5. 喧嘩
それ以来、ルーラと顔を合わせることはほとんどなかった。
ライアスにその一件を話したが、エイダンが傷ついたのではないかということをシンシアもうまく伝えられなかった。
「青磁など他にもありますし、一つくらい割れたところで構いません」
ライアスはそう言ったが、そういう話じゃない。
「エイダンは・・・お義母様の事をどう思ったでしょう」
「嫌な人だと思ったのでは」
「ライアス!」
なんてことを。エイダンがそんなことを思うわけがない。どちらかと言うと怖い人、とかじゃないか。
よくない態度を取られても、子供は自分に原因があると思いがちだ。
「おそらくもう関わってくることもありませんよ。母は子供にも我々にも無関心ですから」
だから放っておこうと言ってしまえるのは、ライアスが父親で、実の息子だからだろうか。
シンシアはこれ以上うまく話せる気がしなくて、この話は終わりにした。
2日目、ライアスは約束通り休暇を取って湖へ連れて行ってくれることになった。
エイダンはウキウキと泳ぐ用意をしている。
マリーヴェルも楽しみにして、2人できゃっきゃと笑っている。
その笑顔を見ると一安心だ。
湖まで馬車で向かい、湖畔でピクニックがてら水遊びを始める。
エイダンはライアスと共に水に足をつけて歓声を上げた。
「つ、つめたい!つめたいです、母上!!」
水の冷たさに驚きながらも、楽しそうにどんどん入って行っている。
泳ぎの得意な騎士が数名一緒に湖に入ってくれている。騎士に交じってライアスも。
——いい。
つい顔が緩む。太陽の下で水を浴びながら輝く上半身の筋肉が・・・芸術。
ライアスがエイダンに泳ぎ方を教えている。今回の旅行でエイダンに色々教えるということができるようになった。父親としてのレベルが1つ上がったんじゃないだろうか。
この旅行に来て、本当に良かった、と思う。
「み、みじゅ・・・!」
水にほとんど入らず、水辺で騒いでいるのはマリーヴェルだ。
あんなにやんちゃなのに、水はあまり好きではないらしい。ちょっと服が濡れたのを、この世の終わりのように泣き始めた。
「ママ、こえ・・・!」
「あら、濡れちゃった?大丈夫よ、すぐに乾くから」
「や!きちゃ、な・・・っめ!」
「汚くないわよ。綺麗な水だから」
「やー!!みじゅ、きあい!」
エイダンは小さいころから水も泥も大好きだったが、マリーヴェルは若干潔癖なところがある。そのおかげでおむつが取れるのも早かったくらいだ。
レナに着替えさせてもらってようやく落ち着いてくる。
エイダンは湖で、マリーヴェルは草むらで遊んだ。
そうなると昼食を終えて眠くなった辺りから、マリーヴェルが駄々をこね始めた。
「もう、かえりゅ」
そう言って譲らない。
「マリー、僕もうちょっと泳ぎ練習したいな」
「や」
「お兄様がまだ泳いでるから、もう少しここで遊んでましょう」
「や」
「お花で冠を作りましょうか」
「や」
「虫を捕ま——」
「や」
取り付く島もない。
「仕方ないわね、私は先にマリーヴェルと屋敷に帰っていますね」
「えーっ!」
エイダンが即座に残念がって声を上げた。
「大丈夫よ。母上とマリーヴェルだけ先に帰るから、エイダンはもうしばらく、父上と一緒に湖で遊んでいるといいわ」
「・・・・・・母上にも・・・」
そうだよね、見ててほしいよね。
しかし、マリーヴェルをライアスに任せてシンシアが湖に残るというのは、少し無理がある。
「ごめんなさい、エイダン。また来るから、今日は先に帰ってもいいかしら」
エイダンはつまらなさそうに頷いた。
「行くか?エイダン。今日中に泳げるようになるんだろう」
ライアスにそう言われて、エイダンは再び湖に入って行く。
「気を付けて帰ってください」
「ええ、ライアスも」
そう言って軽く頬にキスをされて、湖での遊びは終了となった。
今回の旅行の間、エイダンのマリーヴェルへの献身的なべったりが減った。
マリーヴェルは相変わらずエイダンを追いかけているが、これまで無条件に受け入れていたエイダンが、時々避けるようになった。
あからさまにではないが、無理もないと思う。
エイダンがやりたい遊びは、4つ年下のマリーヴェルにはまだ難しいことが多い。
自然の中での乗馬、水遊び、木登り、ヨット遊びなど、マリーヴェルがいると思うように楽しめない。
マリーヴェルはまだまだ室内での遊びが中心である。シンシアはマリーヴェルのペースに合わせているから、エイダンにはダリアとタン、それに騎士らが付き添ってくれている。
人手があってありがたい。
「母上、こんなものを見つけました!」
そう言って満面の笑みで帰ってくるエイダンが、輝いて見えて。旅行に来てよかったと思うシンシアだった。
そうして過ごしたヒュートランの休日も、ついに終わりを迎えた。
結局ルーラとは数回顔を合わせただけで、形式的なあいさつを交わす程度。
子供達との関わりもほとんどなかったが、幸い子供達ももう気にしていないようだった。
特別怖がる様子もなかったので、少しほっとした。
しっかりと別れの挨拶をしてから、一行は王都に向けて出発した。
帰りの旅も順調に進んだ。
来た道を帰るので、見覚えのある景色が続く。
中継の街で一泊して、今度は少し夜もゆっくりして。
また、王都へ向けて出発した。
そうして数時間馬車が走り。
「にちゃ、こえ・・・」
「うーん・・・」
「にちゃ!」
「ちょっとまって、僕、今これしてるから」
いつもの勇者ごっこだろう。マリーヴェルがおもちゃの剣をエイダンに渡してくる。一方エイダンは、今はヒュートランの街で買った、複雑なパズルに夢中である。
マリーヴェルの顔が不機嫌にどんどん変わっていく。
唇を突き出して、くりくりの目が据わっていくのを見て、シンシアは笑いをこらえた。
「マリー、ママと一緒にやらない?」
「や!にちゃがいい!」
ああ、エイダンには勝てなかった。——でも可愛い。
「そう言わずに、ママと遊んでくれない?ママも魔王を倒したいな」
「——っや、にちゃ!」
マリーヴェルがライアスの膝の上から手をあげた。
「っあ、こら!」
マリーヴェルの手が勢いよく振り下ろされて、エイダンの手に持っていたパズルを叩き落とす。
からからから、と転がって、手元のパズルのおもちゃが馬車の床でバラバラになる。
「あっ・・・・・」
エイダンが一瞬固まった。
「にちゃ、マリと、あちょぶの!」
「何するんだよ、あとちょっとだったのに!!」
エイダンが珍しく怒って、マリーヴェルに怒鳴った。
シンシアがパズルを拾い集める。
「エイダン、壊れてはいないみたいよ?——マリー、お兄様にごめんなさいは」
「や!」
マリーヴェルがそう言って口をとがらせるのを見て、エイダンの堪忍袋の緒が、切れた。
「マリーの馬鹿!!」
面と向かって怒鳴られて、マリーヴェルは驚きに固まった。
「邪魔ばっかりして。もう、大っ嫌い!!」
エイダンがきっ、とマリーヴェルを睨みつける。
「エイダン」
ライアスが窘めるように声をかけるのに対し、エイダンはこぶしを握り締めていた。顔が真っ赤になっている。
「僕はずっとずっと我慢してた!水遊びだって、泳げるようになった時、母上に見てもらえなかったし!馬に一人で乗れた時も、木登りも、母上はマリーに付きっ切りで。マリーは勝手ばっかり。大事なつぼもこわすし、ちっともいうこと聞かないし。そのせいでおばあさまにも嫌われたんだ!泣いてばっかりで。もう、僕、・・・ぼく、お兄ちゃんやめる!」
最後の方はエイダンも泣きながら叫んだ。
「マリーなんて、だい、だい、だいっきらい!!」
「エイダン!」
ライアスが咎めるように名前を呼ぶ。低い声にエイダンがひっ、と息を飲んで、次の瞬間、火が付いたように泣き出した。
マリーヴェルも負けじと大声で泣き始める。
馬車は子供二人の大号泣でとんでもないことになった。
シンシアはエイダンを抱き寄せた。
エイダンはシンシアの膝によじ登ってきて、がっしりとシンシアの首にしがみつくようにして泣き続けた。
ああ、こんなに大きくなって、力も強くなったんだなあ。
ものすごい騒音の中、呑気にもそんなことを考えてしまう。
「——閣下、馬車を止めましょうか」
外の騎士が気を遣って声をかけてくるのがかろうじて聞こえる。
「ああ」
ライアスは暴れながら泣き叫び、シンシアの方へ行こうとするマリーヴェルを抱っこしている。
やがて馬車が止まった。
「ままぁ、・・・に、ちゃあ・・・」
マリーヴェルがエイダンを見ながらそう言って泣いている。
「・・・エイダン、マリーが泣いてるぞ」
「しらないっ、マリーなんて、だいっきらいだってば!」
エイダンはシンシアから離れない、とばかりに力を込めてしがみついてくる。
ライアスが難しい顔をする。エイダンとマリーヴェルを見比べて、どうしたら良いのかわからないと言った様子だ。
「マリーをあやしてやってください」
シンシアがそう言うので、ライアスはマリーヴェルを連れて外に出た。
泣き声が少しずつ遠ざかっていく。
「エイダン」
シンシアはできるだけ優しい声で、エイダンの背中を叩いた。
「ごめんね。もっとたくさんエイダンと一緒にいてあげたら良かったのに」
これは反省である。ついつい、室内で過ごす方に多くいて、室外遊びは乳母と侍従に任せることが多かった。
エイダンは首を振った。
「母上じゃない。マリーが、嫌なの!」
「そう・・・。あとね、お祖母様は、エイダンの事嫌ってなんていないわよ」
やはりエイダンの中でずっと引っかかっていたんだろう。胸が締め付けられるような気がした。
もう一度ルーラと共に場を設けるべきだっただろうか。——いや、回数を重ねたところで、あの態度が変わるとも思えなかった。
「ぼくもう、マリーとしゃべらない」
「あら・・・困ったわね」
旅行では、エイダンとマリーヴェルの距離がいつもより近くなって、一緒にいる時間も格段に増えた。
マリーヴェルは2歳になって何でも「や」と言って聞いてくれないし、いつも母親を独占してしまう。
エイダンもここまで我慢を重ねてきたものが、爆発したようだった。
シンシアとしてはどちらかというと、良かった、と安心したような気持だった。
エイダンはいつもマリーヴェルが可愛いから、と何でも言う事を聞いてやっていたから。こうして兄妹喧嘩ができるのを見るとホッとする。
初めての兄妹喧嘩だ。
前世では、娘たちは毎日どころか毎時間くらい喧嘩していた。
夏休みなんかになるともう、ひどいもので。横で見ていても、何が喧嘩の原因なのかよくわからない。見ている側にとっては、実にくだらない内容でしかない。例えば足が触れ合うだけでも喧嘩の原因になる。年齢の差も体格の差も関係ないし、お互い使えるものはあらゆる手を使って勝とうとする。
まったくもってめんどくさい。
だが、子ども同士でもこうやってお互い自分の主張をしあって、人付き合いを学んでいくのだと思う。
しかし、とりあえずはこの怒りに震えるエイダンをどうしたものか。
真面目に何事にも取り組むエイダンは、比較的穏やかな性格だ。自分から争いごとを起こすということはまずないし、物の取り合いになるとまず譲るような子だ。
そんなエイダンだけど、若干こだわりがあると譲らない部分もある。もしかしたら長引くかもしれない。
「マリーはエイダンの事が大好きだろうけど・・・そうね。パズルも壊されて、許せないわよね」
「ごめんなさいしても、ぜっっったい、ゆるさない!」
おお、相当お怒りだ。
シンシアはふっと笑った。
「わかったわ」
可愛がっていた分、怒りもひとしおなのだろうか。
とりあえずは落ち着くまで様子を見よう。根底には愛情があるから、エイダンの中で折り合いがつけば許せるはずだ。無理強いは良くない。
馬車から降りても、エイダンはマリーヴェルを睨んで、ふんっ、とそっぽを向いた。マリーヴェルがまた泣き出してしまう。
仕方ないので、とりあえずマリーヴェルはレナと後方の馬車に乗ってもらうことにした。
シンシアが付き添おうかと思ったが、エイダンが離れなかった。
ヒュートランで相当我慢をさせていたしと思い、シンシアはエイダンと馬車に乗ることにした。ライアスがマリーヴェルの方に行こうとしたようだったが、エイダンと引き離した悪者になってしまっていた。
「ぱぱ、あっち!」
と追い出されている。
泣き声は聞こえないから、レナが上手にあやしてくれたのだろう。泣きながら昼寝をしたのかもしれない。
走り出した馬車で、エイダンを膝に乗せたまま、シンシアはやれやれ、とライアスを見た。
ライアスは深刻そうに眉を寄せていた。
「ライアス。そんな怖い顔をしないでください」
「——しかし・・・大変なことに」
「え」
「エイダン、マリーにあんな大声で——」
「ライアス」
何を言おうとしているんだ。
ライアスは初めての兄妹喧嘩に動揺しているようだった。普通の喧嘩なのに、かなり深刻そうな顔をしている。
それこそ、家庭崩壊の危機とでも言うように。
余計なことを言わせるわけにはいかない。
2歳のマリーは今の事しか頭にないが、6歳のエイダンには積もり積もったものがある。
先ほどの場面だけを見ればエイダンが怒りすぎているように思うかもしれないが、ここまでのことを思えば、エイダンに今すぐ怒りを収めろと言うのはあまりに無茶な話だ。
ライアスはシンシアの黙って、という空気を察したのか、沈黙した。
シンシアはエイダンの頭をよしよし、と撫でた。
「エイダン、泣き止んだら、母上と一緒にさっきのパズル、やらない?」
「・・・・・・・・」
「久しぶりの抱っこだから、まだこうしていてもいいけれど」
そう言ってシンシアがぎゅー、と抱きしめると、エイダンは嬉しそうにやっと少し笑顔が見えた。
夏休みを終えた全国のお父さん・お母さん
お疲れ様でした!!