1. 家族旅行
ペンシルニアに夏がやって来た。
今年こそは。
シンシアは目論んでいることがあった。
家族旅行である。
エイダンは6歳、マリーヴェルは2歳になったばかり。
護衛が数多く必要で、ちょっとした移動も大変なのはわかる。
しかし、結婚して7年。
王都の街には、比較的よく出かけるようになった。常にライアスと共にではあるが。
しかし王都の外にはまだ出たことがない。
生まれてこの方、出たことがないのだ。
いつか出てみたいとずっと思っていた。
するとこの夏、ライアスが領地の視察に出かけるという。
行きたくない、離れたくないと言うので、だったら一緒に行きませんかと言ってみたのだ。
初めは渋っていたライアスだったが、一緒に過ごせるという誘惑に、実際どうすればいいか計画を立ててみたところ、行けるかもしれないと思い始め。その後もシンシアの説得が続くと、結局はそれに応じた。
近頃、子供達はと言うと。
エイダンはペンシルニアの血を濃く受け継いだらしく、骨格筋がしっかりとした体になってきた。本人の希望もあって剣の訓練も始まり、ますますライアスと所作まで似てきた。
剣を振るうと基本姿勢があるから、似て来るらしい。
顔つきも精悍になってきて、急に成長したようで少し寂しい。
エイダンが剣の訓練をしているのを見ているから、マリーヴェルは真似をしたがる。
絵本の影響か、マリーヴェルの最近のお気に入りは勇者ごっこである。
「まおー、たおちゅ!」
「あ!マリー、それ僕の剣だよ。返して」
訓練が終わってシャワーを浴び、自分の部屋に入ったエイダンは、いつの間にか部屋に侵入し自分の木剣を掲げるマリーを発見した。
「にちゃ、かちて」
「だめだよ、危ないよ」
木剣と背丈が同じぐらいだからふらふらしている。
「う・・・うえ・・・」
「あ、ああ、泣かないで、マリー。勇者ごっこするの?僕、お付きの召使やるからさ。ほら、こっちの柔らかい剣持って。これなら振り回してもいいから」
マリーのお気に入りの絵本は、勇者と従者で魔王を倒す内容だ。
その内容で勇者ごっこを、もう何十回とさせられている。
「っや!こえ、マリの!」
「マリー・・・」
「にちゃ、いっちょ」
そう言ってマリーは高らかに剣を掲げ、掛け声を上げる。
「あだー!」
「あっ、ちょ・・・いた、痛いよ」
マリーはかっこよく剣を振り回しているつもりなのだろうけど。身体が倒れそうで怖くてエイダンが慌てて支えると、剣が顔のあちこちにぶつかった。
「——こら、マリー!」
聞き慣れた声と共に、痛みがさっと引いていく。
シンシアがマリーヴェルを抱え、剣を取り上げた。
「——っあ、ママ!そえ、マリの!」
「いいえ、これは兄様のです。マリー、お兄様を見てごらんなさい。そんなものを振り回して、痛いでしょう?」
シンシアが剣を取り上げ、さっと乳母に渡す。
マリーヴェルの乳母のレナである。一瞬目を離した隙にマリーヴェルがいなくなったものだから探し回り、額に髪の毛が張り付くほど汗をかいていた。
エイダンの赤くなった頬を見せられて、マリーヴェルもまずいと思ったのか、先ほどのように泣こうとはしない。
「ほら、お兄様にごめんなさいは?」
「にちゃ、ごめ、ね」
「大丈夫だよ。はい、これで遊ぼ?」
柔らかいおもちゃの剣を渡せば、マリーヴェルはたちまちまた元気になった。
シンシアはやれやれ、とエイダンに手を伸ばした。
「エイダン、ほら、見せて」
「大丈夫だよ、こんなの」
そう言って治癒させてくれない。
稽古が始まった辺りからだろうか。抱っこどころか膝の上にも乗らなくなって。母としては、少し寂しい。
勇者ごっこを始める2人の子を見ると自然と笑みが溢れてしまうが。
シンシアとしては、エイダンが優しすぎてちょっと心配である。
マリーヴェルがやんちゃすぎて。
——いや、そう言えばエイダンもこのくらいの時はやんちゃだったかもしれない。
しかし、エイダンはマリーヴェルに甘い。
そのせいかマリーヴェルもエイダンにべったりだ。
屋敷の誰よりも懐いているから、エイダンもますます可愛く思うらしい。
マリーヴェルの遊びにはいつまでも付き合ってくれるし、疲れたから、とよく抱っこをせがまれて抱いている。
シンシアとしてはエイダンが無理をしていないか心配である。
部屋がノックされ、執事がやって来る。
「奥様、旦那様のお帰りです」
「分かったわ」
「マリも」
そう言って大人たちの脇をすり抜けマリーヴェルが走り出す。レナが慌てて追いかけた。
エイダンは遊んでいた道具を片付け始める。
シンシアは玄関ホールへ向かった。
程なくしてライアスが帰宅した。
マリーヴェルはドアが開くなり走ってライアスに突進する。
ライアスがそれをふわりと抱き上げた。
「ぱっぱ!」
「ただいま、マリーヴェル」
ぎゅっと抱き合った後、軽々とマリーヴェルを片手で抱いて、ライアスは一直線にシンシアに向かってきた。
そのまま空いた方の手でシンシアの腰に手を回し、ぐっと引き寄せられる。抱きしめられてライアスの頭が肩に乗り、ふう、と息がかかる。
「お帰りなさい」
シンシアの言葉には頷くだけで答えず、ライアスはそのまま深く息を吸った。
「ちょっ・・・、ライアス!」
ぐい、と腕を突っ張ってライアスの体を押した。びくともしない。
「ああ、シンシア・・・」
「ちょっ、ほんとに、もう——」
掛かる息がくすぐったくて身をよじれば、ようやく離れていった。
何吸ったの?今。
「すみません。昨日から会えなかったので」
「・・・?会っていますよね」
起きた時にはライアスはもう屋敷を出ていたが。寝室が一緒なんだから、毎晩毎朝、嫌でも顔を合わせている。
「起きた貴方とは会っていませんから」
そう言ってちゅ、と頬にキス——じゃない。
「やめてください、こんなところで」
「はい」
はい、の顔じゃないのよね。
シンシアは緩み切ったライアスの顔を今度こそ押しのけた。
「今日は早くお帰りだったのですね」
「ええ。ようやく一段落つきました」
「では・・・」
「はい。週末には予定通り、ペンシルニア領に向けて出発しましょう」
シンシアは期待に満ちた目をライアスに向けた。
「本当に?本当の、本当に行けるのね!?」
「ママ・・・?」
急に高い声を上げるからマリーヴェルがびっくりしている。シンシアはそれにも満面の笑みを向けた。
「マリー、旅行に行けるんですって!」
「りょこ?」
「ええ。そうよ。旅に行くの。どうしましょう」
ここ数日ライアスは朝早く夜遅くまで仕事をしていた。それもひとえに、この家族旅行のための諸々の調整のためだ。
それがついに目途が立ったという。
努力する、とは言っていたが、思っていた以上に早かった。
「ありがとう、ライアス。本当に嬉しいわ。私、王都を出るのは初めてよ」
言いながら、どんどん興奮していく。
「生まれて初めて。どうしましょう。今夜は眠れないかもしれないわ」
「お付き合いしますよ。一晩中でも」
シンシアはライアスを無視して走り出した。
視界の端にエイダンが見えたので、そちらに向かって走り寄った。
「エイダン!週末にはペンシルニア領に行けるんですって!」
「本当ですか」
シンシアは嬉しくなってエイダンを抱きしめた。旅行に行けるかもしれないという話は、エイダンにもしている。
ペンシルニア領についても一緒に色々と調べていた。
エイダンも嬉しそうに笑う。
「父上、お帰りなさい。湖があるんですよね。泳いでもいいでしょうか」
「ああ」
「いいわね。水遊びしましょう!船もいいわね」
「うわあ・・・」
喜び合うシンシアとエイダンを見て、マリーヴェルが不思議そうにしている。
「おふね?」
「——ああ、船遊びしよう。楽しい旅になるといいな」
「たび・・・ゆうちゃ?」
「いや、勇者じゃないが・・・家族旅行だな」
ここまで喜ばれると、無理をしてでも旅行の段取りをして良かったと思うライアスだった。
光の力があるからといって、王都に閉じこめておくのはあんまりだ。歴代の光の力をもつ王族は、生涯を王城で過ごす者も少なくなかった。
今回の旅行を決めたのは、それでも文句を言わず屋敷内にいてくれるシンシアを思っての事だった。街歩きどころか屋敷の敷地内ですら、護衛を連れて歩かなければならない。
シンシア自身は、生まれた時からそうだから、平気だと話してはいた。しかし、窮屈でないはずがない。
それでもライアスの心配をわかって、無茶をせずちゃんと護衛の囲いの中にいてくれる。
だからシンシアが旅行に行きたいと言った時、無理だろうというよりも、ようやく我儘を言ってくれたといった気持ちの方が強かった。
シンシアが子どものように喜ぶのを見て、ライアスまで嬉しくなった。
「——ペンシルニア領までは、馬車で2日ですか」
「そうですね。馬を走らせれば1日で行けるのですが、マリーもいますし、無理をしない方がいいでしょう」
「ええ。ゆっくり道中を愉しむのもいいですね」
シンシアは本当に眠れないようだった。
ベッドに入ったものの、ライアスの腕に抱かれながら、道中どこに泊まるとか、そこでは何が有名だとか、そんな話をしている。
ライアスが話すのを、少しも聞き逃すまいとしているようだった。
本当に徹夜しそうだから、せめてシンシアの頭を胸にもたれかけさせ、トントンと頭を撫でる。
いつもならそれでしばらくしたら寝息を立て始めるのに、シンシアは眠れないようだった。
時折ライアスの胸にすり、と頭をすり寄せながら、嬉しそうにありがとう、と呟く。
ライアスは少し胸がチリ、と痛んだ。
「すみません」
「・・・・・え?」
「貴方に、何不自由なく幸せな日々を送っていただきたいのに。この屋敷に押し込めて、私は自己満足していた」
結婚して7年にもなるというのに、どうして今まで旅行の一つも連れて行ってやれなかったのだろうか。
シンシアはきょとんとした目をライアスに向けた。
「押し込めてだなんて。私は幸せな日々を、子供達と一緒に送っていましたよ」
シンシアとしては、何かに忙殺されると言うこともなく、ただただ子供達を可愛がり愛情を注ぎながら日々を過ごせたのは何よりの幸せだった。
確かに多少の窮屈さはあったし、こうしてマリーヴェルが2歳にもなればもう外へ出たくはなるが。
今の生活に満足していた。
そしてもう一つ。シンシアには旅行へ行けない理由があった。
「——お父様も心配だったし。なにより、ティティの力になりたかったもの」
それは、マリーヴェルが1歳になり、王城を訪ねた時だった。
シンシアの幼い頃にそっくりなマリーヴェルを見て、国王はむせび泣き、その場に崩れ落ちた。
あまりの様子にシンシアは驚いて立ち尽くした。その肩を抱き寄せ、ライアスがオルティメティに視線をやった。
オルティメティがそっと国王に話しかける。
「父上——マリーヴェルは、もう眠いようです。父上も少し休まれてはどうでしょう」
「う。うぅ・・・す、すまない・・・こんな・・・せっかく来て、くれたのに・・・私は」
「大丈夫ですよ、またすぐ来てくれますから」
国王のすっかり小さくなった背中と、それを慣れた風に支えるオルティメティ。
侍従に任せた国王が退室し、静かになった部屋でシンシアは愕然としてオルティメティを見た。
オルティメティは力なく笑って、肩を竦めて見せた。
「ここのところ調子がいいと思ったんだけどね」
「どういうことなの・・・ティティ」
「・・・ごめんね、言わなくて。心配させたくなくって」
「父上は——」
「おかしくなったわけじゃないよ。ただ・・・なんて言うのかな、悲観的になってて」
そんなレベルでもなさそうだったが。
シンシアが納得しない様子だったからか、オルティメティは付け加える。
「大体お部屋でぼうっと過ごして、泣いて、そんな毎日だね」
「そん、な・・・いつから」
その問いかけにすぐには答えないから。もうずっと昔からこうなのだと察した。
それはつまり、前世で言うところのうつ病ってやつじゃないのか。
シンシアはそれがどうすれば治るのか知らないけど。ストレスがよくないとか、頑張れって言ったらダメとかくらいしか知らない。
「ごめんね、言わなくて・・・」
「謝らないで」
シンシアはたまらなくなって、オルティメティを抱きしめた。
「ティティは何も悪くないじゃない。謝るのは私の方よ。気付いてあげられなくて、ごめんなさい」
国王があんな様子で、まともな国政などできるはずがない。
それはつまり、ずっとオルティメティが請け負っていたということだ。
まだ、やっと18になったところだというのに。
「ああ、ティティ・・・本当にごめんなさい。私、自分の事ばかりだったわ」
オルティメティは何も言わなかった。
何か一つでも言葉を発すれば、堰を切ってあふれかえってしまいそうだったから。
ただ、ゆっくりを首を振った。
引き結ばれた口元が、これまでの苦労を表しているようで。見ているシンシアの方がまた涙が出そうになるのだった。
以降、シンシアは王城へ行った時にはオルティメティと国王を訪ねるようにした。
これまでライアスの職場へ来ても、そのまま帰ることがほとんどだったが。
3日に1度は通うようになった。
オルティメティの様子を窺い、健康を気遣い。
そして国王とは、ゆっくりと話した。他愛もない話だった。
シンシアの心配ばかりする国王に、ありがとう、お父様。私は幸せです、と、そう言っていつも退室するようになった。
劇的に良くなるということはなかったが、オルティメティいわく、国王が死にたいと言うことはなくなったという。
そこまで深刻だったのかと逆に驚いたが、オルティメティからはそれだけでかなり良くなった、安心した、と感謝された。
そうして1年が経つ。
内政を司る役職を増やし、国王のみで裁可することを減らし。
だいぶ落ち着いてきたように思う。
——オルティメティが国王となるのももうすぐだろう。