26.
案内されたのはライアスの寝室だった。
入るのは初めてである。
夫婦としてもう4年近くになるというのに、この部屋にだけは入ったことがなかった。
急ぎ足で案内された寝室は、壇になった上に寝台があり、それを取り囲むように3人の治癒師がいた。
「奥様・・・!」
つん、と鼻に錆びたような血の匂いがかすめる。相当な出血量なのだろう。
ごくりと唾を飲みながら近づくにつれ、皮膚の焦げたような匂いまでしている。
「ライアス・・・」
呼びかけてみるが、返事はない。
全身を包帯で巻かれているが、既に赤黒い血が滲んでいた。
これのどこが怪我のうちに入らないって・・・?
今まで見たこともないようなひどい怪我じゃないか。
これほどの重傷を負った人を見たことはないから、少し怖い。
けれど、今までになくか細い呼吸をしているライアスを見たら。苦痛に眉を寄せ歯を食いしばっているライアスを見たら。
堪らなくなって、しがみつくようにその身体に両手を伸ばしていた。
「ライアス・・・!」
呼びかけながら、精一杯の魔力を注ぐ。
やがて傷は塞がり、焼けた皮膚は再生していった。
相当な怪我だったせいで、全身から恐ろしい速度で力が抜けていく。
魔力を注ぎ終わるころには立っていることもできず、そのままベッドに倒れ込むようになった。
「奥様!」
「・・・・・・っ、シン・・・シア?」
聞き慣れた声に見れば、ライアスが目を開けて体を起こしていた。
汗ばんではいるものの、そこにはもう苦痛の表情はない。いつもと変わらない様子だ。
「痛むところはないですか?ライアス、大丈夫って言ってたのに」
死ぬところだった。でももう大丈夫。そう思うと、涙があふれてくる。
「シンシア。なぜ貴方が・・・」
「貴方が、怪我をしたと聞いて」
「——屋敷の警備は」
ライアスが団長に尋ねる。
「奥様の帰還に合わせ、元の配置に戻しております」
それを聞いて少し安心したらしい。ライアスの体から緊張が解けた。
「私などのために、無理をされたのでは。すぐにメイドを——」
私は力を振り絞って、ライアスの首筋に腕を伸ばした。
血と汗の匂いと、そして土の匂い。生きている、温かい体。
「シ、シンシア、汚れます・・・」
「そんなこと・・・っ、貴方が、死んでしまうかと思ったではないですか!」
「・・・・・すみません」
ライアスに抱きついた腕に力を込めた。そうすれば、ライアスはそっと私を抱きしめ返してくれた。
「泣かないでください」
「う、うう・・・」
そう言われても、後から後から涙はあふれてきた。
この人を失いたくない。失うかと思った時、恐怖で息もできなかった。
私は、ライアスを愛している。
「シンシア・・・貴方に泣かれると、私はどうしていいのか」
泣きたくなかった。けれど、嗚咽まで出てきて、ろくにしゃべることもできなかった。
そんな私の頭を、ライアスはいつものようにそっと撫でてくれていた。
ようやく涙が引っ込んで落ち着いてきてから、お互いとんでもなく汚れていたので、まずは入浴して体を清めた。
幸い、屋敷の爆破はごく一部だけだったのでさほど生活に影響はない。
久しぶりの自宅のお風呂といつものメイドたちに、心の底から安堵した。すこし体力も戻ったような気がする。
それでも落ち着かなくて、今日は髪も半乾きのまま、私は急ぎ足でライアスの部屋へ戻った。
「——シンシア。早かったですね」
ライアスは風呂上がりのガウンを着て、自分で髪を拭いていた。
シーツ類も交換され部屋もきれいになっているが、お風呂は一人で入ったらしい。
「傷は残っていませんでしたか?」
血が滲んでいる様子はとりあえずないが。私はライアスの全身をチェックした。
「大丈夫です、しっかり治していただいて・・・あ、あの、シンシア」
はたと手を止める。——心配なあまり、ライアスのガウンを広げて体を観察してしまっていた。
「あ、ごめんなさい」
ライアスは真っ赤になって固まっていた。
しまった。裸の付き合いにトラウマがあるかもしれないのに。無遠慮に触りすぎた。
「傷がないか見たくて。やましい気持ちはないんです、誓って」
両手を上げて一歩下がる。
確かにものすごくいい体・・・って、そうじゃない。私は気まずくなって視線を逸らした。
ふわりと抱きしめられる。そっと壊れものを扱うように、優しい抱擁だった。
「いいんです。見てください。——やましい気持ちがあっても構いませんから」
はあ、とライアスは深いため息を吐いた。
「やっと会えた。——本当に、会えない日々は耐え難いものでした」
「私も」
そっと手を回し、私も抱きしめた。
「早く帰ってきたかったです」
「シンシア・・・」
しばらく、ライアスの腕の中を堪能する。
大きくすっぽりと覆われる腕の中。この分厚い胸板も。安心できる場所になりつつある。
「でも、そのせいで無理をしたのではないですか?」
「無理をしたつもりはありませんでした。これが一番、効率の良い方法かと」
「体を張って爆破を食い止めたのは、無謀だと思います」
「・・・咄嗟の事で——すみません」
「貴方はすぐ謝るのですね」
私は少しライアスから離れた。
「お兄様の事、聞きました」
「——っ、誰が」
誰が言ったかはこの際問題にしてほしくなかった。
大切なのは、この事実を私が知ったということ。
「私は知らなかった。——当時知っていたらどうだったかはわからないけれど。本来、私は貴方に恨み言を言える立場ではないのだということは理解したわ。——ペンシルニアに従順に、帰属し、尽くし、償うべきだった」
せめて王女に光の子を産ませろと、一族からのプレッシャーは間違いなくあっただろう。
ペンシルニアの親戚たちと顔を合わせることが極端になかったのは、きっとライアスが止めていたから。
「言ってくれたら、私、もう少しちゃんとできたのに」
奴隷のように。身の程をわきまえて・・・?
それは強がりかもしれない。
前世の記憶を思い出す前のシンシアなら、耐えきれなくて自ら命を絶ったかもしれない。
精神を病み、その矛先を息子に向けたかもしれない。
ライアスの判断は正しかった。
けれど。
知らされなかった悲しさか。いや、知らされないことで、ライアス一人に耐え忍ばせた時間が、堪らないんだ。
「せめて、謝るくらい」
「やめてください。貴方が謝ることなど、何一つとしてないのです」
ライアスはがっしりと私の肩を掴んだ。
言い聞かせるように。
「貴方は被害者です。戦争によって負った負債を、幼い貴方一人に背負わせた。そしてそれを私も甘んじて享受した。罪があるとしたら、私です。何人も、貴方を縛りつけ、責任を課し、何かを強いることなどあってはならなかったのに」
そんなことを思ってくれていたのは、ライアスだけじゃないだろうか。
王家への恨みの矛先を、国王は私を使うことで逸らした。為政者として正しい判断だっただろう。
嫁に行けといった時の、すべての感情を消し去った父の顔は今でも思い出される。
実の父ですら、シンシアが負うべきだと思っていたのだ。だって王家の一員だったから。この身のすべては、私のものであって私だけのものではない。
黙った私にライアスは優しい声で言った。
「前王太子殿下からの、最期のお言葉です。——シンシアを、頼むと。私はそれをいいように解釈した」
「ライアス」
「私はただ、貴方の夫になるという、この上ない幸福を得たのです」
だから気にするなって?
あとの事はすべて引き受けるから、自由に生きろって言いたいのだろうか。
そんなことは望んでない。
「——ライアス」
私はぐっとライアスの顔を両手で押さえた。
「私もですよ」
驚くライアスに、精一杯の笑顔を向ける。
「貴方の妻になれて、この上ない幸福を得たのは」
濃茶の瞳をじっと見つめる。これが嘘のない真実だと、しっかりと伝えたくて。
「愛しています、ライアス」
間近で、ライアスが息を呑むのが分かった。
声を出すこともせず、ただ驚いて固まっている。
「遅くなってごめんなさい。私もさっき気づいたの。貴方を失うかと思ったら、この世が終わったような気になって」
「も・・・もう一度、言っていただけませんか。私はまた、都合のいい夢を見ているのでしょうか」
「ライアス」
何度でも言う。今まで悲しませた分も、それ以上にも。
「愛しています」
シンシア、とライアスが掠れた声で呟いた。目が潤んでいるようで、赤くなっている。
そんな顔をされたら、もうたまらなかった。
私はほとんど無意識に背伸びして、ライアスにキスをしていた。
瞬間、固まったようなライアスだったが、すぐにライアスの手が頭と腰を優しく支えてくれた。
顔を離して、少し照れくさくてにこっと笑って誤魔化す私に、ライアスは困り果てたような顔をした。
あら、まずかったかな、と思ったら。
「もうちょっとだけ・・・」
今度はライアスの方から、ゆっくりと唇が重ねられた。
気の遠くなるほど長くてしつこい、けれどもどこまでも優しくて甘い口づけだった。