26.黎明の君
アルロの痣は、治癒師の力を借りてもそこからさらに1週間程度は消えなかった。
食事どころか水を飲むのも苦労するほどに、傷に沁みる。なかなかにつらかったが、これも自分が未熟だから。そう思って、その痛みの分だけ、アルロは戒めの気持ちを強めた。
何が足りないんだろう。
きっと、だめなんだ。このままでは。
かといってライアスへ魔力をぶつけるなんてとんでもない。完全に掌握したとはいっても、闇の魔力はやはり、危険なものだ。
「——陛下、お願いいたします」
侍官に呼ばれて、アルロは控えの間の鏡越しに頷いた。
いつもは簡単な衣装で過ごすことが多いが、今日はやや格式ばっている。いつもよりも刺繍の多い衣装を身に付け、王冠も被った。
他国からの使節が来た時の格好だ。今日は謁見が多く予定されている。
——痣が消えてよかった。
若干城内がざわついたし、国王の痣についての噂は瞬く間に広がってしまったものの、面と向かって誰も何も聞いてこなかったし、基本的にはこの1週間、執務室からほとんど出ないようにしていた。
対外的な国務の予定には何とか間に合った。
そう思いながら、鏡に映った自分の頬を見た。遠目には、ほとんどわからないほどに治っている。
「行きましょう」
声を掛けると、その侍官が玉座の間まで案内してくれる。
この侍官も、革命軍時代からの付き合いの長い男性だ。もう初老と言っていい程の年齢に差し掛かっており、アルロを孫でも見るかのようにいつもあたたかい眼差しで見つめてくれる。
「今日の装いもご立派です、国王陛下」
「あ……ありがとうございます」
侍官の仕事というのは、国王を褒めることが含まれているのだろうか。そう思うくらい、この侍官はいつもアルロを褒めて、気持ちよく送り出してくれる。
褒められることにはどうにも慣れなくて、アルロはお礼を言うのがやっとだ。
玉座へ続く扉の前まで到着してから、侍官は隙のないお辞儀で頭を下げた。彼の仕事はここまでだ。
頭を上げると、侍官は微かに目を細めた。崇敬、畏敬、感謝——そういった類の目である。
この目をされる度、アルロは気が引き締まる思いがする。
何者でもない自分は、もっと努力し続けなければそれに見合う者にはなれないだろう。
「黎明の君」
アルロはその呼ばれ方に姿勢を正した。
影の大君から、黎明の君へ。どうやらブラントネルの国民は、二つ名をつけるのが好きなようだ。
「我が君は、日が昇るブラントネル王国の誉れにございます」
苦笑のようになってしまいそうだったが何とか微笑んで頷いた。
——ブラントネル国王陛下、ご入場——。
その呼びかけと共に扉が開いて、アルロは玉座の間に踏み出した。
「——アルロ・ペンシルニア・ブラントネル国王陛下。お会いできて光栄です」
そう言って挨拶を述べ、黒い衣服で統一された集団は謁見の間で頭を下げていた。
ファンドラグからの歴史学者らである。
外国の中では、ブラントネルに最も多く訪れるのがファンドラグ国である。
用向きがそれぞれ違うが、アルロに挨拶をするほどの正式なものだけでも、月に1度はある。
「遠路、良くお越しくださいました」
今回は王立学園の研究科に所属する学者たちだ。
「前回の報告書も見ました。素晴らしい成果があり、ブラントネルとしても喜ばしく思います」
「勿体なきお言葉。この度も同様に、精進いたします」
「湖は長らく、ブラントネル国内でも忌避され、人の手が及ばなかった。それだけあって、危険なこともあると思います。安全に調査が行えるよう、支援は惜しみません」
「ありがとうございます。こちらも潜水調査の経験者と、水の魔力を有する騎士を3名連れてまいりました」
それで前回よりもかなり人数が多いのか。光と闇の魔力や古代史の謎を探ることに、ファンドラグもかなりの力の入れようである。
「宿泊場所などは、前回同様に準備してあります。まずはゆっくりと休み、要望があれば何なりと申し付けてください」
「ありがとうございます」
代表の学者がそう言って、その日の挨拶は終わった。
あとは接待の係の者がいいようにしてくれるだろう。ぞろぞろと謁見の間から集団が立ち去っていく。
ファンドラグ……そこから来たと言うだけで、懐かしい。1週間前に帰ったばかりだと言うのに、もう足を向けたくなってしまう。
最後の一人が退室してからも、しばらくその扉を眺めてしまう。
やっぱり、少しも会わずに帰って来たから……。
「陛下?」
いつまでもじっとしていたから、傍らのヒューケが心配そうに声を掛けてきた。はっとして我に返る。
「あ、……はい?」
「次の者を呼んでもよろしいでしょうか。休憩を入れますか?」
「大丈夫です。次は——」
「南国、バザラ国からのラグーリア商団長が、ご挨拶に」
今日は謁見の申請が7件ある。かなり多い方だ。
呆けている場合ではない。
「呼んでください」
アルロは気を取り直してそう言った。
謁見7件は、やはり少し大変だ。
一つ一つにそれなりに時間を掛けないといけないから、他の政務も滞る。
謁見が終わって軽い昼食を摂ったら、そのままヒューケと共に執務室に籠って政務に追われた。夕食を食べる暇もなく、気が付けば夜遅い時間になってしまった。
「——陛下、今日はこの辺りにしませんか」
夜の、9時前である。ヒューケに言われてアルロははっと顔を上げた。
法改正の嘆願書と過去の判例を見比べていたら、あっという間に時間が経ってしまった。
「そうですね。能率も悪い」
さっきから同じ文章を何度も読み返していた。頭が働いていない。
「明日は祭日ですから、ゆっくり休んでください」
「宰相も。遅くまでありがとうございます」
ヒューケは城外に屋敷を構えている。帰りが遅くなるので城に泊まることも多いが。
ヒューケが出て行くのを見送ってから、アルロはしばらく座ったままでいた。
微妙な時間だ。もう、夕食を食べたら寝てしまった方がいい程に遅い。本当は毎日朝晩、ちゃんと体を鍛えたいのに。今から訓練所に行っても、誰もいないだろう。
最近は訓練をする時間もなかなかとれていない。
こんなことでは、ライアスに勝てる日など永遠に来ないんじゃないだろうか。
焦るのに、かといって国政を疎かにもできず。いや、そもそも、どれほど訓練したって、自分があの域に到達することなどないだろう。
前に進めていない。後ろにも下がれない。
——駄目だ、休もう。
頭が疲れているとろくなことを考えない。
悶々とする気持ちを振り切るようにして、アルロは自室に向かった。もう夜も遅いし、その内軽食が運ばれてくるだろう。
国王の自室とはいっても、石畳と石の壁に囲まれた、殺風景な部屋だ。昔からここは国王夫妻の寝室として使われていたため広さだけはある。ただっ広いこの部屋に一人でいると、余計孤独を感じる。
今日はとことん、気持ちの落ち込む日だ。
ふう、と疲れた息を吐きながらソファにもたれかかる。——このまま寝てしまいたい。
遠慮がちなノックの音が聞こえて、メイドが入ってきた。軽食を持ってきたのだろうか。
カチャカチャとトレイを運ぶ音がして、目の前のテーブルにそっと置かれる。
「軽食をお持ちしました」
「ああ……」
お茶を淹れてそのまま去っていくのがいつもの流れ——だが、今日のメイドはいつまで経っても下がらなかった。
「……何か」
「陛下」
メイドが一歩近づく。アルロは警戒を強めた。
その服は間違いなくブラントネルのメイド服だ。しかし、確かに見慣れない顔だ。
——メイドではない。
刺客か。とはいえ、魔力もなさそうな一般女性である。操作すればさして脅威にはならない。何が目的か、どうしたものかと思った瞬間。
「な——」
しゅる、とメイドは自分の服に手を伸ばし、リボンを取り払った。ぷち、ぷち、とボタンを外していく。
「ずっと……この日を待ち焦がれておりました」
これは。こっちのパターンか……。
「待っ——止まれ」
「わたくしは、フォード伯爵家の娘でございます」
油断した。疲労のせいで、判断が遅れた。令嬢はスカートの裾をまくり上げ、白い太腿をアルロの脇のソファに乗り上げて来た。
やめろと叫びたくなるが、普段から声を荒げることのないアルロは、心の準備がないとなかなかすぐには反応できない。
しかも伯爵家の令嬢と名乗られては、手荒なことはできない。フォード伯爵家は革命が成る前からブラントネルに味方した一族、かつ、それなりの資産を王家に貸し付けて事業を展開している家門である。
「陛下、どうかお慰みを」
暗殺者や貴族らの不穏な行動がようやく収まって来たと思ったら、今度はこれ——既成事実をもくろむ、色仕掛けである。
これが初めてではなかった。
ブラントネルで20になって婚姻していないというのは、かなり遅い。婚約すらまだだから、我こそはと娘を差し出す貴族らは後を絶たなかった。
一切そのつもりがないと公言すると、今度はこうして強硬手段で送り込まれてくる。
説得したり、無理やり帰ってもらったり。噂にならないよう気を遣う分、殺せばいい刺客の方がよほど楽だ。
近衛を呼んでのあれこれを考えると気が遠くなってきた。
——もう、何もかも嫌になってしまった。
うまくいかない事ばかりだし、国王の仕事は相変わらず忙しいし。
マリーヴェルと一緒になれないのなら、アルロに生きていく意味なんてあるんだろうか。
ああ、いっそ逃げ出したい。何もかも投げ出して、ペンシルニアに帰りたい……。
ここまでものの数秒だったが、反応のないアルロをどう思ったのか、令嬢は更に胸をはだけさせてきた。
「緊張されてますの?ああ、夢のようです、へい——」
「その汚いものを引っ込めなさい、今、すぐ」
—————え。
一瞬で目の覚めるような、美しい声。
まさか。そんなはずはない。
幻聴だろうか。
「聞こえなかったの?」
カツン、とヒールの音が室内に響く。
「今すぐにその見苦しいものをしまいなさい。切り落とすわよ!」
「なっ……!」
令嬢の肩越しに、部屋の奥から颯爽と現れたのは——会いたくて会いたくて、夢にまで見た——マリーヴェルだった。
さらさらと歩くたびに揺れる、美しい銀の髪。意志の強いライトゴールドの金の瞳。
腕を組みながらこちらを見下ろしている姿は神々しさまである。
「姫様……」
ああ、やっぱり夢でも見てるんだろうか。
久しぶりに見たマリーヴェルは、この上なく輝いて見えた。




