたかっただけ。困っていることがあったら何でも言ってね。アルロの力になりたいの」
「ありがとうございます。僕、誰かとお茶を飲むって事、したことなかったから・・・。姫様とは、したことのない事ばかり、教えて頂いて。僕にはもったいないことです」
アルロはふわりと笑った。
黒い髪がさらさらと風に揺られ、すっと目が細められると、マリーヴェルはなんだか胸が苦しくなるのだった。
「だから、姫様とこうして過ごすと、僕はすごく幸せです。ありがとうございます」
そんな・・・こんな、数か月に1度のお茶会なんかで。
もっと何かしてあげたいのに。
こうしてお茶会に誘っても、アルロはたくさん食べるわけじゃない。マリーヴェルの食べるのを、嬉しそうにじっと見ているだけだった。
マリーヴェルがおいしいから食べて、と言うと、やっとそれを口に入れて、おいしいです、とまた控えめに答える。
もどかしいけれど、どうしたらいいかわからない。
マリーヴェルがこうしてアルロを気に掛ければ掛ける程、ライアスもエイダンもいい顔をしないだろうことはわかっている。今も向こうで見ている騎士やレナが、きっと後でどんな様子だったか両親に報告するのだろうし。
「姫様は、どうですか?」
「———え?」
しばらくの沈黙を破り、アルロが静かに聞いた。
「学園に通うとおっしゃっていたので。どのようにお過ごしかと思いまして」
「うーん・・・女友達と過ごすのは楽しいわ」
「は、ですか」
「ええ」
アルロはそれ以上聞かなかった。
アルロも学園に行っていたから、あそこがどんなところか知っているだろう。
「——誰にも、言わないでね」
「はい」
マリーヴェルは、アルロに話したくなった。
アルロならちゃんと話を聞いてくれると思った。ただ、聞いてくれる。
「本当はね、結構つまんないの。もちろんベラと遊ぶのは楽しいんだけど、それは別に学園に行かなくったってできるでしょう?——ほら、私魔力がないから。学園では毛虫みたいなものなの」
「け、毛虫・・・ですか」
「先生は、あからさまにため息をつくし。すぐお兄様と比べて来るし。ペンシルニアならこれくらい、って。——あなたにペンシルニアの何が分かるっていうの?って言ってやりたいわ」
実は言ってやったけど。教師は聞こえないふりで立ち去った。
「毎日、離れたところでひそひそ話しているの。面と向かってだったら言い返せるのに。それも、全部聞こえているのよ?直接言えないから、あんな風に言うんだわ」
「どんなことを言うんですか」
「魔力なし、宝の持ち腐れ。ペンシルニアの落ちこぼれ。一番腹が立つのが、私の使い道についてあれこれ関係ない者達がもっともらしく話すことね」
そうだ、嫌味を言われるくらいどうってことない。
もやもやしているのは、勝手に期待して、失望して、それだけではなく、それなら何に役に立つのかとあれこれ言われることだ。
魔力がないなら学問はどうだ。学問ができないなら、どこに嫁げばよいか——。
余計なお世話だ。
「・・・・あら?なんだか、話していたらすっきりしてきたわ」
マリーヴェルは何にもやもやしていたのかもわからないまま、何やらすっきりして笑った。
アルロの方が傷ついたような顔をしている。
「・・・僕には魔力はありませんが、世の中には魔力のない人間の方が多いです」
「まあ、そうね」
平民だとそうだ。学園でも平民は数人のみ。
「僕はその辺にいる人間の一人ですが、姫様は違います」
アルロが顔を上げた。
深い、漆黒の瞳がひたとマリーヴェルに向けられる。
「姫様は素晴らしい人です」
確信に満ちたように、きっぱりと言われた。
その台詞がすとん、と胸に落ちたような気がして。マリーヴェルは呆けたようにその場に静止していた。
自信を無くしていた、とまではいかないけれど。
自分がどうしようもなくつまらない人間なんだろうなという気にはさせられていた。
学園に入るまで、マリーヴェルは何にでもなれると思っていた。
忙しい両親はそれでもマリーヴェルを愛情いっぱいに育ててくれているし、寂しいと思った時には城に行けばオルティメティも、祖父も何を置いても可愛がってくれる。
だから、家族のために、一族のために、国のために。自分だって、ペンシルニアの長女として、何かを担っていきたいと思っていた。
兄のように、父のように。
それが、到底お前には無理なのだと言われて——。それで悲しむほどマリーヴェルは素直でもないし弱くもないけれど。
この複雑な感情を家族に知られたくないという程度には、プライドもある。大切に育てられているからこそ、こんな扱いを受けていると皆に知られたくはない。
この程度、言う程の事ではない、と自分に言い聞かせながら。
自分が世間の期待に応えられないのなら、せめて家族を悲しませることはしたくなかったから。
だから、単純に嬉しい。
アルロの言葉はぐらついていた足元を一気に固めてもらえたような気がする。
「ありがとう、アルロ」
マリーヴェルはふわりと笑った。
少し大人びた、花開くような、キラキラとした笑顔だった。