6.
雨が降り始めた。
馬車の中は魔術で涼しく保たれているものの、じっとりと湿度が重く感じらられる。
エイダンはシンシアと一緒にパズルを完成させた後、旅行での思い出話をゆっくりと隣で手を繋ぎながら聞いてもらい、すっかりご機嫌は直ったようだった。
旅行の最後に喧嘩にはなってしまったけれど、楽しい思い出が次から次へとあふれてくる。
「行って良かったですね、ライアス。連れて行ってくれて本当にありがとうございました」
シンシアがそう言うとライアスも嬉しそうに笑った。
「そう言っていただけるとほっとします。次はどこに行きましょうか」
ライアスの方からそう言ってもらえて、シンシアはエイダンと目を見合わせた。エイダンの目が更に輝いていく。
「また行けるんですか!?」
「ああ、今度はどこに行きたいか考えているといい」
「僕・・・海がみてみたいです!」
ファンドラグは内陸の土地がほとんどなので、海は遠い。
今回泳げたことで次は海に行きたいとなったのかもしれない。
そんな話をしていると、もう王都の町並みが見えてくる。
雨が激しく降り始め、道がぬかるんだせいだろうか。馬車の速度が明らかに落ちて行った。
ペンシルニアの屋敷へ向かう道になるともう帰ってきたような気になる。
この森の小道を抜けると、王都の城門が見える。
屋敷に着いたら、ゆっくりお茶を飲みながら、マリーヴェルにごめんなさいをさせて、旅の思い出話をしながら仲直りできるように話してみようか。
そんなことを考えていたシンシアに、エイダンが不思議そうに言った。
「——母上・・・馬車がついてきていません」
ライアスがはっとして窓の外を見る。
シンシアも後方を見れば、馬車は1台しかついてきていなかった。
マリーヴェルの乗る馬車が、ない。
「——止めろ!」
ライアスが呼びかけ、馬車が停車する。
「マリーヴェルの乗った馬車は」
「10分ほど前に離脱しました。トイレ休憩を終えてから合流すると知らせが」
「・・・待機だ」
雨は激しくなっているが、あえてここで待つ。離脱があっても、いつもであれば速度を落としながら待っている。
しかし、今回のライアスの判断は待機。何か嫌な予感がした。雨が馬車の屋根に打ち付ける音がどんどん大きくなっていく。
マリーヴェルはまだおむつが取れたばかりで、トイレ、と言う時はよほど切羽詰まった時だ。一旦止まって用を足さなくてはならない。それを見越して計画的にトイレ休憩を挟んでいたが、喧嘩騒動でそういえばそのタイミングを逃していた。
馬車それぞれの担当は決まっているから、見渡せば騎士の数は減っている。遅れてきている馬車にも騎士が10名以上警護に当たっているはずだ。
待っていればそのうち、馬車が見えるはず・・・。
森の道だから、曲がっていたり木があったりで後ろの先の方までは見渡せない。そもそも夕暮れの雨で視界はひどく悪かった。
「ライアス・・・」
ライアスはじっとシンシアとエイダンを見た。
本当なら単騎駆けて様子を見に行きたいところだが、2人を置いてはいけない。
「ベン!」
「はっ」
呼びかけに答えたのは騎士団副団長。今回はダンカーは王都で留守番をしているので、彼が騎士団の筆頭である。
「足の速いものを見に行かせろ」
「5分前にやったものが、まだ帰っておりませんが」
「もう一人放て」
ベンは既に確認をしていた。騎士の数も十分で、対応にまずいところはない。
——引っかかっているのは、ただの何の根拠もない胸騒ぎだ。だがいつもこの手の勘は嫌なほどよく当たる。
ライアスは少し考えてから言った。
「雨除けの上着を出してくれ。私も騎乗する」
「ライアス」
「——中にいてください。視界が悪く雨脚が強いので、確認に時間がかかっているのだと思います」
ライアスはそう言ったが、どうにも胸がざわついた。
まだ10分しか経っていないのだから。
そう思うのに、不安になる。エイダンもその空気を察してそわそわと落ち着きなく窓の外を見ている。
シンシアはエイダンを抱き寄せた。
「母上・・・」
「待ちましょう。揃って屋敷に帰った方がいいですものね」
シンシアは努めてエイダンに笑顔を見せた。
結局、もう10分程度待っても確認に行った騎士は帰ってこなかった。
2度目に放った騎士が帰って来たのは馬車を止めてから20分近く経ってからだった。
「離脱した場所から・・・馬車が、消えております!」
泥を激しく跳ねあげながら駆け込んできた騎士の報告に、ライアスは目の前が真っ暗になった。
「護衛は」
「一見したところでは、おりませんでした!」
騎士はとにかく伝令を優先した。
急がなければ馬車の轍もこの雨で消えてしまう。
集団に動揺が走った。
「ベン、急ぎシンシアとエイダンを連れて屋敷へ帰り、新たに捜索隊を組んで離脱現場へ来い」
「・・・・・っは」
「そこの3名、私と共に現場へ向かう」
騒ぎを聞きつけ、馬車の扉が開く。青い顔のシンシアが出てくるのを、ライアスが体で雨除けを作った。
「馬車がいなくなりました。探してきます」
「そ、んな・・・」
「必ず、見つけて参ります」
激しい雨の打ちつける音にライアスが声を大きくする。
濡れた手でしっかりとシンシアの手を握った。
「お約束します。必ずマリーヴェルは連れて帰ります。エイダンを頼みます」
白くなりすぎたシンシアの冷たい手を、出来ることなら温かくなるまで包んでやりたかった。
大丈夫だからと寄り添って抱きしめてやりたい。
ライアスはふらつくシンシアをそっと馬車の中へ誘導し、騎士を1人馬車に乗せた。
「無事に屋敷へ」
「命にかえましても」
騎士は固く胸に手を当てて応える。
シンシアは表情をなくしたままエイダンを抱き寄せた。
ライアスは馬の腹を蹴った。
雨が激しい。雨具も意味をなさないほどだ。
雨に濡れる分には構わない。問題はこの視界の悪さである。
ライアスは崩れ落ちそうになる体を奮い立たせた。
今まで、戦場ですらここまで恐ろしく感じることなどなかったというのに。
意識しておかなければ一歩も動けなくなってしまいそうだった。
こんなことが、あってはならない。
打てる手はすべて打って、一刻も早くマリーヴェルを見つけてみせる。必要なら王宮の騎士団も動かさなくては。
屋敷に着いてシンシアとエイダンは一言も発することはなく、ただ抱き合っていた。
辺りは騒然とし、使用人らが忙しく動き回る。武装した騎士らが次々と通り抜けていく。
行方知れずになった馬車には、ダリアとレナとマリーヴェルが乗っていた。
「マリー・・・」
かなりしばらくして、エイダンが心細い声をあげた。
「エイダン、心配いらないわ。父上がついていますもの。誰よりも強い、父上が・・・」
それだけ言ってシンシアは唇を固く結んだ。
母親のこんな姿は初めて見る。エイダンは一言も発することができず、ただ体が震えた。
エイダンの全身の震えがはなかなか止まらなかった。
シンシアがいくら大丈夫よ、と宥めても。
そうして夜中まで待っても、知らせは何も入ってこなかった。
食事も摂る気にならなくて、お風呂も入らず、ただ震えて待っていた。
エイダンはいつの間にかシンシアの腕の中で眠っていた。
エイダンは思った。
ぼくのせいなんじゃないだろうか。
マリーなんて大っ嫌いって言ったから。
お兄ちゃんやめるって言ったから。
マリーなんて知らないって言ったから。
どうしよう・・・。
このまま、マリーが見つからなかったら。
大切な大切な、光の力を持つ子。けれどぼくと同じくらい大切な子だからって、いつも父上と母上が言ってくれる。
ふわふわ笑って、可愛くて、すぐこけちゃう、泣き虫なマリー。
僕がいないと、怖くて寂しくて、きっと泣いている。
「マリー!!」
叫んで、目覚めた。
そこはいつもの自分のベッドだった。
エイダンはいつの間にか寝間着に着替えさせられて、ベッドで寝ていた。
空は白み始めている。
そっと廊下を窺うと、まだ使用人らは忙しそうに動き回っていた。
「——奥様、お休みになってくださいませ」
「マリーが見つかっていないのに・・・とても眠れないわ」
「せめて横になってくださいませ」
メイアがシンシアを気遣っている。
まだマリーヴェルは見つかっていないんだ。
エイダンはそっと扉を閉め、用意してあったシャツとズボンをはいた。
6歳の誕生日にもらった短剣を腰のベルトに固定する。
「待ってて、マリー」
エイダンは誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。
声に出すと力が湧いてくるような気がした。
「兄ちゃんが、助けに行ってあげる。ぜったい、助けてあげるから」
エイダンは誰にも気づかれないよう、部屋を出た。
朝起きたらベルを鳴らしてダリアを呼ぶ。その習慣をしなかった日は一日もないから、まだ朝方のエイダンに付き添う者はいなかった。その余裕もないようだった。
いよいよ王宮との使者のやり取りが始まったらしく、屋敷は更に混乱し始めている。
大人たちの視線をかいくぐって、エイダンはそっと屋敷を抜け出した。
屋敷からの抜け道はいくつか知っている。
今は屋敷の警護は屋敷の中に集中しているらしく、その他は捜索隊となって騎士が少ない。
外の見張りも少なかった。
雨はもう止んでいた。大雨のあとでぬかるんだ道だったけれど、エイダンは長靴をはいていたから平気だ。
エイダンは明るくなり始めた道を走り出した。




