2. 息子
程なくして乳母に抱かれて連れてこられた赤ちゃんは、生後半年と言うだけあって、ぷくぷくとした肉付きの良い具合に成長していた。
乳母に抱かれてきょろきょろと辺りを見渡している。
「ファンドラグ王国の最も輝ける星にご挨拶をいたします」
乳母が赤ちゃんを抱いたまま膝を折る。
「——そんな挨拶はいいわ。私はもう王女ではないのだから」
そう言うとメイアも乳母も驚いている。
ああ、そういえば、嫁に来てからも王女として接するように周囲には言っていたし、この部屋の配置も王城の部屋と全く同じにさせたんだった。
記憶はある。自分がしたこと、されたことも覚えている。
深い悲しみ、怒りの感情は覚えている。けれど今もかというと、全くそんなことはない。
前世の記憶の方が近いからか。
「さあ、こちらに」
言えば、乳母が恐る恐る、赤ちゃんを腕に乗せてくれた。
急に離れていく乳母に、子供は不安そうに手を伸ばす。
真っ赤な、燃えるような髪色をしていた。そして瞳の色は茶色。ミルクをたっぷり入れたラテの様な柔らかい色だ。
「——この顔・・・」
どこかで見た顔だ。
ああ、夫だ。ライアスに瓜二つだ。
光の力は私譲りのはずなのに、こんなに夫に似るなんて。
乳母が息を呑む。
何考えてるか分かるよ。
心底嫌悪している夫に似た我が子に何かしないか心配って、顔に書いてある。
赤ちゃんは今まで抱いていた乳母の方へ手を伸ばし、泣きそうな顔になった。
「よしよし、大丈——っう」
重い。
スプーンを待つのもやっとだったこの弱った腕に、このふっくらと成長した子供は、かなりの重量だった。
抱きしめたいのに・・・ああ、重い。
仕方がないので、座らせて腰を支えてやる。
自分ではまだ座れないようだが、座れると泣き顔が少し不安顔くらいまで回復した。
ほっぺもふくふく。
——たまんないわね。
つるつるのほっぺをツンツンしてみる。
目が合ってもすぐに逸らされるものの、長い睫毛もくりくりの瞳も、全てが愛おしかった。
ふと、頬に傷が見える。
それをなぞると乳母が今度は青い顔をして膝をついた。
「あ、あの。大切なご子息にお詫びのしようもありません。ご入浴でミトンを外した時、今朝・・・」
「ああ、爪ね。気にしないで」
子供が爪で柔肌に傷をつけるのなんてよくある事だ。——そんなに青い顔をして。貴族の乳母も大変だな。
私、ミトンなんて娘達に一回も使わなかった。
「あうー、うー」
「まあ、もうおしゃべりができるの?」
嬉しくなって話しかけるが、誰も返事がない。
固唾を呑んで見守るメイアと乳母。早くこの場から乳母の腕へ帰りたがる子供。
私は記憶にある感覚を手のひらに集めて、そっと子供の頰に触れた。
すっと傷が消えていく。
光の魔力で細胞を再生した。
「ほら、綺麗な顔に戻りましたよ」
頬の感覚に驚いたのだろうか。不思議そうに、くりくりの瞳をこちらに向けてくる。
「——エイダン、ママよ。ずっと会えなくてごめんなさいね」
つん、と鼻に触れると、エイダンはなお不思議そうにこちらを見上げていた。
泣き顔から、関心を向けられるだなんて。すごい進歩だ。
治癒されると心地いいって聞くから、気持ちよかったのかな。
見上げすぎて、だらだらとよだれが垂れている。
「あらあら、可愛いお顔が台無しよ」
くすくす、と笑ってそれを拭いてやれば、エイダンは腕を伸ばしてきた。
それに手を伸ばそうとして——くらくらと目の前が回る。
「あ・・・・」
「姫様——!!」
背中を支えられて、ゆっくりとそのまま横に寝かされる。
「大丈夫よ、ちょっと目が回っただけ」
「もう今日はこの辺にいたしましょう。座っているだけでも大変ですのに、お力を使われるだなんて!」
エイダンは腹ばいになって、膝の上でぐらぐらしていた。乳母がそれをそっと抱き上げる。
「——ごめんなさい、もう今日はここまでみたい。エイダンをお願いね」
「はい・・はい!」
乳母はエイダンを連れて部屋を出て行った。
それを見送ってすぐ、私は気を失うように眠った。
エイダンは恵まれない子供だった。
幼い頃から両親の愛情がないばかりか、多くの災難に見舞われ、光の能力を持つのにその心は闇の中に固く閉ざされていた。
ペンシルニアは赤い髪と茶色の目を代々持つ、大地の魔力の家系だ。その特性上戦闘に秀で、騎士の家系でもある。
シンシアはそれを土臭くて野蛮、と蔑んでいた。
野蛮な夫、野蛮な子。夫に似た、光の力を継ぐはずがない子と虐げていた。
影を背負った主人公。誰にも心を開かず、愛を知らない、孤独の青年——。
「いや、ダメでしょ」
私は誰もいない部屋で呟く。
体はだるいしうまく動かないけど、必要なのは療養だ。病気を抱えているわけじゃない。
前世で感じていた全身を蝕む痛みも、今はもうない。
私はできなかったから。
3人の娘たちに。
あれもこれも、してあげたかった。子供達に、めいいっぱい愛情をそそいで、ごくごく普通のお母さんをやりたかったのに。
これは、もう一度機会をもらったんだ。
子供を愛する機会を。
「エイダン・・・私の、子供」
私がめいいっぱい愛してみせる。愛を知らない子供なんかにするものですか。
シンシアの——私の体調は緩やかに、本当にもどかしいくらい緩やかに回復して行った。
ベッドの上からなかなか抜け出せないものの、エイダンを抱けるようになった。これはかなりの進歩だ。
悪くなる一方だった前世に比べて、回復していくと思えるのは嬉しい。顔色も悪いし爪もガタガタだけど、やっぱり肌は10代の肌だ。つるっつるだ。
「ねー、エイダン。あなたのあんよが始まる時に、ママも歩けるかしらねぇ」
「あぶ、ぶぶぅー」
エイダンは最近、唇を鳴らすのがお気に入りだ。
私の言葉など気にもせず、小さな口を尖らせてぶうぶうと言っている。
「エイたん。おーい」
「ぶ、ぶぅ・・」
「エイ——っくうぅ、たまらん」
エイダンの体を抱っこして、ふわふわのお腹に顔を埋める。ああ、気持ち良すぎる。いい匂い。
「ぶー!あぅ!!」
「はいはい、ごめんごめん」
離せと言われ、即座に離れた。
あれから。
生まれて初めて、半年ぶりに会った母親だというのに、エイダンは次の日も泣くことはなくそばに来てくれた。
抱っこさせてもらえるようになるのにはだいぶかかったけど、今では抱っこをねだることもある。
その上ベッドの上でおもちゃで遊びながら、ちらちらとこちらを見るようになった。
座るのもすっかり上手になって、夢中で木のおもちゃを叩いている。
ちら、とこちらを見る。
「どしたのー?えーたん。ママだよー」
めいいっぱい笑いかけると、エイダンの口元がひきつったように持ち上がる。
「っあー!エイダン!笑ってくれたー!ママに笑ってくれたんだ。うれしい」
どさくさに紛れてすりすりと頬を合わせる。
あったかくて柔らかいほっぺ。ああ、癒し・・。
「あぶー!」
「はいはい、邪魔ですね」
エイダンは背中を向けてしまった。
そっけない・・でもその丸くて小さい背中が・・ああ、なんて可愛いんだろう。
ツンツン、と柔らかい肩を、背中をつついてみる。エイダンは無視して夢中で遊んでいる。
君は私の、4人目の子だ。
可愛い末っ子君だ。
「はあー」
体がしんどくなってきて、どさりとベッドに倒れる。このベッドはものすごく大きいので、エイダンが遊んでる横でも大の字になって眠れるほどの余裕がある。
ちょっと目が回るので、エイダンの服の裾をつまみながら目を閉じた。
本当は床に布団を敷きたいんだけどね。だって落ちそうで怖いんだもん。
「あうー、うぅー!」
エイダンが離せ、というように転がって抗議の声を上げた。
最近、ずりずりと動くから怖いんだけど。
「——よし」
私は意を決してベルを鳴らす。
最近、日中はこうしてエイダンと2人過ごさせてくれるようになった。治癒師は少し渋っていたが、世話は乳母がすることを条件に許可が出た。
メイアも何かと忙しいので、ずっと近くにはいない。
流石にメイアが控えてたら、私ももうちょっと取り繕ってる。こんなデレデレしてない。
「お呼びでしょうか」
メイアが来た。
「エイダンが、ベッドから落ちそうなの」
「はい」
続けて入ってきた乳母がエイダンを抱き上げる。
「メイア。私、ベッドから降りるわ」
「は、——は?」
「エイダンがベッドから落ちたら大変だもの。低めのクッションだけひいて、そこで寝るの」
「な、なんて事を!!それではお身体に障ります!!」
「夜はちゃんとベッドで寝るわ。昼の間、エイダンといるときはそうするの。だって、私疲れてしまったらエイダンを見ていられないのだもの」
「疲れるまでお相手をしないでくださいませ。王女様を床に寝かせるなど、言語道断でございます」
「私はもう王女じゃないわ」
呼び方も奥様、と改めるよう言ってる。
「公爵夫人でいらっしゃいます!」
「いいの」
私はキッパリと断言した。
「私はエイダンをみたいの。でも体が弱くて座っていられないの。仕方ないでしょう?」
押し切った。
結局のところ、言って通らないことって何もないんじゃないかな。怖いわね、権力。
こうしてわがまま放題していたのに、結婚相手だけは選べなかったんだな。
まあ、そういうもんだよね。一国の王女だもん。
赤ちゃんの、乳を飲み終わった後、口の端からミルクを垂らしつつ半分寝ているとことか
ぽっかぽかに体温が上昇したぷくぷくのほっぺが肩にこてん、と力尽きるとことか
好き・・・。