20.
ブラントネル国王に——。
思いもよらない申し出にアルロは混乱したまま、城を出た。
何となく走りたくなって、愛馬が繋がれている厩舎までやってくる。
最近忙しくしていたから、あまりかまってやれていなかった。
「アミラ」
名を呼び、首筋を叩いて宥めてから、鞍をつけ始めると、落ち着きなく前脚をかいて催促される。
この馬には名前がずっとなかった。マリーヴェルから下賜されたものに名前を付ける、というのが大それたことのように思えていた。けれどマリーヴェルが手紙で、いっそマリーとつけて私を思い出して、と言って来たから、いい加減名前を付けねばと思い決めた名前だ。
マリーはあまりにも恐れ多いので、ブラントネル古代の言葉で「姫」という意味のアミラとした。呼ぶたびにマリーヴェルの姿が思い浮かぶ。
アルロは青毛の愛馬に飛び乗った。そして、そのまま城門を出て平原に駆け出す。
「——大君、どちらへ……」
「馬を走らせてきます。夕方には戻ります」
見張りの兵士にそう言えば、外城門を開放してくれた。そのまま街の大通りを抜け、橋を渡り、王都の城門を越えていく。
王城の兵士も、街の人々も皆深々と頭を下げる。
それを視界の隅で流しながら、アルロはできるだけ早く駆け抜けた。
王都を出てすぐに広がる草原を走ると、冷たい風が頭を冷やす。何もなかった雪原だったのが、いつの間にか道ができ、土が見えていた。まだ冷え込むのに、所どころ雪は解けている。人の往来があるからだろうか。
そして出てきた土から、少しずつ草が生えていた。
草原が息を吹き返している。土の上を駆けると、馬の蹄の音が低く響いた。
城の中にいたら分からなかった変化に嬉しくなって、アルロは足を延ばしてその先まで馬を走らせた。
山脈に向けて延々と駆けていると、遠くに羊の群れを見つける。
速度を落として近づけば、羊飼いが鞭を持って羊を移動させていた。
「——やあ、どこに行くんだい」
年老いた男だった。
目が合うと気さくに尋ねられる。
「あ……さ、散歩に」
まさか首都近くで羊飼いに会うとは思わず、驚いてまじまじと見つめてしまう。
「どうした?」
羊飼いの老人は足を止めてアルロを見上げた。
よくある、昔からのシャーン国の民族衣装の防寒具を着ている。羊の数は10にも満たないほどだが、ごく一般的な遊牧民と言った格好だ。
「あ、その……羊を、久しぶりに見たので」
「ああ、だろうねえ」
まだいたのだ。ブラントネルの多くの国民である牧民が、営みを続けていた。アルロにとって嬉しい驚きだった。
老人は休憩することにしたらしい。ふう、と腰を叩きながらその場に座った。アルロも何となく馬を降りる。
「と言っても、もう、たったこれだけになっちまった」
「もっと沢山いたんですか」
「ああ。50近く持ってたさ。——ここのところ、ひどい飢饉だったろ?家族が生き延びるために、大事に大事に絞めて、こんだけにな」
本来なら、今は遊牧をする時期ではない。冬ごもりの時期のはずだ。それでも、雪が解けているおかげか羊たちは草を探し当てて必死で食べていた。
「今年は干し草を作る余裕もなかったから、ついに全滅かと思ったんだがね。戦争が終わったって聞いて、山一つ越えて来たんだ。大当たりだった」
「ブラントネル王国からの支援物資は、受け取ってますか?」
羊を養う程はなくとも、人が生き延びるだけのものは配れるはずだ。ただ、街に所属していない人には行き渡っているのか分からない。
老人はじっとアルロを見てから、ふっと笑った。
「ありがとうな」
「え」
「去年の暮れ辺りから、俺達のとこにも黒旗の軍隊が物資を届けてくれてる。黒持ちが王位に就いたってんは本当だったんだな」
「あ……僕は……」
違います、とも言えずアルロは黙った。
老人がじっとその様子を見てから、突然、かっと笑った。
「黒持ちだからって、どうこうしねえよ。もう、なあ、そんなの……もうたくさんだ、儂らは」
メエェ、と羊が鳴きながらものすごい勢いで草を食べていた。ぶち、ぶち、と草をちぎる音がする。
痩せた羊だったが、間近でこうして、生きようと忙しく食べているのを見ると、生命力のようなものを感じた。
この老人も、黒持ちに対し、何かの後悔を抱えながら生きているようだった。シャーン国の黒への迫害が壮絶すぎて、今では黒い者に対しては、忌避よりも一線を越えた傷として残っているのかもしれない。
「儂は山から来たから、詳しいことは知らねえが。もう、去年よりひどい事にはならねえだろうさ」
老人は鼻歌を口ずさみながら、立ち上がった。
「——良かった」
まだ少しも国は立ち直っていないけれど。
こうして、遊牧を続けている人がいる。生計を立て直そうとしている人がいる。
——国王になって、この国を……。
頭に、思いもよらなかったヒューケの言葉が響く——いや、本当にそうだろうか。
誘いはあった、ヘルムトから幾度となく。その度に即答で断っていた。
少しもその未来を考えなかったのかというと……正直、分からなかった。考えないようにしていた、というのが正しい。
アルロの帰る場所はしっかりとあるから。ペンシルニアで、マリーヴェルの元に。
——じゃあ、どうしてまだここにいる……。
最速で片付けて帰るという約束を、アルロは既に破りつつあった。
どっちつかずで、こうしてブラントネルに留まっていたのは、どうしても気になったからだ。心のどこかで、この国をもっと良くしたい、本来の姿を取り戻そうと呼びかけたように、力になりたいと思ったから。
だから考えないようにして、この辺りでそろそろ帰ろうと決めたんだ。
アルロは目の前まで近づいて来た、羊の毛に触れてみた。冬の毛がふわふわで、温かそうだ。土がついていて少しごわごわしている。アルロが触れても、気にも留めずに草を必死で食べ続けていた。
羊が移動し始めたから、老人もそれを追うようにして背を向けた。そのまま挨拶もないままに、手をひらりとだけ振り別れを告げられた。
老人はそのまま、歌いながら去っていく。
——霧の中 眠ろうか
どこに行くのか 知らぬ道
王も国も あるものか
ただ生きるだけ 知らぬ道
聞いたことのない歌だった。昔から歌われている牧歌だろう。意味などない、それでも、歌い慣れた朗とした声は少し心が弾むような気がした。
日が暮れるまで馬をかけ、ようやく城に帰ったアルロを出迎えたのはベンだった。
「——おう、アルロ。手紙来てるぞ」
「ありがとうございます」
馬の手入れをしているとベンは手紙だけ渡して、また兵舎の方へ去って行った。
最近、あまり一緒に行動していない。ベンはスタンレーと共に、ブラントネル軍の訓練にかかりっきりだ。
ベンはとにかく面倒見が良く、かつ軍隊のエキスパートである。ブラントネル軍の訓練だけでなくて軍編成や規律にまで助言して、力を発揮してくれているようだった。そのおかげで、ブラントネル軍はめきめきと整備され効率よく強くなっていた。
手紙はいつもの3通だった。マリーヴェルと、エイダンと、シンシア。知らず口元が緩む。
アルロは部屋に戻ってゆっくりと手紙を開けた。
エイダンからは力強く美しい、お手本のような字でこう書かれていた。
——成人の式典が終わったよ。アルロと一緒に参加したかった。ああ、でも、そっちではもうとっくに成人なんだよね。アルロ、怪我はしていない?寒いから温かくしないとだめだよ。首を出してたら寒いから、襟巻きするといいよ。何か欲しいものがあったら言ってね。マリーヴェルが、ぎすぎすしてちょっと怖いよ。まだ帰ってこれない?
エイダンはアルロより半年年下なのに、長男気質なのか、面倒見のいい内容が多い。いつも心配して、あれこれ言ってくれる。このエイダンへの返事が一番悩む。書くことがないのだ。——これを言うと怒られそうだから、絶対に言えないが。
マリーヴェルからの手紙には、いつも近況と共にアルロへの質問がたくさん書かれている。だからそれにこたえると良くて、あまり困らない。おそらく、アルロが手紙に慣れていないから、わざとそうして書いてくれているのだと思う。マリーヴェルのそんな気遣いにも心が温かくなる。
——アルロ、こっちはもう花が咲いているの。アルロが摘んでくれた花を思い出すわ。ブラントネルには、何か花は咲いている?今日は何食べた?星はこっちと同じなのかしら?アルロ、大好き。
率直な気持ちを伝えてくれる手紙にも、一気に気持ちが浮上する。
そして、シンシアからの手紙を開く。高級な真っ白の紙にふわりと花の香りまでする。
その手紙を読んで、アルロは驚いて固まった。
——もし、見当違いなら聞き流してね。
そろそろ国王になってほしいと言われているんじゃないかと思ったのだけど、どうかしら。それでね、もしそうなら、そしてペンシルニアへの恩義を思って迷っているなら——貴方が学んだ色々な事を、ペンシルニアだけで生かす必要はない、って伝えたかったの。
それで。これは命令でも何でもなく、ただの個人的な意見だと思って聞いてね。
王位を継ぎなさい、アルロ。
ブラントネルを豊かにして、ペンシルニアだけではなく、この大陸全土に恩恵をもたらしなさい。
貴方ならそれができるわ。
手紙はいつもより随分と短くて、それだけだった。
アルロは信じられなくて何度も読み返した。
シンシアはいつも、いつでも帰って来なさいと言ってくれる人だった。
だからまさか、帰らない方を勧めるとは思っていなかった。
ベンからの報告書で何か気づいたのだろうか。
いつもの手紙に比べたら、今日の手紙は急に突き放されたような内容で。けれど、柔らかい筆跡は間違いなくシンシアのものだ。
まるで迷っているアルロを見透かしているようだった。
どちらでもいいのよと言うと、アルロはペンシルニアに帰るだろう。何より、マリーヴェルへの誓いはアルロの中で絶対だ。
どん、と強く背中を押されたような気がした。
帰りたい、それは間違いないのに。
何度も何度も読み返すうちに、もう外は暗くなっていた。アルロは手紙を握りしめたまま、ふらふらと歩き出していた。




