8.
アイラと別れて、随分と時間が経った。
あたりの気温も湿度も高くて、エイダンはじっとりと汗ばんだせいでシャツが体に張り付くのを感じた。
次第に、あたりに濃い霧が立ち込めて来る。
アイラの言った通りだった。
「きゃーーーーー!!」
アイラの悲鳴が聞こえる。
エイダンはギョッとした。
音を立てるって言ってた音なのか、それとも本当の悲鳴なのか。助けに行くべきか。
どんな音なのか聞いておけば良かった。
「なんだ?」
「獣?いや、悲鳴・・・?」
「近いぞ!」
男達が突然のアイラの叫び声に、向こうに気を取られている。
エイダンは意を決して、そっとマリーヴェルに近づいた。
箱を覗き込めば、よく眠っている。目には涙の跡があった。体も雨に濡れたままである。
できるだけ音を立てないように、けれど素早く。
胸が痛いくらいドキドキ鳴っている。
そっと抱き起こす。寝ているから重いが、普段から抱っこし慣れていたから、抱えることはできた。
思い切って地面を蹴り、走り出す。
とにかく無我夢中で走った。
後ろから、すぐそばまであの男たちの手が伸びている気がして。
マリーヴェルは雨に濡れたせいですっかり冷たくなっていた。いつもの温かさが嘘のように冷え切っている。
とにかく走って、走って、走り続けた。
あっ、と、木の根っこに足を取られて激しく転ぶ。身体が激しく地面に打ち付けられたけれど、マリーヴェルは離さなかった。
エイダンは肩を強くぶつけた。マリーヴェルの足が地面にぶつかって、擦り傷になっている。
あの場所からどれくらい離れられたんだろう。
霧のせいで、自分がどこにいるのかもわからない。
「・・・ん、ふぇ・・・」
マリーヴェルが目を覚ました。
足が痛かったのだろうか、泣こうとしている。
エイダンは慌ててマリーヴェルを抱きしめた。
「マリー、泣いちゃだめだ」
「にちゃ・・・?」
マリーヴェルが呼んだので、エイダンは目を合わせて頷いた。
「兄ちゃんが、助けに来たよ。——っしー!見つかったらだめだから、静かにね」
マリーヴェルが泣こうとしたので、エイダンは指を当てた。マリーヴェルは小さな手で自分の口を押えた。それでも、ぽろぽろと涙をこぼしている。
寒いのか怖いのか、ぶるぶると震えている。それを見るとエイダンは一気に身体から力が湧いてくるような気がした。
——ぼくが守る。絶対にマリーヴェルを、助ける。
ざ、ざっ、と足音が聞こえる。それが走って近づいてくるから、エイダンは急いでマリーヴェルの脇に手を差し込んだ。
「マリー。兄ちゃんが抱っこして走るから、兄ちゃんにしっかり捕まって」
マリーヴェルはいつものようにエイダンの肩に手を回した。寝起きだからか、何か薬を使って眠らされていたせいか、まだ十分に力は入らないようだった。それでも寝ている時に比べたら格段に抱っこしやすい。
エイダンは立ち上がって、足音のする方と逆に向かって走り出した。
しっかり抱えて走る。
森の中のぬかるみに足を取られるからとてつもなく重い。
けれど、マリーヴェルの手が震えながらエイダンにしがみついているのを感じると、足の重さも、身体の疲れも、不思議なことにどんどん感じなくなっていく。
腕に力をこめれば、マリーヴェルをしっかりと抱きしめて走れる。
いつもならとっくに疲れてマリーヴェルを下ろしているくらい走り続けた。
まだまだ、走り続けることができる。
——マリーが生きてた。
とん、と土を蹴れば、一足ごとに力が湧いてくるようだった。
どれくらい走ったのかわからないくらい、ずっと走っている。
けれどもまだ、森の出口にはたどり着かなかった。
霧が次第に薄らいでいく。
水路まで行かないといけないのに、道すらわからない。
それでもエイダンは走り続けるしかなかった。
「いたぞ、こっちだ!」
後方から声がする。エイダンは心臓が止まるかと思った。けれども足を止めるわけにはいかない。
「なんだ、ガキじゃねえか」
「待て!」
エイダンは更に足に力を込めて走った。
「にちゃ・・・」
「大丈夫、しっかり捕まって」
そう言ったものの、エイダンは絶望的な気持ちだった。
大人の足に敵うはずがない。出口もわからない。
恐怖に体が固まりそうになるのを、必死で足と手に力を込めた。
後ろから足音が近づいてくる。
「——っくそ、あのガキ、なんであんなに早えんだ」
「まわりこめ!」
すぐには追いつかれなかったが、それでも次第に距離が縮まっていく。
ぎゅっとマリーヴェルの手に力が入る。
突然、走った先が小さな崖になっていて、エイダンはそこを転がり落ちた。草の背丈が高いせいで良く見えなかった。
「——っう、ああっ」
立ち上がろうとして、足に激痛が走る。
「にちゃ・・・いちゃ、の?」
マリーヴェルが心配そうにして離れた。
「い、痛くない、よ、これくらい」
痛みより、絶望感の方が大きかった。
段になった小高い場所から、男たちが3人、エイダンを見つけて見下ろしている。
息を切らしている3人は皆剣を抜いて、にやにやと笑っていた。
ずるずるとエイダンは片足で後ずさりした。
「へ、へへ・・・てこずらせやがって」
「殺されたくなかったら、大人しくしろ、な」
「おい、縄あるか」
男たちがひょい、と小さな崖を降りてくる。
もう数歩のところまで来た。
マリーヴェルが、エイダンにしがみつく。エイダンはそれをぎゅっと抱きしめた。
——絶対に離すものか。
恐ろしくなってぎゅっと目を閉じる。
「——う、ぅわああ!!」
男の悲鳴に、見れば、ひとりの男の下半身が土に埋まっていた。
「な、な、っなん・・・っ!」
「わ、わからねえ、急に地面が・・・」
土の魔術だ。ライアスが来てくれたのかと思い見渡すが、その姿を見つけるより前に、エイダンは目の前が暗くなるのを感じた。
「——に、にちゃ・・・!」
後ろに倒れそうになるのを、マリーヴェルが必死で抱きとめる。
「っくそ、何だこれ。このガキか?」
「もういい、殺しちまえ。そっちの金の眼だけでいいだろ、急げ!」
そう言って男たちが剣を振り上げる。
「っ、めーー!!」
マリーヴェルの叫び声が響いた。エイダンをかばうようにしがみつく。
瞬間、辺りに血飛沫が飛んだ。剣のぶつかる、聞いたことのない音がする。怖くて目はあけられないまま、2人はじっと耐えていたが、身体に衝撃はないままに時間が経ち——。
マリーヴェルがふわりと抱き上げられた。その慣れた感触と匂いに、マリーヴェルは目を開けた。
「ぱっ、ぱ!」
「——ああ、もう、大丈夫だ」
ライアスはそう言ってマリーヴェルを強く抱きしめ、朦朧としているエイダンも抱き寄せた。
「エイダン、力を使ったのか」
「ちち、うえ・・・?」
ふらふらする頭でどうなったのか周りを見ようとして、ライアスの手が目を覆った。
「見るな。もう大丈夫だから、目を閉じていなさい」
ライアスの低い声が耳に響くと、一気に全身の力が抜けて行った。ライアスの大きくて温かな手がじわりと安心させる。
もう大丈夫。そう思ったら、気が遠くなっていく。
本当は、怖かった。たまらなく怖くて、どうしようもなかった。
それを思うと、ライアスの大きな体に、力を込めてただただしがみついた。
「う、うう・・・うー・・・」
声にならない声で唸るようにして、耐えようとしたけれど次から次へと涙があふれてきた。
マリーヴェルも大声で泣いていた。
なかなか泣き止まない2人を、ライアスはずっと強く抱きしめてくれていた。
やがて馬の蹄の音が遠くからたくさん聞こえてきた。
「——さあ、母上が心配しているぞ。帰ろう」
エイダンの意識はこのあたりで途切れた。