27.
「な、な……あなたどこから!」
令嬢は慌てて胸元を隠し、ソファから身を退けてスカートの裾を戻した。
「アルロを待っていたのよ。何か問題ある?」
マリーヴェルはゆっくりとアルロに近付くと、どん、と令嬢の肩を押した。令嬢がよろよろと数歩下がる。
アルロの前に立ち、そのまま相手を睨みつけた。
「陛下を呼び捨てて……あ、貴方、その眼……」
マリーヴェルの瞳の薄い金色は、夜の蝋燭の灯りではいつもより金が濃く見える。その瞳をすっと細めて、マリーヴェルは相手を睨み据えた。
「私が誰かわかっているの?知っていてよくもこんな馬鹿な真似ができたものね」
令嬢の方が年はかなり上のようだが、完全に気圧されている。
「だっ、で、でも、い、いつまでたったって……あなたたち、結婚しないじゃない!」
「貴方にはまったく、関係ないわね」
マリーヴェルは相手にもせず吐き捨てる。
令嬢は悔しそうに唇を噛んだ。
これまで、誰もが成功しなかった。
私こそはと思い、ようやくこうして忍び込めたと思ったのに。
手ごたえはあった。アルロは、自分に闇の魔力など向けなかった。そうだ、待っていたんじゃないか。
甘やかされもてはやされて育ったこの令嬢は、とにかく挫折と言う言葉を知らなかった。
強気にもマリーヴェルを睨みつけた。
「陛下は、私を受け入れて下さろうと——」
「は?妄想?頭大丈夫なの」
マリーヴェルは不快げに顔を歪めた。その顔すら隙がなく美しく見える。
「アルロ、可哀想。気持ち悪かったわね。大丈夫だった?」
マリーヴェルはそう言ってアルロを振り返り、そっと顔に手を添えた。その仕草があまりにも自然で、アルロも驚きながらもそれを受け入れている。
令嬢にとっては、国王の見たことのない顔だった。
いつも離れた所から見る国王は、少し近寄りがたいほど整った、線の細い美貌で。その優しげな眼差しに、何度目を奪われたことか。
儚げな顔立ちに、令嬢らは揃ってため息を漏らしていたものだ。
それが今は、いつも透き通る程に白い肌をすっかり赤らめて、黒い瞳もマリーヴェルしか見ていない。こんなに人間らしい表情をするだなんて。
マリーヴェルの撫でた手に頬を寄せているようにも見える。
「衛兵!いないの!!」
マリーヴェルの声に、即座に扉が開いて、近衛が二人入って来た。
「曲者よ、地下牢につなぎなさい」
「なっ……、あ、あなた、一体何の権利があって!」
マリーヴェルがあまりにも自然に命じるものだから、令嬢はかっとなって叫んだ。
「権利?——罪人に発言権はないの。黙りなさい」
「は?罪……?」
「国王陛下の安息を妨げた罪」
マリーヴェルがカツン、と一歩踏み出す。令嬢が一歩後ずさる。
「国王陛下の目を汚した罪」
マリーヴェルの声は朗としてよく響いた。
「国王陛下の吸う空気を汚した罪。——それからこれが最も罪深いわ。私とアルロの間に入ろうとした罪よ。聞こえないの衛兵!」
「は、はっ!!」
「もし触れていたら、その手を切り落としていたところだったわ。人の恋人に手を出して、ただで済むと思わない事ね」
衛兵はマリーヴェルの顔を知らないはずだ。それなのに、あまりの気迫に、既に伯爵令嬢を拘束していた。
それからようやくはっとしてアルロの方を向く。
アルロが頷くのを見て、騒ぐ令嬢と共に部屋を出て行った。
しん——と、室内が一気に静まり返る。
「ひ、ひめ、さま……ほんとうに」
「ああ、アルロ!」
マリーヴェルががばりとアルロに抱きついた。
「会いたかった!!」
聞きたいことは山ほどある。一体どうして、どうやって。
けれど、それよりも、何よりも。
久しぶりのマリーヴェルからの抱擁に、一気に疲れが吹き飛んだ。溜まりに溜まったドロドロしたものが、晴れ渡るように消えていく。
マリーヴェルの香りだ。甘くて爽やかで。そして、マリーヴェルの感触。華奢で、力を込めたら折れてしまいそうで。それなのに少し触れただけで、心地よくてたまらない。
ぐっと抱きしめる手に力を込めて、大きく息を吸って吐いて。アルロは本当に久しぶりに息をしたような気がした。
しばらくしてから、ゆっくりと離れる。ソファの隣に掛けて目線の高さが合うと、マリーヴェルはもう一度そっと手を伸ばした。
「痛くない?」
ライアスから殴られてひどくなっていた頬の傷は、もうほとんどわからないはずだった。マリーヴェルは心配そうに覗き込む。
「痛くないです」
ぽう、と温かく感じて、部屋の中でマリーヴェルの手からぼんやりと光が浮かぶ。アルロの頬をゆっくりと癒していった。
「姫様、僕は大丈夫で——」
「しー」
貴重な力を使わなくても。そう言いたかったが、マリーヴェルにそっと言われるだけでアルロはもう何も言えなくなった。
「痕にはならなさそう。良かった」
「ありがとうございます」
ゆっくり離れていく手が名残惜しくて、その手を取り、アルロは指を絡めるようにして手を繋いだ。
こうして久しぶりに会えたら、片時も離れていたくなかった。手を繋いでいるだけで溜まった闇が浄化されていくような、軽くなっていくような気がする。
「アルロ。ものすごく疲れているのね」
ぎゅ、とマリーヴェルが手を握り返した。
「ちゃんと寝てる?働きすぎなんじゃない?ご飯食べた?お茶淹れましょうか?——いや、あの女が触ったものは嫌ね。新しいものを貰いましょう」
そう言ってマリーヴェルはきょろきょろと辺りを見渡して、呼び鈴を見つける。
「これ、鳴らしていい?」
「は——い、いえ、僕がお持ちします」
「え、アルロが厨房にいくの?国王陛下が?」
そうだ、ここはブラントネルだ。
アルロも混乱していた。
ペンシルニアでは、アルロは未だにマリーヴェルの侍従のような真似をすることがある。そんなことしなくても、と使用人らには言われるが、アルロにとってはマリーヴェルの為に体を動かすことが喜びで。身に染みついた習慣のようなものもあって、なかなかやめられない。
元いた使用人部屋も厨房も落ち着く空間だから、顔を出しがてら手伝ったりもしていた。
とはいえ、同じようにするわけにはいかない。
外に控える近衛に頼んで持ってきてもらうことにする。ドアを開けてアルロは近衛に声を掛けた。
「これ、下げて新しいのを」
「はっ。——あの、陛下、今更ですがあの女性は——」
先程令嬢を拘束した近衛騎士が、遠慮がちに尋ねた。
雰囲気に押されて言うことを聞いたものの、国王陛下の私室にもう1人見慣れぬものがいるのは捨ておけない。
そりゃそうだよな、と思いつつも、アルロは困ったように一歩下がった。
「問題ないから、ちょっと、見なかったことにしてくれるかな」
「は……」
心配そうな顔をされたが、それ以上は追及されなかった。
近衛騎士は特に、こういうこと慣れていないといけない。普通の騎士以上に、国王の言葉に従うよう教育されている。
ただ、是と従い扉を閉めた。
数分後。
いい香りのお茶をアルロが淹れて、マリーヴェルと2人で飲む。
いつもの何倍も美味しく感じた。——が、いつまでも味わっているわけには行かない。
「姫様、それで、どうやってここに……」
「ここって昼間誰もいないんだもの。ちょっと警備が甘すぎると思うわ」
日中、この部屋は鍵をかけているから警備を置いていない。どうやらその隙に忍び込んだらしい。
マリーヴェルはネックレスにして提げた鍵を見せて、嬉しそうに笑った。
「これ、ちゃんと使えた。ふふ……」
去年の誕生日に、マリーヴェルに贈ったものだった。
ブラントネル王城の、この王家の主寝室の鍵である。この部屋のドアには古代の魔法陣が組まれてあって、その鍵の開閉はこの世に2本しかない鍵のみで行われる。国王が代々、最も愛する者と共有してきた鍵である。鍵を閉めてしまえば、攻城兵器でも持ってこない限り、この部屋を開けることはできないという。
そう聞いて、アルロはマリーヴェルに贈った。
贈ってから、流石に15歳の誕生日プレゼントとしては重すぎたしセンスがなかったと後悔したものだが……喜んでもらえていたようで、良かった。
「アルロが来るまで待っていようと思ったら、いつの間にか寝ちゃって。ごめんなさい、ベッドを借りちゃったわ」
「それは勿論、構いませんが……」
アルロが入った時にはベッドに寝ていたらしい。気づかなかった。
やはり相当疲れているようだ。
「——あ、いえ、ここにじゃなくて。ブラントネルに、どうやって。あ、まさか——」
よぎったのは、昼間の視察団の黒い集団。中にはローブを着て、顔のわからないものも複数いた。
「そう、今日の使節団の中にいたのよ。ふふ、気づかないものね」
気づかないものね——つまり。
「つまり、皆に黙って、来たんですか」
「ええ」
アルロは一気に血の気が引いた。
「だ、だれが……姫様がここにいる事を知っているのは、誰ですか」
こんな恐ろしい事に協力するような人がいるんだろうか。ライアスの大地を揺らす怒りがよぎる。
しかし、誰かの協力なしにはできないはずだ。
「ソフィアとアレックスよ」
マリーヴェルは満足そうに紅茶を飲んだ。
「調査団の誰も知らないわ。紛れ込んだの。お世話メイドの1人ってことで。意外といけるものね」
ほとんど休憩なしで馬車を走らせてきたから、ばれなかった、と。
これは、聞けば聞くほど、大事である。
ソフィアは12、アレックスは10。つまり、子供らが、子供らだけでやり遂げてしまったという事だ。
普通なら有り得ない。しかし、その有り得ないことを成し得てしまうのがソフィアだ。そして、マリーヴェルの行動力と。
「ソフィア様は、何て……」
あてにしてはいけないと思うが、ここに来ることも、その『炯眼』で視たことなのだとしたら——。
だが、その思いはあっさり打ち砕かれた。
「やめとけって言われたわ」
しかも、マリーヴェルは更に恐ろしい事を言った。
「戦争になるって」
「ま……まさか」
どこまでが冗談なのか。いや、本気かもしれない。
「でも、協力はして下さった、と……」
それでも協力をしたという事は、大丈夫だと思ったという事なのだろうか。
「私も最近気づいたんだけど、あの子困ってる人を放っておけない性格なのよね」
確かに、ペンシルニアの子供達は皆親切だが……中でもソフィアが一番、群を抜いて面倒見がいい。
マリーヴェルは極端にアルロ限定だし、エイダンは、ああ見えて実は、面倒見の良さは誰にでもというわけではない。身内限定だ。
という事は……これは、本当に、かなり危険だ。
「——アルロ、私の目を見て」
マリーヴェルはカップを置いて、アルロを見つめた。
「会えて嬉しくない?私は嬉しい。ずっと会いたかったのよ」
全力の愛情を向けられて。美しい金の瞳に見つめられると、アルロは詰めていた息をふっと吐き出した。
「嬉しいです。姫様の顔を見て、一気に疲れがなくなりました。息の仕方を思い出したようです」
「ねえ、名前で呼んで」
アルロは漆黒の瞳で、マリーヴェルを正面から見つめた。
「マリーヴェル様。愛しています」
それを聞いてマリーヴェルは、花が開いたかのように華やかに、満面の笑みを浮かべた。




