番外編1-2
「エイダン様、そうではありません」
「うん」
「うん・・・?」
その冷たく張り詰めた声に、手に持ったカップを、思わずカチリと鳴らしてしまう。エイダンは慌てて背筋を伸ばした。
「あっ、はい」
エイダンはこの教師が苦手だった。
今までエイダンの周囲には、自分に優しく笑いかけてくれる大人たちばかりだった。
この教師は、母がいなくなると途端に笑みが消える。
「昨日お教えしたところですよ?お忘れですか?」
「・・・・・えと」
思い出さないと、と思うのに。
はあ、と溜め息をつかれて、頭が真っ白になる。
「エイダン様の生誕祝賀会はもう2週間後です。公爵閣下も公爵夫人もそれは心を込めてご用意してますのに、当のご本人がこの調子では、どう思われるでしょうか」
この教師の言葉は、早口だしよくわからなかった。けれど、自分がまずいということは伝わる。
「祝賀会では、マリーヴェル様もお披露目されるでしょう。待望の金の眼のご息女とあっては、エイダン様のお立場も・・・お分かりでしょう」
何を言っているのかわからない。
エイダンは手元を黙って見つめるしかなかった。
「エイダン様?」
「は、はい」
「わかっておいでなのですか。マリーヴェル様に全て奪われることになるのですよ」
「マリーは・・・」
そんなことしない、と言いたかった。
マリーヴェルは、エイダンが手を出すとぎゅっと握りしめてくる。すごく小さい手なのに、ぎゅっとエイダンの指を掴んで離さない。
——あらあら、マリーはエイダンが大好きなのね。
そう言って母上がほっぺをツン、とすると、マリーヴェルはそれはもう可愛らしい顔で笑う。
マリーヴェルはエイダンが話しかけるとよく笑う。へっへっ、って変な声だけど。
「エイダン様。——もうよろしいです。姿勢も崩れております。これでは続けても意味がないでしょう」
いつも、こうして、エイダンのせいで授業は打ち切られる。
教師は腕を組んで椅子に腰掛けた。
「では、いつものご挨拶を」
エイダンはごくりと唾を飲んだ。背筋を伸ばし、教えられた格好で止まる。
緊張で吸いにくい息を努力して吸い込む。
「よ、ようこそ、おこしくださいました。エイダン・ペンシルニアです。5さいになりました」
教師の顔はぴくりとも動かない。正解か不正解かが分からず、背筋に冷たいものを感じた。
「ほんじつ、みなさまのおめに・・・」
なんだっただろう。
胸に当てた手に、じわりと汗が浮かぶ。
「おめに・・・。おたのしみ」
「違います」
教師が、困り果てたように頭を抱えた。
「エイダン様。昨日も同じ所で間違えていましたよ。本日は、皆様のお目にかかれまして光栄です。どうぞごゆっくりお楽しみください。——これだけですよ?」
はあ、とまたため息。
「5歳でしたら、もっと増やさねばならないところを、エイダン様が覚えられないので極力減らしたのです。これ以上減らさなくてはなりませんか?」
情けない、困った子供。
直接言葉で言われる以上に、エイダンに突き刺さる。
「エイダン様でも、わかるように、もう一度言いますよ。これでできなければ、お母上に、エイダン様には無理ですとお伝えするしかありません——いいですか」
エイダンは必死で頷いた。
母上に知られるわけには行かなかった。
偉いわね、上手になったわね、と褒めてくれる母上に。
自分がこれほどまでにできない子供だということを。
「姿勢を整えて。胸は手に——」
ここで、ノックの音。
教師がさっと立ち上がる。
入って来たのはシンシアと乳母だった。
「先生、お世話になっております」
シンシアのお辞儀は、うっとりするほど美しかった。所作を習い始めると、シンシアがどれほど礼儀作法が完璧かよく分かる。
「公爵夫人。ご挨拶申し上げます」
「どうですか?エイダンは」
エイダンは緊張で手を握りしめた。
教師は先ほどまでの恐ろしい雰囲気が嘘の様な笑顔を振りまいていた。とん、とエイダンの肩を優しく叩く。エイダンは益々居心地が悪くなる。
「頑張っておられます。——やはり、集中して最後までというのは難しいですが」
「構わないわ。飽きたら終わりにしてちょうだい。あまり窮屈にしたくないの」
「承知いたしました」
シンシアはエイダンを見てにこりと笑った。
その笑顔に、緊張が解けるようだった。
泣きそうになって、絶対に泣いてはいけないとぐっとこらえる。
「——姿勢が良くなったわね、エイダン。今日は衣装を決めるから、これから母上と行きましょう」
「はい」
エイダンが授業の延長でかしこまって返事をするのへ、シンシアは苦笑のようなものを漏らしながら、エイダンの手を握った。
「それでは、先生。失礼いたします」
「はい。また明日、よろしくお願いいたします」
エイダンにも挨拶させて、この日の授業は、これで終わった。
廊下を歩きながら、エイダンの手を繋いで。
シンシアはエイダンを見下ろしていた。
エイダンの手は汗をかいている。
手足の汗は暑さというよりは——。
緊張しているのだろうか。
シンシアはふと思い立って、脇の部屋へ入った。
その場にしゃがんでエイダンの顔を覗き込む。
「エイダン、今日の授業はどうでしたか?」
「がんばったよ」
ここのところ、いつもこの答えだ。
「難しい?」
「ふつう」
「楽しい?」
「ふつう」
普通ってなんだ。
先生を怖がっている、というわけではなさそうなんだけど。
授業を嫌がって行かない、ということもない。
いつも時間より前に授業の部屋へ自主的に向かっているという。
5歳でそんな風に自分で向かうということは、余程楽しみにしているのかとも思ったが・・・そんな様子もない。
「今日は何をしたの?」
「おちゃのんだ。あと、ごあいさつ」
「見てみたいわ。やって見せてくれる?」
エイダンは首を振った。
「まだ、へただから」
「上手にできなくてもいいのよ?」
エイダンはまた首を振った。
「ちゃんと、たんじょうびまでには、ぜったいやるから」
「エイダン。別に失敗してもいいのよ?初めからうまくいく人なんていないんだから。誕生日会は、楽しむために開くの。みんなエイダンをお祝いしたくて来るだけなんだから」
エイダンの表情は、暗い。
なぜこの子はこんなに自信を失っているのだろう。
もしかして。
「先生は、どう・・・?」
先生が苦手なの、と聞くのは躊躇われた。
エイダンの表情は変わらない。
「みちをしめしてくれる、いいせんせいです」
「・・・・・」
ほう。
・・・・なるほど?
シンシアはできるだけ穏やかな微笑みをエイダンに向けた。
「偉いわね、エイダン。ますますカッコよくなって、少し寂しいくらいよ」
「さみしいの?なんで?」
「あぶあぶの赤ちゃんだった、泣き虫のエイダンも可愛かったからよ」
そういえば最近、大声で泣いていない。
授業を始めて急に成長したなと思っていたけど、その少し前から、わがままが急に減ったような気がする。
その日の夜。
ベッドに入っても、シンシアはなかなか眠れず考えていた。
もうすぐ、5歳。前世でいえば幼稚園の年中。
この歳の頃になれば、母親から離れていくものだろうし。幼稚園に行かせたら、合わない先生も中にはいる。
そう思って、ずっと張り付いているのも、と教師に任せたのだが。
幼稚園と違って一対一だから、と思って念入りに見ているつもりだった。
外に控えている侍従のタンに聞いてみると、「まだ習い始めなのでうまくできていないけど、先生が怒るようなことはなく、内容まで全ては聞こえないが、終始穏やかな声で教えられている」ということだったし。
男の子だし、母親に何でも話さなくなるということも、あるのかもしれないけれど・・・。
娘達はどうだっただろう。
比較しても仕方ないが、自分の中での教材はそれしかないから、つい思い出してしまう。
長女は、なかなか友達ができなくて気を揉んだっけ。1人が好きなタイプだったから、本人も全く気にしてなくて。
次女は逆に、毎日友達と遊ぶっていうから、ママ友に気を遣ってそれはそれで大変だった。
三女は・・・闘病中だったからか、あの子はわがままを言うことが極端に少なかった。
闘病の5年は、何が辛いって、子供達がどんどんいい子になっていくことだった。
——ママ、痛い?お薬持ってこようか?
——ママ、重いもの持ったらダメでしょ!私持つよ。こんなの、ランドセルより軽いから平気平気。
——ご飯炊いといたよ!卵焼きつくろうか?
つん、と鼻が痛くなってきて、まずいと慌ててうつ伏せる。
あの遠い日々にも感じていた、子供達の言葉にならない声。私はそれをどれくらい拾えるだろう。
5歳は、まだまだ上手に話せない。
でも毎日一緒にいれば大体のことはわかる。
不自然に我慢をして、言葉を呑み込んでいるのも。
ぎい、と微かにベッドが軋む。
「まだ起きていたのですか?」
最近はいつも先に寝てしまっているから。
その声に顔を上げたら、ライアスは蝋燭の灯りを消して、ベッドに入ってきた。
腕を回されて、すっぽりと腕の中に収まる。
「何か心配事ですか」
「いえ」
言った瞬間、頰に手を添えられ、そっと上を向かされる。
「シンシア。まさか、泣いていたのですか」
辺りは暗いのに見えるのだろうか。声が掠れていたのかもしれない。
「何があったのですか。貴方にこんな顔をさせるだなんて」
「違うんです」
シンシアはライアスの胸に顔を埋めた。温かい胸板に額を寄せるだけで安心する。
つらかった気分が和らいでいくのを感じた。
過去の事として。
「・・・色々考えてしまって。勝手に心配しているだけです」
「私に話してはもらえませんか?」
ライアスがぎゅっと腕の力を強めた。
「貴方の苦しみをすべて、私に移せたらいいのですが・・・」
そう言って長いため息をつかれた。
シンシアはその熱い息が耳にかかるくすぐったさで身をよじって笑った。
「——ああ、やはり、駄目ですね」
パチン、と手を鳴らされて。エイダンはびくりと肩を震わせた。
「どこがいけなかったか、お分かりですか?」
「・・・・えと」
わからない。台詞は間違えずに言えた、と思う。でも違ったのだろうか。
目の前に教師のよく磨かれた靴が見える。間近で見降ろされているから、それを見上げる勇気はエイダンにはなかった。
「エイダン様?」
「——ごめん、なさい」
はあ、と呆れたように息を吐かれる。
「謝罪ではなく、どこが間違えていたか言ってくださいと申し上げているのです」
「・・・・わかんな———」
「わかりません、と言いなさいと申しましたよね。いつまで赤ん坊の様な言葉をお使いになるのですか」
何を言っても、大体こうやって遮られる。
でもそれはエイダンが間違っているからで。そう思うと体はどんどん小さくなっていくようだった。
「エイダン様。やはり、無謀だったのではないでしょうか」
「え・・・・」
「普通の5歳のお子様ならできることが、エイダン様にはできませんでした。随分簡単にしましたが、それでもおできにならない。——もう誕生日会まで日がないというのに」
困りましたね、と教師は畳みかけた。
「お母上は、うまくできなくても良いと仰せかもしれませんが、そんなことはありませんよ。お母上はお優しいからそうおっしゃるかもしれませんが、貴方はペンシルニアの後継者として見られるのです。そんな中、今の様な醜態を晒せば・・・」
教師は深刻な面持ちで首を振った。
「エイダン様お一人のせいで、ペンシルニア公爵家自体が軽く見られることになるのです」
教師はぐっとエイダンの両肩を握った。
「そして、お母上が責められることにもなりかねませんよ」
「どうして・・・」
「わかりませんか?子供の教育を十分に行えなかったからです」
「ぼくが、だめだと、ははうえがおこられるの?」
「そうです。そんなことがあってはならないことですが。なんといっても、公爵夫人は崇高なる光の御方。その方が、エイダン様、貴方のせいで貶められるようなことがあれば、どうでしょう」
言っていることは半分もわからないが、掴まれた肩はひどく痛んだ。
多分、自分のせいで、母上がよくないことを言われるって事だと思う。
母上は、『貴重な、光の力』なのに。
「——エイダン様、今ならまだ間に合います」
先生の目が。妙に底光りした目がエイダンに向けられる。
エイダンは身が竦んで動けなかった。
「お母上に、ご自分から言うのです、自信がないから、誕生会はしたくない。マリーヴェル様のお披露目だけをしてください、と」
「え・・・・・」
「それが一番、自然なことです」
自然な事。
きっぱりと言われると、そうなんだと思わされる。
——そうか、ここのところの皆が言っていたこととつながった。
そんな気がした。
僕がいると、母上が可哀想。
僕を産むとき、母上は死にそうになった。
迷惑を掛けてはいけない。
光の力は貴重。
その貴重な光の力は、マリーヴェルにはあるけど、僕にはない。
マリーヴェルは貴重だけど、僕は違う。
「エイダン様?」
返事を促され、エイダンは声を絞り出した。
「ぼく・・・おたんじょうび、おやすみする・・・」
「そうですね。それがよろしいでしょう。せめてお邪魔にならないよう、ひっそりと——」
「待ってください」
教師が満足そうに言うのを遮ったのは、いつの間にか部屋の脇に立っていたタンだった。
エイダンの側までやってくる。
教師は冷や汗を流した。
「な、い、いつから、そ・・・」
「お知らせせず申し訳ありません、先生。本日はずっと控えの間にいました」
ドアのない続きの部屋で、気配を消してこの侍従は聞き耳を立てていたらしい。
教師は慌てた。
油断していた。最近はいつも部屋の中に誰もおらず、ずっとそうだったから。はじめはしていた部屋の確認も怠っていた。
外に控えているだけなら、言葉さえ穏やかにしていれば聞こえないから、5歳児を丸め込むことなど簡単だと思って。
——いや、この侍従もまだ子供だ。
教師はいつものにこやかな顔を作った。
「侍従の方ですね。エイダン様の集中が途切れてしまうので、外でお待ちいただきたかったのですが・・・困りましたね」
こうすれば、たいていの子供は自分の非を感じ取って恐縮する。
だが、タンは教師が圧迫感をもって見下ろしても飄然として動じなかった。
「先生は、ご自身の職務を超えたことをしています」
「それは聞き捨てなりません。教育の事に関しては、私には実績もあり、何より公爵閣下から直々にご任命頂いたのですよ」
「それでも、坊ちゃまに対し、誕生会の欠席を強要するのは、行き過ぎたことではないでしょうか」
侍従風情が、という思いがこの教師にはあった。
そもそも人に優劣をつけるのは教師にはあるまじき考えではあるが、この男にはそれが全てだった。
「強要などしていない。ご提案しただけだ。——まだ若い君にはわからないだろうが、この出来栄えでは・・・社交界でつらい思いをされるのはエイダン様の方です。私は教師として、傷つく生徒を放ってはおけませんから」
タンの表情は変わらなかった。
「先生の仰い方は、威圧的ですし、とてもお坊ちゃまのためを思っているようには見えません」
エイダンはタンの顔と教師の顔を見比べて、どうしていいかわからなった。
タンは、どうしてこんなに先生の言うことに真っ向から反論できるのか、それが不思議だった。
いつもはただ寡黙な遊び相手、といった印象だったタンが、こんなに話すのも不思議だった。
「ですが・・・私は確かに若輩者ですので、これが本当に間違っていないのか、大人の方にご判断を頂きたいと思います」
そう言って、タンは扉を開いた。扉の外の騎士に何事かを話すと、騎士が一人入って来た。
その騎士がタンの言う大人なのか、そう思い、どう言い繕うか考えていた教師は、ほどなくして現れたライアスとシンシアに背筋を寒くした。
——たかが侍従が、公爵夫婦を呼びつけた?
これほど大ごとになるとは思っておらず慌てたが、ここで引くわけにはいかない。
「これは、公爵閣下、公爵夫人・・・ご挨拶申し上げます」
「ああ」
ライアスの声は冷たかった。シンシアは返事もしない。
「エイダン、いらっしゃい」
シンシアが呼ぶとエイダンは恐る恐るシンシアの方へ歩み寄った。シンシアはエイダンを抱き上げた。
「——っ、ぼく、たてるよ」
ふわりと柔らかいシンシアの感触にホッとしながらも、迷惑を掛けてはいけない、という言葉がよぎる。
シンシアは笑ってエイダンを抱いたままソファに掛けた。ライアスがその横に立つ。
「——それで?タン、どうしたんだ」
ライアスが尋ねるとタンは手を後ろに回し、姿勢を正して答えた。
こうして答えるのはいつもの訓練の時の癖だった。
「先生がお坊ちゃまに、度を越した教育をされていましたので、ご報告しました」
「あんまりです。——そもそも、隠れて見るような行為。不躾ではないですか。侍従であれば――」
「それについては私が謝るわ」
シンシアがすかさず口を挟んだ。興奮した教師を黙らせる、朗とした声だった。
「心配だったから、タンにお願いしたのは私よ。目を離さないように」
「心配、ですか・・・?エイダン様が、私の事を何か・・・」
「道を示してくれる良い先生だと言っていたわ」
「でしたら・・・」
教師がほっとするような顔をしている。
シンシアは眉を寄せた。
なんにでも「ふつう」とかあいまいに答えるのに、ここだけ模範解答。おかしいと思わない親がいるだろうか。
まさか、この教師はいつもこの手で生徒を丸め込んでいたのだろうか。
子供をちゃんと見ている普通の親なら、おかしいと気づくはずだ。
今日、タンには何事もなければ呼ばなくていいと言っていた。こうして呼ばれたということは、エイダンによくないことが、やはりあったということだ。
身の切られる思いだ。
「身を隠して見るよう指示したのは私だ。——公爵家子息に『影』が付くのは当然なことだろう。この屋敷内の事で不躾などと言われる謂れはない」
ライアスは威圧感を隠そうともせず言い放つ。——昨夜、シンシアの涙の原因がこの教師だと疑っていた。シンシアはなんでもないと言っていたが、彼女が泣くなどよっぽどのことだ。
シンシアの懸念が的中したのだとしたら、許すつもりはなかった。
「閣下は・・・私を信頼してお任せくださったのだと思っていました。ですから、混乱しているのです」
苦し紛れに言う教師の言葉も、ライアスは一切取り合わなかった。
「——エイダンの前だ。口論をするつもりはない。言い訳も推論もいらない。事実だけを述べろ」
「私は、エイダン様の教育を一生懸命行いました!しかし・・・エイダン様はなかなか目標に到達なさいませんので、その・・・無理にやる必要はないと。公爵夫人にも、無理強いはしないよう仰せつかっておりましたので!」
確かに言った。——無理はさせなくていい、と。
でもエイダンを見る限り、シンシアの意図するようには伝わっていないように思う。
「タン」
「閣下のご指示に従い、そのままのお言葉をお伝えいたします」
ライアスに名を呼ばれ、タンはすらすらと言った。
「普通の5歳のお子様ならできることが、エイダン様にはできませんでした。随分簡単にしましたが、それでもおできにならない。お母上は、うまくできなくても良いと仰せかもしれませんが、そんなことはありません。エイダン様お一人のせいで、ペンシルニア公爵家自体が軽く見られることになる。お母上が責められ貶められるようなことになる。お母上に、ご自分から、自信がないから誕生会はしたくない、マリーヴェル様のお披露目だけをしてください、と言うように」
まさか本当に言った言葉をそのまま再現されるとは思っていなかったのだろう。教師はパクパクと口を開け閉めし、青くなって、汗をかいて、明らかに狼狽していた。
侍従の心構えとして、一言一句違わず記憶しなさいと父から言われていたから、タンにとって主人らの言葉を覚えるのは癖のようなものだった。
部屋の中に重苦しい沈黙が流れた。
タンはちら、とエイダンを見て、口を閉じた。
「ご指導中の発言については、お坊ちゃまに再度聞かせるのが憚られます」
「——十分だ」
ガン、と鈍い音がする。
見れば、ライアスが拳を柱に叩き付けていた。
素手なのに。大理石が、砕けてしまっている。
「わが家臣の、それも伯爵家の中に、よりによって私に対して二枚舌を持つ者がいたとは」
「閣下!――私は、ペンシルニアの繁栄を、ただそれだけを考えております!」
教師がその場に這いつくばった。
「ペンシルニアの、繁栄・・・」
「そうです。このペンシルニアに、光の君が来られ、更には光の御子がお生まれになったのです!家門の繁栄は——っぐあ」
教師は、最後まで言えなかった。
ライアスが剣に手をかけるより早く、タンが拳を入れ、オレンシア卿が手刀を入れ、気絶させた。
2人とも思うより体が先に動いていた。
仕える小さな主人の前で、言わせるものか。
光の力を崇拝するこの教師が、エイダンを蔑ろにし、次に何を言うかは明らかだったから。
微かに地響きがするような気がする。ライアスが怒りを押し込めているのがよく分かった。
ここで2人が手を出していなかったら、間違いなく教師の首は飛んでいたかもしれない。
「——ライアス」
シンシアはエイダンを抱きしめながら、訴えるように見上げた。
エイダンの前でするのは、ここまでにしてほしい、と。
ライアスは深く深呼吸をして、オレンシア卿に指示を出す。
「——牢に入れておけ。一通り終わったら、舌を切り落として伯爵家に返却しろ」
「はっ・・・」
子供の前でそれ言うのはやめてくれないかな。
とは思うものの、こういう殺伐とした世界も、いずれ知らないといけないんだろうか。
何が起こったかわからず、それでもまずいことになった、という顔をしているエイダンを、シンシアは注意深く抱きしめた。
「エイダン」
優しく語りかけるが、返事はない。
「エイダン?ひどいことを言われたのね」
「あ・・・ぼく」
エイダンは迷いに迷って、小さく呟いた。
「ごめんなさい」
「エイダン。びっくりしたわよね。——でも、貴方が謝る事なんて、何もないのよ。謝るのは母上と父上の方。あんなひどい先生と二人っきりにして、ごめんなさい」
「ひどい、せんせい?」
「そうよ。エイダンに嘘を教えていたでしょう?遅くなってごめんなさい」
「エイダン。あの男の言ったことは全て忘れろ。あれは二度とお前の前には現れない」
突然そんなことを言われても、エイダンには何が何やらわからなかった。
「——どれが、うそ?」
「全部だ」
「でも・・・ひかりがきちょう、って、ははうえがかわいそうって、それから・・・マリーはたいせつなひかりのこって」
ぽろり、とエイダンの目から涙が溢れた。子供らしくなく、声もあげず、こんな風に泣くなんて。
それは教師からだけ聞いた話じゃない。
エイダンが混乱しているのを見て、シンシアも少し困った。
色々な大人が言う言葉が、エイダンの中に積もっていって。嘘ではないないけど、それらが教師によって歪んだ解釈でまとめられてしまった。
どうでもいい人の言葉だけだったらそこまで響かない。
身近な大人たちの言う事と、教師の言う事が変につながってしまったんだ。
シンシアを休ませようとか、光の貴重な能力を大切にしてくれるとか、それについて、悪意がないのは分かっている。
見えていなかった自分の責任だ。
シンシアは、エイダンのふっくらした両頬をそっと両手で包んだ。
「エイダン。母上が誰を愛しているか知っているでしょう?」
「ぼく」
「そう。母上は、エイダンが一番大好き」
視界の端でライアスがはっとこちらを見るが、無視する。
「お花をくれたり、お話ししてくれて、マリーを可愛がってくれる、優しいエイダンが、母上はとってもとっても大好きなの」
「うん」
「だから、なにがあっても母上ががっかりなんてしないのよ。今度のお誕生日会はね、この可愛くてたまらないエイダンを、みんなに自慢したくて開くの。だから、エイダンがまだ見せたくないって言うなら、来年にしたっていいわ。母上の大切な宝物を、もう少し母上だけが知っているのもいいもの」
エイダンはしばらく考えた。
「ははうえ、つらくない?」
「まったく。元気よ。メイアが心配しすぎていたのね。乳母もかしら。もう元気なんだけど、みんな心配症だから。それは注意しておくわね」
しばらくして、事情を知らないマリーヴェルの乳母が、エイダンの乳母と一緒にそろそろ授業が終わる時間、とやって来た。
ライアスがマリーヴェルを受け取る。
マリーヴェルがライアスの腕に抱かれ、少し声を上げる。ライアスは一気に相好を崩した。
今までの恐ろしい威圧感が和らぎ、いつもの甘い顔になる。
それを見てエイダンがポツリとこぼした。
「ぼくも・・・ひかりがよかった」
「あのね、エイダン。母上が愛しているのはエイダンと、あと誰でしょう」
「マリー」
もう一声。待っていると、エイダンはちら、とライアスを見た。
「あと、ちちうえ」
「そう。母上が愛しているあの人は、土の使い手なんですよ」
エイダンのミルクティーのような色の目が、くりくりとしたまま、真剣にこちらを見てくる。
「母上と一緒ではないけれど、母上の好きな土の魔力では、嫌かしら?」
「母上は土がいいの?」
「ええ。大好きよ。力持ちで、走るのが早くて、頑丈で。強くて、かっこいいでしょう?」
エイダンは黙って頷いた。
ライアスが赤くなっているのは放置だ。分かってるよね、敢えて言ってるって。
王国騎士団の訪問で、ライアスの剣を振るう姿は幾度となく見ている。並ぶもののない強さに目を輝かせていた。
「ぼくも、つよくなるかな」
「しっかり訓練したらなるでしょうね」
「そしたら、ぼく・・・ははうえをまもる」
「まあ。素敵ね」
将来のヒーローが守ってくれるのなら百人力だ。
私は満面の笑みで、エイダンの両手を握った。
「この力は、ペンシルニアの大切なものを守るための力よ。貴方が自分の力に自信を持ってくれたら、母上は、これ以上誇らしいことはないわ」
目の色なんてなんだっていい。
光だろうが土だろうが。
「ふふ」
エイダンがやっと、笑った。
ぴょん、と膝から飛び降りて、ライアスの方へたたた、と駆けつける。
「ちちうえ、マリーをください!」
「——なんだ急に」
「マリーは、ぼくがすきだから。ぼくにだっこしてもらいたいの」
「・・・マリーは、父上の事も好きだと思うぞ」
そう言いながら、エイダンを座らせて、その膝の上にマリーを乗せる。後ろから首を支えてやると、マリーははじめきょとんとしていたが、エイダンを見て笑った。
「ほら!わらった!」
「——ほんとだな。何でエイダンには笑うんだ」
「だからいったでしょ。ぼくがすきなの!」
「あー、あぅー」
エイダンの服を掴み、マリーヴェルが声を上げる。
エイダンがふにゃ、と笑った。
「ぼくがまもってあげるからね、マリー」
そう言ってぎゅっと抱きしめるその姿に、シンシアは心のシャッターを何枚も押した。
0歳児を抱っこする5歳児の小さな肩・・・このアングル・・・尊い。
ほんわかを書きたかったのですが…
やっぱり、4.5歳育児は難しいな…と書いていて思いました。