4. 洗礼式
エイダンの洗礼式は生後11ヶ月に行われた。
ギリギリ一歳の前である。
小説には、なぜそんなに遅くなったのかは書いていなかった。
洗礼式は大体生後百日で行うのが慣例のようになっているのに。
シンシアの体調の回復を待っていたのか、それともシンシアがやはり行くのを渋ったのか。
どちらにしても、シンシアは神殿でエイダンが洗礼を終えるや否や、先に帰宅した。
残ったライアスはエイダンを連れて屋敷へと帰宅しようとする。
エイダンが泣き止まないため、ライアスは馬車にも同乗しなかった。
避けるように馬に乗って、途中からは別行動で帰った。
この時、光の力を狙ったものに馬車は襲撃された。エイダンの茶色い目を見て、期待外れだと怒った賊に、腹立ち紛れに乳母を殺される。
エイダンはまだ一歳になっていないというのに、その記憶を鮮明に残すことになる。
エイダンを投げ捨てられそうなところで、ようやく騎士が駆けつけ保護されたが、心の傷は相当だろう。
——一番古い記憶は、目の前で血まみれになり横たわる、母と思っていた人間の屍だった。
それが物語の冒頭である。
いや、暗いな。
なんでこんな暗い話を貸してくれたんだろ、あの子ったら。
そんな事より。
光の属性は本当に希少で、治癒師とは比較にならないほどの回復力をもつ。一世に一人か二人しか存在しない。
だからこそこのペンシルニア公爵邸も騎士たちで二重三重に守られているのだ。
恥ずかしながら、シンシアは生まれてこのかた、神殿以外、街にすら行ったことがない。
幼い頃から外には自分の命を狙うものが溢れている、と教えられていたし、全てにおいて満たされていて、外に出る必要も感じなかった。
「洗礼・・・」
ポツリと呟いた声に、メイアがそっと労わるように手を握ってくれた。
「まだ、坊ちゃまは九ヶ月ですもの。あと三ヶ月ありますわ」
私が何の心配をしていると思ったのだろうか。
エイダンを可愛がっていることは知っているだろうに。
体力がもたないかの心配か。
もしくは。洗礼はお披露目の場となる。エイダンが光ではなく土の属性であろうと世間に知られることになるからか。
はたまた、ライアスとの外出を憂いてのことか。
「メイアは、何が心配?」
「メイアは、ただひたすらに奥様のお身体、それだけでございます」
きっぱりと言われて、思わずふふふ、と笑いが溢れる。
「大丈夫よ、ありがとう」
「本当でございますか?旦那様にお会いになった後はいつも・・・」
確かに。ライアスと会った後のシンシアは、荒れに荒れた。ライアスが部屋に来るたび、部屋中のものは破壊されて破り捨てられていた。
そんな元気はないし、あの顔を見ても特に拒絶は感じない。
怒りは感じたけどね。
あんなダメ夫、当然でしょ。
でも・・夫は変えられないから。顔もいいし。
あんな美形、この世に存在するんだなって・・・。
——いやいやいや。何言ってんだ私。
ぶんぶんと首を振っているとメイアが、また心配そうに覗き込んでくる。
シンシアはなぜあれほどライアスを拒絶したんだろうか。
ただ怒りをぶつける先が欲しかったのか。
弟が生まれた時、シンシアの母は亡くなった。シンシアが5歳の時だった。
だから、メイアは母親代わりのようなものだ。
「大丈夫よ、メイア。——洗礼式に行けるくらい、体力を回復させなければね」
「はい」
光の力が自分に使えたらいいのだが。
光の力で自分を治せば、そこに使った力の分だけ体力が削ぎ落とされる。出来ないわけではないが、すこぶる効率が悪い。結局のところ、回復具合は同じ事になる。
普通はしない。
「あの怪しげなお薬、飲んでみようかしら」
滋養強壮に良いと言われる薬が毎食ついてきている。
泥に苔が生えたみたいな色してる。どうみても人間の飲み水じゃないし、一舐めしたらあまりの味に悶え苦しんだので以降飲んでなかったのだが。
これだけ厳重に守られてる公爵夫人に、まさか毒は仕込まないだろう。
「それがよろしゅうございます。あれは、陛下でもなかなか手に入らない神秘の薬でございますから」
聞けば聞くほど怪しいな。
「とりあえず、一日中座っていられるようになってからね。洗礼式は長いもの」
「はい」
対策を考えるにしても、健康体でなければ難しい。
この日から、私の体力回復強化月間が始まった。
結局、医師の許可を待っていたらエイダンは11ヶ月になってしまった。
できるだけ早くして日程を変えたかったのに。仕方ない。
怪しげな薬のおかげで、私は日中、庭の散歩が出来るほどに回復した。
夜になるとやはり疲れ果てて時々熱も出るが、それでも大進歩だ。
どこも痛くない。
健康、最高。若さって素晴らしい。
「エイダン、おいでー」
庭で呼べば、土をいじっていたエイダンが振り返る。
エイダンはなんと、歩けるようになっていた。いや、正確には小走り。
一歳になる前から走る?と思ったが、ペンシルニアの家系は代々骨格筋の成長が早いらしい。
たしかに、エイダンも相変わらずぷにぷにしてはいるが、最近その下に筋肉がついてきたような気がする。
寂しいな。大きくなるのが早いんだから。
歩き出したエイダンは、もう誰にも止められない。思ってたよりずっとスピードがあるし、あちこち興味のままに駆け回る。
「ん!——ん」
エイダンが拳を見せて来た。手のひらで受けると、花と、石と、——虫だ。
「——っひっ、——あ、ありがとう」
言うと、エイダンが深々と頭を下げる。
ありがとうと言うと、いついかなる時も頭を下げるのだ。可愛い。
これ、私が教えたんだよね。つい癖で、ものの渡し合い遊びをしてる時に。
メイアが真っ青になってた。公爵夫人と子息が頭を下げるなんて、って。
可愛いのにな。
私はエイダンの満足そうな顔を撫でた。
「えーたん、明日はママとお出かけだよ」
「ぶ、ぶ」
「ブーブーっていうのかな。そう、馬車でね。ガタンガタン、かな」
「ない!」
「ないじゃないのよー行くのよー」
もらった花をくるくると巻いて、指輪にしてみる。
「ないっ!」
「一緒に行こうねー。ほら、指輪」
ぷにぷにの指にはめてみる。
白い小さな花が指にはまり、エイダンはそちらに夢中になる。その隙にさっと虫を捨てた。
「パパも行くからね」
よしよし、と頭を撫でると、赤ちゃんらしいやわらかな髪の毛が手に触れる。
穏やかないつもの時間——遠くを見れば、見慣れない馬車と見慣れない人達。
ライアスの一行は、明日に備えて今日屋敷に帰ってきた。
前回から、実に三ヶ月ぶりの帰宅である。
帰ってきても部屋も遠いし顔を合わせることもほとんどない。
何より、エイダンに会いにも来ない。
完全なる別居だ。
離婚案件だわ。
はあ、と大きく溜息を漏らした。
「はあー」
エイダンが真似して息を吐く。
「いけない、いけない。幸せが逃げちゃう。吸って吸って!」
「す——っ」
真似をして息を吸うエイダンが可愛くて、その途中でぎゅっと抱きしめた。
翌日。
馬車には、シンシア、エイダン、乳母が乗った。
メイアは今日は留守番だ。なぜなら乳母の横に、騎士を乗せたから。この馬車は四人乗りだ。
あと、いざという時、メイアはきっと動けない。最近腰が痛いと言っていたから。と言っても私が走れるのかは微妙だけど。
本当はここにライアスが乗るべきだろう。しかし、あの人はシンシアが外に出た時、すでに馬上にいた。
早いな。いく気満々なの?遠足待ちきれない子供か?
「はっ」
乾いた笑いが出てしまう。一瞬視線が合うが、すぐに逸らされた。
ライアス。顔以外何もいいところのない男。
心の中で毒づいてから、気を取り直して。私たちは馬車に乗り込んだ。
今日のために、騎士の編成を考え抜いた。
「今日はお願いね、オレンシア卿」
「はっ、命に替えましても」
胸に手を当てて応じられ、大袈裟だなと思うものの、あながちそうでもないのかもしれないと思い直す。
オレンシア卿には、いざとなったら、必ず何を措いてもエイダンを抱いて逃げるように言っている。
彼を選んだのは、剣の腕ではない。鍛錬場を、重量運びで駆け抜けるその脚を見込んでのことだ。いや、まあ剣の腕もそりゃいいんだろうけど。
入団が難関と言われているペンシルニア騎士団所属なんだし。
あと、エイダンが比較的懐いている。
このために約一月前から優先的に近くに控えて護衛してもらった。時々遊び相手も頼んでいる。
「ま、ま」
「はい、おいで。危ないから、座りましょうね」
膝に乗せてあやしていると、馬車は出発した。
結構揺れる。油断すると舌を噛みそうだ。
「あとどれくらいかしら」
「奥様・・まだ5分しか経っていません。神殿までは1時間近くかかりますので」
1時間。——お尻がとんでもないことになりそうだ。
1時間後。
神殿に到着すると、神官にずらりと出迎えられる。
ライアス、私が歩き、その後ろを乳母がエイダンを抱いて続く。
ライアスだと泣くし、私は抱いて歩けるほど体力がないし。
記念すべきイベント、お宮参りみたいなもんなのにね。ごめんねエイダン。
大理石で作られた神殿の中に入ると、教会のような造りになっていた。ステンドグラスと、女神像と。
教壇で神官長が待ち構えている。
「ペンシルニア公爵家の皆様。今日の佳き日に、ご子息の生誕をお祝いできる誉に立ち会えることは私の喜びです」
神官長の落ち着いた声音が響く。
式の間はずっと座っていられる。時間は長かったが、何とか耐えられた。
乳母に抱かれたエイダンもいい子にしていた。
この後食事会をしたりして大々的にお祝いしたりお披露目のパーティーを開いたり、と言うのが一般的だが、もちろんそれは無理なので、直帰だ。
神殿の出口から馬車まで歩く道すがらで、神殿を訪れている貴族たちと目が合う。
見知ったものも何人かいた。嫁ぐ前は、それなりに社交の場にも顔を出していたから。
「——赤だ」
「瞳は…?あ、見えたぞ、茶だ」
「光ではなかったか・・・」
そんな声が耳を掠める。
驚いた。
私の子ということで、そんな風に関心を集めているだなんて。
まあ、勝手に言っていればいいけど。
「乳母が抱いているのね」
「そりゃそうだろ、王女殿下が公爵をどう思っていたかなんて、なあ」
「その上公爵の方に似ているとなれば・・・心穏やかではいられまい」
思わず立ち止まって、声のする方を見る。
誰が言ったか、集団だからわからない。
そんなに聞こえよがしに話すものなの?
「どうしました」
私が立ち止まったから、ライアスが数歩進んで振り返った。
「聞こえませんでしたか」
「・・・口さがない者達のことなど、放っておかれればよろしいかと」
いつものことというように言うけれど。
ああいう噂話が、いつか子どもの耳に入ったりするのよ。
夫婦仲が悪いとか、望まれた子じゃないとか言われて深く傷つくんじゃない。
「私は不快に思いましたが。貴方はそうではないのですか」
「発言したものを罰してきたらよろしいですか?」
一言命令されればそうします、というような言い方だ。これでは本当にただの臣下のようだ。
視線をやっても、どの貴族にも逸らされる。
けれど目を逸らせばこちらを無遠慮に見てきているのが分かる。
思うことは色々あるが、今ここで言い争ってもいい話のネタを与えるだけだ。
疲労もあって、めまいを感じる。頭が重くて押さえたら、ライアスが一歩近づいた。
「顔色が悪いですね。——騎士を呼びましょうか」
「なぜ騎士なのです」
「貴方をお運びいたします」
ライアスの少し強張った顔。周囲の貴族たちの窺うような視線。
「——貴方が支えてくださればよろしいのでは?」
「は・・・」
ライアスが珍しく、狼狽したような表情をする。
「お体に、触れても・・・?」
「妻の体に触れるのに、許可を求める必要がありますか」
言って、記憶の中に、ライアスに放った言葉の数々を思い出す。
——触れるな、汚らわしい。指一本触れてみなさい、舌を噛み切ってやるわ!
とか言っていたな。
「——そうね。ごめんなさい。私が言ったのよね」
そもそも貴族の夫婦というのは、夫がエスコートして歩くものなんだった。妻の手が夫の腕に添えられていないだけで、普通じゃありえない。夫婦仲も何もあったもんじゃなかった。
私にも原因があったんだ。
「以前言った言葉は取り消します。すみませんが、手を貸していただけますか?もう歩くのもつらいので」
ライアスは一瞬固まった。
今更、と思ったのだろうか。
拒絶され続けていたから。
ライアスがようやく歩み寄ってきたので、手を伸ばす——が、その手は取られなかった。
代わりにふわりと抱き上げられる。
「——っきゃあ!?」
驚いて変な声が出た。
だ、抱っこされた。普通に横抱きだ。
「あ、あの・・・」
「触れても良いと」
「あ、や、これは・・・」
「今にも倒れそうな顔色をされていますので。馬車までお運びいたします」
抱かれてそう言われると、顔が近い。低い声が体を伝って響いてくる。
しかも、こんなに軽々と。
恥ずかしくて顔を覆った。
「重いでしょう。支えていただけるだけで・・・」
「いえ、羽のようです」
確かにすたすたと歩いているけれど。
羽はないでしょう。
「顔を隠すほど、耐え難いですか。——すぐです」
耐え難い・・・?恥ずかしいけど耐え難いという程ではないが。
ちら、と見上げてみると・・・美形だ。
エイダンもこんな男に成長してくれるのかしら。
この顔で母上、とかって言われるのかな・・・。
いい。
今から楽しみすぎる。
そんなことを考えていたら緊張も解け、広い胸に体を預けると思ったよりも快適だった。