3. ライアス
エイダンはますます活発になり、部屋の中を縦横無尽に這い回るようになった。
お腹で移動している。メイドたちが毎日ピカピカに磨き上げてるからいいんだけどね。
立とうとしているのか、あちこち掴まって引っ張るから、もう気が気じゃなかった。
結局、私の部屋はベッド以外何もない部屋になった。
テーブルと椅子があったところにふかふかの巨大クッションを敷いて、そこで私は過ごす。
エイダンはあちこちを這い回る。
床がツルツルなせいか、エイダンのずりばいは私でも追いつけない程のスピードに進化した。
男の子だからか、両手両足をものすごい速さで動かして。私はこれをトカゲ走りと呼んでいる。
でも、なんと、私のところに帰ってくるようになった。
おもちゃで遊んで、飽きたら。
大きな音がして驚いたら。
私を安全基地みたいにして、旅立っては帰ってくる。
赤い髪も伸びてきて、それがゆらゆら揺れて。
ああもう、全部可愛い。
「エーたん」
呼ぶと、エイダンはちら、とこちらを見る。機嫌が良かったら戻ってくることもある。
「あ、ぶー、ぶうぁー」
エイダンが歌い始めた。
それを聞きながら、うとうとして、私はクッションにもたれた。
ふと、頬に、誰かに触れられた気がして、目を開ける。
「ん・・エイダン?」
エイダンは足元で私にしがみつきながら、眠っていた。
わお、ドレスによだれで大陸地図が。
ぬっ、と影が差し、ギョッとして見上げる。
いつの間にか横に人がいたなんて。
騎士にしては距離が近い。大人の男。
咄嗟にエイダンを抱いて見上げて——あ、この人は、と警戒を解いた。
目の覚めるような鮮やかな赤い髪、おそろしく整った顔。
夫だ。
記憶の中にはあったけど、この顔面、生で見ると・・・いやすごい破壊力だな。
「・・・・・」
しかも、無表情で何も言わない。
ライアス・ペンシルニア。
王国の剣と言われる、ペンシルニア公爵家の当主。
代々地の属性の使い手で、身体能力が高く騎士を務める家系だ。
このライアスも例にもれず恵まれた体躯と身体能力で現在も騎士団長を務める。魔力量も歴代随一、負け戦しらずとも言われている。
先の戦争の功績で騎士団長に就任したのは25の時。そしてそのまま第一王女シンシアを妻に迎え、現在26歳の若さで公爵位と騎士団長職を忙しくこなしている。
王女との仲が冷え切っているのは周知の事実だが、他に女を作っている様子はない。
「こんなところで寝ていては、体を冷やします」
ようやく口を開いた。
気遣うようなセリフなのに、この人が言うとなぜこんなにも冷たく聞こえるのだろう。
この目が冷たいからだろうか。エイダンの柔らかいラテな瞳と違って、この人の色は濃い茶色だ。深い色に感情のこもっていないようで、ひどく冷たく感じられる。
「——あ、の・・・」
お帰りなさい?お久しぶり?なんていうべきだろう。
「王女殿下、お加減はいかがですか」
他人行儀な聞き方だ。妻に向かって、王女殿下?しかも臣下の礼をとっている。
鉄壁の構えで、あくまで事務的に。
冷たさの原因は、この人のこの態度だろうか。
もしくは、緊張が伝わってくるような?
「あ・・」
まてよ。何て呼ぼう。あなた?旦那様?——いや、前世でもそんなセリフ言ったことない。
今までなんて呼んでいたか記憶をたぐるが・・・お前、野蛮人、けだもの——うん、ないな。
ライアスはじっとエイダンを見下ろした。
「その子が・・・」
ええ、この子があなたの子ですよ。可愛いでしょう。
「エイダン、と名前をつけました」
「そうですか」
「あなたの子です」
「知っています」
その言い方に、あなたが放置してた子です、と言ってやりたかった。呑みこんだけど。
「茶・・」
目の色は魔力を表すことが多い。
エイダンも地の力を使うと思ったのかもしれない。光の属性の子を狙ってシンシアと婚姻したのに、出てきたのは土の子。——そう思われていたが、エイダンは土も光も使える。
これが分かるのはまだ十数年先の話だけど。
エイダンが金の眼を持って生まれたら、もっとこの父親にも大切にされていたのだろうか。
いやいやいや。関係ないでしょ、そんなこと。
大体、目の色?感想はそこなの?
可愛いとか、大きくなったなとかないのかしら。
「エイダンを見に来たのですか?」
「陛下に、どのような子かと尋ねられましたので」
「お父様に?」
そういえば、孫の顔も見せていない。
記憶の中の父は、ひたすらシンシアに甘く優しい人だった。いつも最大限可愛がってくれていた。
それなのに、突然ライアスの元へ嫁げと言い、その後頑として話を聞いてくれず。シンシアは絶交すると言い置いて城を去ったのだ。
「これより先は、父でも娘でもありません。わたくしを道具のようにしたのですもの。何の未練もないことでしょう!」
——その捨て台詞が最後の親子の会話だったな。
記憶の中のシンシアには、ひたすら怒り、悲しみ、そればかりだ。
それにしても、子供が産まれて九ヶ月にもなるのに、どんな子かと聞かれて答えられないから見に来たって。
何から突っ込めばいいのやら。
「それで、何とご報告するんです?」
「健やかな子であると。瞳の色は茶、とお伝えします」
「——どうですか?」
「どう、とは・・・」
こんなもんなの?貴族の父親って。
一緒に喜んで、愛情を感じるのは難しいのだろうか。
ライアスはしばらく考えてから、眉間に皺を寄せたままボソリと言った。
「ご心配なさらずとも、出産が大変だったのは聞いております。金の瞳でなくとも、二人目を作れとは、陛下も言われますまい」
絶句、だ。
誰がそんなこと聞いてるのよ。
一瞬、前世の姑の顔が浮かんだ。
長女を産んだ時、「まずは女の子だったのねー」と言われたのだ。
産後1日目にして。
悪気はなさそうだった。何気ない一言。
次は男の子ね、と言わないだけまし?いやいや。
ついその頃のことも思い出しちゃって、怒りを含んだ視線を送ってしまった気がする。
ライアスはそれを独自に解釈したようで、慣れた仕草で視線を逸らす。
「んぶ、んあ」
エイダンが頭突きをしつつ、顔を擦り付けてきた。まだ眠いのだろうか。
「——抱いてください」
「な・・・」
何を驚く。
「貴方の子です。ほら、貴方によく似ています」
持ち上げる筋力はないため、手を開いて見せる。
ライアスはしばらくしてから、恐る恐る、エイダンを抱き上げた。
「——っふ、ふあ、ああ」
エイダンは即座に顔をくしゃくしゃにして、今にも泣きそうになる。
ライアスが慌てて返そうとするが、受け取るものですか。
父親として、是非にも触れあっていただかねば。
エイダンが泣き叫ぶ。ものすごい声量だ。
「う、乳母——」
「必要ないわ」
「泣いています」
「だから?」
怒りを含んだ私の、有無を言わさない圧力を感じたのだろう。
泣き叫び体をのけぞらせるエイダンを落とさないように必死だ。
慌てふためいている。
抱き方からしてなってない。居心地が悪そうだ。
いや、どれほど居心地が良かろうと、初対面の見知らぬ男に心を許せないだろう。
「乳母を呼びます」
「この時間は私が見ています。なぜ呼ぶ必要が」
「泣いています。可哀想と思わないのですか」
可哀想ですとも。
こんな病弱な母親のせいで、半年も母親を知らずに育って。
父親の顔も知らないままに育てられて。
赤ちゃんは泣くものだ。生後半年。
ちゃんと自己主張するようになって、すこぶるいい反応で素晴らしい。
前世で。
夫が仕事から帰ってきて、ベビーベッドで泣き叫ぶ子供を見て言った。
「ねえ、泣いてるけど。あやしてやらないの?可哀想だよ」
可哀想、その言葉にカチンとはきたものの、泣かせている事に後ろめたさがあったのだろう。私は言い訳からした。
「晩御飯、油が飛ぶから、今手が離せないの」
「ご飯なんてあとでいいよ。俺待てるからさ、優先してあげてよ」
なんだその、寛容を装った言い方は。そのベビーベッドの柵を掴んでる手は飾りか?
「もうこれ炒めて終わりなの。ゆう君抱っこしてあげてよ」
ずっと抱っこしていた、さっきまで。抱っこしながらお昼を食べて、掃除して、洗濯物取り込んで、洗い物して、晩御飯を作ってた。最後の仕上げに、今ベッドに置いたところなんだから。
「俺が抱っこしても嬉しくないでしょー。俺じゃ泣きやまないもん。ママがいいんだよ」
これに、私は火を止めた。そして一直線、旦那に拳を入れに行った。
——産後だったからね。すぐイライラしちゃって。あるよね、そういうこと。
子供の相手なんて経験あるのみ。
エイダンはますます激しく泣いている。
扉の陰から、乳母がこちらを窺っている。私はそれを目線で抑えた。
エイダンは泣きすぎて咳き込んでしまった。
肌が白いから、顔が真っ赤になっている。
「——っ、ち、治癒師を」
「何のために」
「こんなに苦しそうに」
「心を込めてあやしてみてください。声をかけてやると尚良いです」
「貴方は・・・心が、痛まないのですか」
痛みますとも。
エイダンが泣くだけで、胸が掻きむしられるようだ。
でも、触れ合わないと感じないでしょう?
自分の子がどれほどか弱く、愛しいか。
ライアスがエイダンを抱いているところを見ると、間違いなく親子なのに。なんてぎこちないんだろう。
ここまでかな。
私は手を差し出した。ライアス半信半疑、といったようにエイダンを渡す。
「エイダン、しー、ママですよ」
「うー、っひ、く、うーっ」
優しい声であやせば、エイダンは不満を声に乗せて、しゃくりあげながら泣き続けた。
とんとんと背中を叩けば、次第に落ち着く。
「乳母」
呼べば、待ってましたというように腰を低くしながら乳母が入ってくる。
エイダンを預け、散歩に出てもらう。
かなりの沈黙の後、ライアスが重い口を開いた。
「あの子が1歳になるまでに、神殿へ行かねばなりません」
そうだ。
この世界は神殿が神を祀っている。
子供が生まれたら1歳までに洗礼を受けにいくのが慣例だ。
「洗礼式はせねばなりません。——私のことがどれほど嫌であろうと、一緒に行っていただきます」
洗礼式。
古い記憶を辿ろうとして、難しい顔になってしまっていたかもしれない。
それをどう受け取ったのか、ライアスはそれ以上何も言わなかった。