29.ペンシルニアの銀花
口の堅い侍女——侍女頭直々にマリーヴェルの世話を頼んで、身支度を整えてもらった。
「未来の妃殿下にお仕えできますのは、最高の栄誉にございます」
すぐ隣の衣裳部屋にある鏡台を急ぎ整理して、マリーヴェルの支度室にした。
侍女頭はジリアナという名で、とても物腰の柔らかい、丁寧なお辞儀をする人だった。戦争が理由で未亡人になった元伯爵夫人で、所作も美しく、言葉使いも穏やかだ。
未来の妃殿下、そう言われると、このブラントネルの王室がどれほど王妃を待ち望んでいるのか分かるようだった。
「待たせてしまってごめんなさいね」
お風呂に入ったら、ジリアナが髪を乾かしながら解いてくれた。
この城には長らく女主人がいなかったものの、ジリアナは手慣れていた。この人も、娘か主人を亡くしたのだろうか。マリーヴェルを見る目が娘を見るように優しかった。
「公女様はまだファンドラグでは成年ではございませんもの」
「もちろん、それもあるんだけど……」
体が休まると気も緩んで、マリーヴェルはポツリとこぼした。
「私の問題もあって」
「公女様の……?」
「自信が持てなかったの」
「自信、ですか」
ジリアナは一度手を止め、驚いたように目を丸めた。
「こんなにお美しくて可憐な公女様が、そのようにおっしゃるだなんて。陛下にはもっとしっかりしていただかなくてはなりませんね」
まるで母親のような言い方だ。
「ペンシルニアの銀花——その名の通り、公女様は本当に華麗でいらっしゃいます」
いつの間にかそんな風に言われるようになった。それだって、見た目だけの話だ。
マリーヴェルは苦笑した。
「——アルロは、すごいでしょう?」
「はい」
ジリアナは即答する。その短い返事に国王への厚い信頼と忠誠心を感じて、マリーヴェルは頼もしく思った。
「元々、とっても頭が良かったの。ペンシルニアに来る前から。素晴らしい能力を持っているのに、それを何でもない事のようにするから、皆なかなか気づかなかったんだけど」
「はい」
「それでね。私も頑張って追いつきたくって。でも勉強すればするほど、自分が、アルロに相応しい人間に、なれていないような気がして」
微笑んで見せると、鏡越しにジリアナと目が合う。ジリアナはそれについては何も言わなかった。そんなことはない、と言わないのは、とても賢明な人だからだろう。
ジリアナは微笑みながら頷き、脇から衣装を取り出してきた。
「——公女様、本日はこちらの衣装はいかがですか」
「わあ、素敵な刺繍……」
「刺繍の技を保護し、優遇する事で産業が活発になりました。今では街でも手軽に手に入るものもあるんです。陛下と、公女様の功績だと聞いております」
「私は何も。でも、そうなんだ……」
近頃、ファンドラグでもブラントネルの工芸品を見かけるようになっていた。買い占めたくなるのをぐっと我慢している。
ジリアナはマリーヴェルに服を着せてくれた。ドレスとは違って、素朴なワンピースに刺繍が施されている。
そうして髪を結い上げてくれた。
「公女様の銀の御髪は、この国では本当に珍しいものですわ。ブラントネルでは、金や銀を特別尊ぶ気風がありますの。ですから公女様がお輿入れになるときには、大騒動になりそうですね」
一つにまとめて、髪飾りをつけてくれる。
ブラントネルではアイラインも口紅もやや濃く着ける文化がある。これまで化粧をほとんどしたことのないマリーヴェルだったが、少しだけ——とジリアナが化粧を施した。
すると、がらりと印象が変わった。
これまでの可愛らしい少女の顔から、近寄り難い程の大人びた美しい女性へと。
「公女様はブラントネルの至宝とおなりあそばされるでしょう」
ジリアナは感嘆の息と共にそう言ってくれた。
支度を終えて寝室に戻ると、アルロがマリーヴェルの姿を見て、口をぽかんと開ける。
「姫様……」
「お化粧もしてみたの。どう?」
「お美しいです。眩しくて、見るのもはばかられるほどに」
アルロが少し頬を赤らめてそう言ってくれるから、マリーヴェルは嬉しくなって満面の笑みを浮かべた。
少し遅い朝食を二人で食べて、それから改めてヒューケを呼んだ。
「——それでは、説明をしていただいても、よろしいでしょうか」
ヒューケはマリーヴェルに真剣な目を向けた。
「一体、ペンシルニアの公女様が何故お一人でここにいるのか」
「家出したからよ」
マリーヴェルはなんでもない事のように話した。
「お父様が求婚すら許さなかったって聞いて」
ソファの隣に座って、にこ、とマリーヴェルはアルロに微笑んだ。
「しばらくお世話になるわ」
「しばらく、とは……」
「さあ。お父様が、悪かった、帰って来てくれって言うまで……?」
アルロは先日の、ライアスの様子を思い浮かべた。
「姫様。——公爵様がそう言うことは、ないと思います」
「まあアルロ」
マリーヴェルは大袈裟なほどに眉を寄せて、アルロの両手を握った。
「可哀想……あの大魔神が、本当にひどいことをしたのね」
大魔神。
マリーヴェルの口からライアスの悪口を言う事は今まで本当になかったのに。
「——姫様、きっと、公爵様にも何か考えが——」
「いいえ」
マリーヴェルがきっぱりと言う。
「私、許せないの。アルロに暴力をふるうだなんて。よりによって、お父様が……」
ぎり、と食いしばる音が聞こえてきそうなくらいだった。
「これだけは、謝ったって、許さないつもりよ」
「姫様……」
ああ、そうか。
アルロはマリーヴェルのこの様子を見て初めて気づいた。
いくらマリーヴェルでも、ここまで大胆なことをするのは本当に珍しい。これまで、ペンシルニアから出ないことが自分の責務のように思っていると言ってもいい程、実は気を遣っていたのをアルロは知っている。
いくら腹を立てたからと言って、国を出ると言うのは今までのマリーヴェルからは考えられないほどに大胆な行動だ。
「姫様。ご心配をおかけしてすみません」
アルロはマリーヴェルの手をそっと握り返した。
いつもそうだった。
アルロの痛みは、マリーヴェルの痛みのように一緒に悲しんでくれた。
そんなマリーヴェルにとって、敬愛するライアスが手を上げたというのは、許しがたかっただろう。
けれど、大好きな父親でもあるし。複雑で、悩んで、そうしてこんな行動に踏み切ったんだろう。
それを思うと、申し訳なさが勝った。
「姫様、これは、暴力とは違います。僕は少しも、怖くなかったですし、痛みも——」
アルロは笑って見せた。
「姫様が癒して下さったので、もう全くありません」
「それでも」
マリーヴェルはぐっと俯いて、思い詰めているようだった。
「やっぱり、私は許せない。考えれば考えるほど……」
だって、知っているはずだ。アルロがペンシルニアに来る前に、どんな目に遭っていたか。
そこから助け出したはずのライアスに、どうしてそんなことができるんだろう。
二度と傷つけないと誓ったのに。まさかよりによって、父親から再び拳を上げられるような事になるなんて。
マリーヴェルは、絶交してもいいとさえ思ってここに来た。
「公女様のご覚悟は分かりました」
こほん、とヒューケが再び声を上げた。
このままでは二人の世界に入ってしまいそうだったからだ。
「しかし、これは国家間の問題でもあります。ファンドラグ唯一の光の公女様が、ブラントネル王城に滞在しているとあっては……色々と、かなり問題があります」
「問題?成人した恋人同士が一緒に暮らすことに、何か問題があるの?」
ヒューケは神経質そうな顔を更に深刻に曇らせた。
「まず一つ。公女様は成人していませんよね」
「もうすぐするわ」
「未成年を親の承諾なくお預かりするのは、通常、誘拐という事になるんです」
はっ、とマリーヴェルが鼻で笑った。
「ヒューケ。貴方私を馬鹿にしているの?ここはファンドラグではなくて、ブラントネルなのよ?貴方はいつからペンシルニアに治外法権を認めるようになったの」
「いえ、そういう訳では……」
確かにブラントネルの法で言うと、15で成人したものは親の許可なく結婚もできるし、自由に居場所を決められる。
しかし、マリーヴェルは一般人ではないのだ。それを言っているのだが、確かに、ここでファンドラグの主張がきてそれを通せば、ブラントネル国内であってもファンドラグの法を通すことになる。少し話が複雑になってくる。
確かにマリーヴェルを甘く見ていたようだ。そこまで考えているとは思っていなかった。
ヒューケは考えを改めたものの、やはりこのままにはしておけない。
「もう一つ。公女様、光のお方をお迎えするのに、わが国では身の安全を保障できません」
「私の体はアルロが守るわ。そもそも、シャーン国が滅亡した上に、光の魔力がほとんどない私を狙うものがいるかしら」
「万一、という事もあります」
その万一でマリーヴェルが怪我でもしたら。
国際問題になる。
マリーヴェルは譲らなかった。
ヒューケの前でぐい、と指を立てて見せた。
「一つ、私がいればアルロが幸せになる。一つ、アルロが元気になる。一つ、アルロに不届きな事をするいかれた女からアルロを守れる——ほら、いいことずくめじゃない」
「姫様……そんな言葉、どこで……」
「それに、私聞いたのよ」
アルロがやや驚いている。しかし、マリーヴェルとヒューケの間には入れなかった。
「アルロが、ペンシルニアの光に逃げられただなんて不名誉な噂——どうして放置してあるの?」
「放置した、訳では」
成人したはずのマリーヴェルが、いつまで経ってもブラントネルには来ない。婚約すらしない。会う時はいつもアルロがファンドラグに赴いている。これは、一方的な片思いではないのか。やはり黒持ちが光を望むなど、大それたこと——この数年で、そう思われているのも事実だった。
アルロが取り合うなと言ったので、確かにそこまで積極的には動かなかった。
「だからあんなのが入り込むんじゃない」
昨夜のことを思うと、マリーヴェルは今でも腸が煮えくり返る。
アルロの事をどれほど好きか、今すぐ国中に知らせたいくらいだ。
それと言うのも、婚約以前にアルロの求婚すら許さなかったという、ライアスのせいだ。
そう思うと再び怒りが湧いて来た。
「とにかく!ペンシルニアには知らせないで」
「そういう訳には」
「命令よ」
あまりの気迫だ。生まれてからずっと、人に命じ慣れている人間の言い方だ。
ヒューケは思わずはい、と言いそうになって慌てて思い直す。
「わ、わたしは、ブラントネルの宰相です。私に命じることができるのは、陛下だけです」
「融通が利かないのね。貴方、ルーバンと気が合いそうだわ」
マリーヴェルはめげなかった。
「アルロ、命じて」
「姫様……僕も、心配です」
興奮しているマリーヴェルを止めるのは、いつもアルロの役目だった。
憤慨して、この気迫で迫られても、アルロの遠慮がちな台詞で、マリーヴェルは少しだけ勢いを弱める。
アルロの黒い瞳に見つめられて、マリーヴェルは黙った。
「公爵様も、奥さまも、本当にご心配されていると思います」
「…………………」
しん、と部屋が静まる。
しばらく間を置いてから、マリーヴェルが諦めたようにため息をついた。
「——はあ。分かったわ。でも、今すぐに居場所を明かしたくはないの。少しくらい反省してほしい」
「姫様……」
「はじめての家出なのよ。私、このまま終わりたくないわ」
マリーヴェルはアルロに縋るように腕を伸ばした。
「お願いアルロ。一生のお願い」
一生のお願い——滅多に使わないが、ここぞという時にマリーヴェルはこの言い方をする。
アルロはやっぱり、どうしてもマリーヴェルのこのお願いに逆らい難かった。
心配していると思う。しかし……確かに、マリーヴェルだってもう何も知らない子供ではない。ブラントネルで言うと成人した女性だ。
「では……明日、報せを送ります」
どの道、ライアスはすぐに居場所を突き止めるだろう。本当は今晩、と言いたいところだが。
「アルロがそう言うなら……わかったわ」
正気ですか——そう言いたくなるのをぐっとこらえて、ヒューケは立ち上がった。
「それでは、その方向で……準備を進めてまいります」
アルロの決めた事なのだから、宰相としては従うしかない。
意図しない事だという事、警備に万全を期してお守りしている——迎えに来てくれと手紙を出すのが、一番穏便に済むだろうか。
ぶつぶつと独り言を呟きながら考えて、ヒューケが頭を抱え、出て行こうとする。
「ねえアルロ」
一方マリーヴェルは、話は終わったとばかりに明るい声で言った。
「今日はお休みなのよね!私ね、行きたいところがあるの」
「行きたいところ……ですか」
アルロの問いかけに、マリーヴェルは大きく頷く。
「アルロと、ブラントネルの街を歩きたいの」
そう言って満面の笑みでアルロに向き直った。
「デートしましょう!」




