番外編2-3
エイダンが産まれてから、シンシアが変わった。
シンシアは、それを母になったせいだと言ったが。
まるで別人のようだった。
会話ができるようになった。それどころか、確実に彼女の方から歩み寄りを見せてくれる。
だからと言って自分の罪が消えるわけではない。
それでも。
あふれかえって今にも破裂しそうだった思いを吐き出せるようになったのは、ライアスにとって救いだった。
もう心身ともに限界だった。
愛を語れば、シンシアは恥ずかしそうに、それでも拒絶せず聞いてくれる。
ピクニックではシンシアが、ライアスの体に体重を預けながらポツリとつぶやいた。
「ああ、幸せ」
ライアスは、息が止まるかと思った。
私こそです。
こみあげてくるものがあって、ライアスは唇を噛んだ。
私のすべてを差し出したい。血の一滴までも、この美しく優しい光の君に。
この人が心穏やかにいられるのなら、私はもう何もいらない。
ライアスは神殿帰りの襲撃事件以降あまり進展のなかった調査に、本格的に乗り出した。
「襲撃事件の犯人の一人の特徴と一致するものを見つけました」
諜報部隊との連絡を担っていた側近のルーバンがそう言ったのは、エイダンの2歳の誕生日だった。
「どこだ」
「フランの街です」
そこは王都から馬でかけても5時間近くかかる。
通常は日帰りではいけない場所だ。
誰かに任せてもいいが、襲撃犯の人相をしっかりと覚えている者は限られている。
これまで何の手掛かりもなかったのだ。これを逃してしまっては、という思いもある。
ライアスは苦渋の決断で、フランの街へ向かった。
見覚えのある襲撃犯の数名を生け捕りにし、急ぎ屋敷に戻った。
「・・・シンシアは、何と言っていた」
伝言を任せていたルーバンに聞けば、わかったと言っていたと。あとはいつもの光景だったようだ。
それだけでは怒っているのかいないのかも分からない。とにかく早く顔を見なくてはと事後処理は全て配下に任せた。
「殺すなよ。取り調べは全て明日だ」
そう言って屋敷に帰った。もう夜明け近かった。
一目だけでもシンシアに会えて、更には回復魔法までかけてもらい、ライアスは昨日より元気になって仕事に取り組んだ。
「——さあ、雇い主の事を聞こうか」
目の下の隈はあったものの、疲労を全く感じさせないライアスの取り調べに、その日のうちに襲撃犯たちは口を割った。
黒幕はおそらく、貴族派のマルセル侯爵家。
前王太子の側近だった子息はあの戦争で、真っ先に逃亡していた。命令違反に無断の敵前逃亡。数名の側近は斬首されている。当然の裁きではあったが、恨みを募らせていた。
そもそもはペンシルニアを出し抜き、貴族派たる自分たちが戦果を挙げようと王太子を言葉巧みに誘導した結果だった。酌量の余地はない。
しかし、そのことでペンシルニアに光の血が入り、王権派との距離は更に開いてしまう。
恨みと共に焦燥感を募らせていた。
いっそ、その光の血を奪えばいい。
そんな短絡的な思考につながったのは、許しがたい計画だ。
「公爵閣下!!」
鼻息荒く執務室へやって来たのはルーバンだった。
「どうした?書類を取りに行ったんじゃなかったのか」
ルーバンは不足していた資料を取りに屋敷へ行っていた。せっかくなのでライアスが行きたかったが、仕事がたまっていて抜け出させてもらえなかった。
「王女殿下の事です。これ以上見過ごすことはできません」
王女殿下。しばらくして、シンシアの事だと思い至る。
「エイダン様は泥に塗れていらっしゃいました」
「そうか」
今日は泥遊びをしたのだろうか。自分はそんな遊びをした記憶がないから少し驚いたが、エイダンは泥で色々なものを作るのが好きだ。
思い出して顔が少し緩む。
「顔も服も、すっかり汚れていました。エイダン様がお可哀想です!」
「——可哀想?」
はた、と止まった。
「何だそれは」
「王女殿下はエイダン様のご養育を放棄されておいでなのではありませんか。しかも、それを見た私を、騎士を使って屋敷から締め出したのですよ!横暴です」
「お前は何を言っているんだ」
以前から少し思い込みの強いところはあるが、ルーバンほど書類作業が素早く正確な者はいないため、側近として今は一番近くにいる。何よりペンシルニアへの忠誠心はかなり高い男だ。
「シンシアは愛情深くエイダンを育てている」
「あれがですか!とてもそうは思えません!」
興奮冷めやらぬ様子のルーバンに、ライアスはまさか、と思った。
「ルーバン。お前、その調子でシンシアに何か言ったのか」
「閣下への怒りをご子息にぶつけてはなりませんと申し上げました」
「お前・・・」
それで追い出されたのか。
なんてことをしてくれたんだ。
ライアスは急いで帰り支度を始めた。
「閣下・・・?」
「いいかルーバン。シンシアは、エイダンをこの上なく大切に思い、育てている。誰よりも間近で共に見て私はそれを知っている」
「そうは思えません。先日の食事でも、エイダン様の食事はほとんどこぼれていました。ご報告しましたよね?それなのに王女殿下は、それを助けもせず」
「どれを見たか知らないが、2歳児というのはそういうものだ」
あれでも日に日に成長して食べられるようになってきている。
初めこそ驚いたが、今ではライアスにとっても日常だ。
「ついて来い、ルーバン。シンシアに謝罪しろ。屋敷を追い出されたということは、お前が失言をしたんだろう」
「私はご子息のことを思い——」
「ルーバン。だからそれが、お前の勘違いなんだ」
忠誠心が強すぎるからだろうか。屋敷の女主人に対し、育児に関して口を挟むなど。
ルーバンは元は平民の出身だから、その辺のことは疎いのかもしれない。
とにかく謝罪をさせなくては。
「——閣下が、必要以上に王女殿下にへりくだることはないと思います」
まだ言っている。
「ルーバン、それは違う。私はへりくだってなどいないし、シンシアを愛しているから彼女を尊重したいのは当然のことだろう」
馬車の中でライアスは、とにかく謝れとルーバンに言った。
ここでルーバンの話をもう少し聞いていれば、この時点で連れて行くようなことはしなかったかもしれない。
この時点ではまだ、ルーバンが忠誠心から行き過ぎた進言をシンシアにしたのだろうくらいに思っていた。
屋敷に到着し、ルーバンが想像をはるかに超えてシンシアに無礼な発言をして。更には戦争でのことを持ちだした時には、身体が先に動いていた。
シンシアに止められていなければ、その首を切り落としていたかもしれない。
ルーバンの日ごろの仕事ぶりと忠誠心から、気づかなかった自分の落ち度だった。
シンシアに王太子の件を知らせないようにというのは、徹底して何よりライアスが気を付けていたことだった。
自分が償いのためにペンシルニアに引き渡されたのだと知ったら、シンシアはどれほど傷つくだろうか。
あの笑顔を曇らせるような者を、近くにおいてはおけない。
「私は、人を見る目がない・・・」
シンシアの心を曇らせるようなものは全て取り除きたいのに。
よりによって自分の側近がそうだったとは。
「——忠誠心の表れですし、思い込みの激しい性格ですから。無理もないですよ」
ペンシルニアの騎士団長はそう言って慰めてくれたが、ライアスは落ち込んだ。
「奥様を見ていれば、どれほどエイダン様を慈しみ育てているのかよくわかります。ペンシルニアが如何にかけがえのない方を迎え入れられたか。——実際目にしていなかったので、仕方ないのでは」
「私は追放しようと思っていたが・・・シンシアは、忠誠心があるのだから、継続して使えと言う」
優しさなのか。ここの所シンシアは、自分を後回しにしすぎるところがある。自らに向けられた侮蔑を、さほど重要ではないというように。
まずエイダン。そして屋敷の事、ライアスの事と優先させる。
もっと自分中心に、わがままに考えてほしいのに。
「よろしいのではないでしょうか。仕事はできる人間です」
「シンシアに良からぬ思いを持つものを使う気にはならない」
「——では、諜報部に入れて使ってはいかがでしょうか。案外うまくやるかもしれません」
思うところはあったが、団長の提案を採用することにした。
執務室に連れてこられたルーバンは泣き腫らした目に、真っ赤な鼻をしていた。
「——何が悪かったかわかっているのか」
「緘口令を破ろうとしたことです」
そうだが、そうではない。
「お前には、公爵夫人への敬意が足りない」
「私は・・・」
ルーバンはそれ以上何も言えなかった。子供のようにまた泣きじゃくってしまった。
ルーバンの兄弟と父親は先の戦争で全員死んだ。
そして、ルーバンはシンシアが来たばかりの頃、ライアスに投げ付けた数々の罵詈雑言を、今でも覚えている。
誰よりも敬愛し忠誠を誓った主人が罵られている。それも、家族を殺した、王家の者が。
ルーバンは何一つ言葉にできなかった。
「本来であれば、最も重き罪に問うところだ」
追放か、刑罰か。
「しかしシンシアが、お前を許せと言う。そのペンシルニアへの忠誠は確かなものだからと」
ルーバンははっと顔を上げた。
「以後、公爵夫人への感謝を忘れるな」
ライアスの声は冷たかった。
この信頼を取り戻すのは並大抵のことではないと言うように。
ルーバンは嗚咽を漏らしながら頭を下げた。
貴族派への調査は少し行き詰まりを見せていた。
王宮舞踏会の一件で怪しげな薬草が出回っており、それにも貴族派の若い者達が関わっているのは分かった。
だが、つながりも入手経路もまだ闇の中である。
「絶対につながっていると思う。襲撃事件から薬草まで全部」
王宮で王太子の執務室。
オルティメティは深刻な顔で報告書を眺めていた。
こうした真剣な表情は、シンシアとよく似ている。亜麻色の髪に赤い瞳と色合いは違っても、ふとした表情はよく似ていた。
「陛下は何と」
「任せる、って」
「そうですか・・・」
元々それほど政治に関心のない国王ではあったが。王太子が成長するにつれ、それはエスカレートしていくようだった。
オルティメティはまだ15だ。もう少し頑張ってもらわねば困るのだが。
妻を亡くし、長男を亡くし。そのころから塞ぎがちで仕事を王太子によく渡すようになった。
幸い、当のオルティメティは王太子としての仕事をさほど苦痛には思っていないようだった。貴族連中にも物怖じせず意見を交わしている。
経験のなさはどうしようもないが、あと数年の事だろう。
「あー、落ち込むなあ。完璧だと思ってたのに」
舞踏会の事だろう。
「警備に穴があったのは、殿下の責任だけではありません。私もですから」
「まあね。悪いことをしようと思うやつがいれば、それを止めるのは難しいよね。かなり」
いつまでも落ち込まない性格でもある。
こうして話していると、性格もシンシアとよく似ているかもしれない。
「——当面、打てる手はないしさ。今のうちに休暇取ってくれていいからね」
「ありがとうございます」
「僕もちょっと休むよ。また姉上と遊びに来て」
オルティメティが言うのはただ単に会いたいから、と言うだけではない。
王権派筆頭のペンシルニアと王家の結束を固めることで確かに効果は感じられている。
貴族派は会議でも明らかに勢いを失っていた。
しばらくはこの方策で行くつもりらしかった。
ライアスははい、と返事をして執務室を後にした。




