12.
朝食のいつものダイニングで、カチャカチャとマリーヴェルのカトラリーの音が響く。
その表情は暗い。
日に日に暗くなっていく。
マリーヴェルにとって、エイダンのいない朝食では食欲も湧かないらしい。フォークを握って食べ物をつついたりはしているが、一向に食べる気配がない。
ダイニングのドアがノックがされ、ガチャ、と扉が開く。
そこから入ってきた姿を見て、マリーヴェルは見る間に表情を変えた。
文字通り、ぱあっと明るく笑う。
「にちゃ!」
フォークを放り投げ、椅子から飛び降りようとするところを慌ててレナが下ろしてやる。
マリーヴェルは一目散にエイダンに突進した。
エイダンはひょい、とマリーヴェルを抱き上げる。
「にちゃ、おきたの!」
「うん、起きたよ。おはようマリー」
「はよぅ!」
マリーヴェルはエイダンの首筋にしがみつくように抱きつくと、そのままぐりぐりと顔をこすりつけているようだった。
「ふ、ふふ・・・マリー、くすぐったいよ」
「にちゃ、すきぃ・・・だいしゅき」
「うん、僕も。マリー大好き」
エイダンはぎゅっとマリーヴェルを抱きしめ返した。
兄妹の熱烈な再会を見て、ライアスとシンシアも顔見合わせて笑い合った。
エイダンはマリーヴェルを抱いたまま歩いてテーブルまで来る。
「父上、母上、ご心配をおかけしました」
エイダンは片手でマリーヴェルを抱き、頭を下げた。
「ああ。——食べよう」
「はい」
シンシアはちょっと驚いて固まってしまった。
6歳児が片手で2歳児を抱えている。しかも軽々と。
ライアスは何も思わないようだ。
身体強化を、すっかり使いこなしているらしい。
——やだ、筋肉ムキムキなエイダンを想像してしまったわ。
複雑な気持ちである。
「母上」
呼ばれてはっとして、シンシアはエイダンに微笑んだ。
「なあに?」
「ありがとうございました」
シンシアは眉を上げた。
「ありがとうだなんて。他人行儀ね」
手を伸ばしてエイダンのつるつるのほっぺをきゅっと摘む。
エイダンは照れくさそうに笑った。
「母上が来てくれて、嬉しかったから」
「エイダン・・・」
謹慎中、シンシアは毎日エイダンの部屋へ通った。
シンシアが訪れても初めのうちはしばらくエイダンは何も話さなかった。落ち込んでいたようで、暗い表情でじっと座っていた。
シンシアはその横に座るだけで、かける言葉が見つからなかった。
2日程は何も言えなくて、ただ横に座って手を繋いでいた。
慰めるのも違う気がするし、謹慎中というのはどう接していいのかわからなかった。
ライアスが許していないのに自分がもういいのよと言うわけにもいかないし。
エイダンの落ち込みようが激しく、心配になったほどだった。
結局、3日目にエイダンはポツリと喋った。
「母上、僕に、がっかりした・・・?」
「まあ、エイダン——!」
シンシアは急いでエイダンを抱きしめた。
「がっかりなんて、一度だってしたことないわ」
抱きしめているのに、エイダンの体は固かった。
「エイダン。私はただ、心配でたまらなかっただけよ。生きた心地がしなかった」
この腕に抱いて、その感触を今でも確かめたくなる。失ったかもしれないと思うとずっと抱いていたいくらいだ。
「貴方たちが、少しでもつらい思いをしているって思うだけで、もうたまらないの。——だから、結果的に無事だったけれど、2人で必死に逃げた時のことなんて、想像しただけでもう・・・」
シンシアはエイダンの顔を両手で挟んだ。まだこの手ですっぽりと収まるほど小さな顔だ。
「怖かったでしょう?」
エイダンの目が見開かれる。
「本当は、この屋敷を出るときだって怖かったはずだわ。今まで一人で出かけるなんてことなかったし、不安だったでしょう」
エイダンの目は揺れていた。
そんなこと、考えていなかった。不安で怖いと思ったら踏み出せなかった。
でも、心の底では確かに、怖かった。とてつもなく。
「だけど、マリーを助けなきゃって思ったんでしょう?」
シンシアの優しい声がふわりと響いた。
「マリーを守ってくれて、ありがとう」
みるみるうちにエイダンの目に涙があふれた。
それをこらえているから、顔がゆがんで唇が震えている。
「どうして泣くのを我慢するの?思いっきり泣いたらいいじゃない」
「僕、悪いのに・・・泣いたら・・・だめだ」
エイダンの声は掠れていた。
「エイダン。貴方は悪い子なんかじゃないわ」
シンシアは何度もエイダンの頬を撫でた。
「貴方は優しい子よ。叱られたって、悪い子じゃないわ」
ちょっと悪い子でもいいじゃないと言ってやりたかったが、エイダンは真面目だから。
シンシアはただ抱きしめた。抱きしめて、背中をぽんぽんと叩いてやる。
「変わらず父上も母上も貴方を愛しているし、これからもずっとよ。良い子でなくたって、愛しているわ」
「う・・・うぅ・・・」
エイダンは嗚咽を漏らし、やがて大声でわんわん泣いた。
しっかりと声を出して、甘えるようにして泣いて、シンシアはそれを見て少しほっとした。
あまり急いで大人になろうとしないでほしい。まだまだシンシアもライアスも健在なのだから。
食卓に着いてからも、マリーヴェルはエイダンの膝から離れなかった。
「マリー、お行儀が悪いですよ」
「マリーヴェルさま、こちらへ——」
「やっ!」
恐ろしいほどの剣幕である。
レナが手を差し出すとそれを払いのけた。
「ぃやっ、やっ、ややややや!」
マリーの叫び声がダイニングに響いた。
結局、この日はマリーヴェルはエイダンから少しも離れず、くっついて過ごした。
上手く話すことはできないが、自分を助けてくれたのがエイダンだというのもしっかりと理解している。大好きだったエイダンと初めて喧嘩し拒絶されたと思ったら、命がけで助けに来てくれた。
マリーヴェルなりに精一杯の感謝と愛情を伝えたいようだが、それが言葉で十分伝えられないからよりべったり、という結果になるらしかった。
自分の好きなおやつを渡したり、今まで宝物として部屋にしまっていたものをエイダンのもとへせっせと運んだり。
マリーヴェルのエイダンへの貢ぎ物ブームはしばらく続いた。
エイダンが訓練を終えて部屋に帰ってくるのを、マリーヴェルはいつも待ち構えている。
「にちゃ、あちょぶ?」
エイダンはマリーヴェルが持ってきた勇者遊びのセットを見て笑いながら部屋のドアを開け、マリーヴェルを招き入れる。
「うん、いいよ。勇者ごっこする?」
マリーヴェルは嬉しそうにおもちゃの剣をエイダンに差し出した。
エイダンは首を傾げる。
「剣はマリーでしょ?勇者なんだから」
マリーは首を振った。
「にちゃ、ゆうちゃなの」
「え、僕が勇者?」
マリーヴェルは大きく頷いた。その目はキラキラと輝いている。
「にちゃ、かっこい、の。びゅんってね、はちってね。マリの、にちゃ、いちばん!」
エイダンは照れ臭そうに笑った。
「マリー・・・」
「にちゃが、マリのにちゃ、で・・・よかったあ」
しみじみとマリーヴェルが言うので、エイダンはぽかんと口を開けて一瞬固まった。
にこにことマリーヴェルがエイダンを見上げている。
鼻がツンと痛くなったけど、めいっぱいマリーヴェルに向けて笑った。
「僕も。マリーが僕の妹で、本当に嬉しい」