16.
ヘルムトはアルロを見ると笑みを浮かべ、指先を振って見せた。
「やあ」
「……眠っていなくていいんですか」
「せっかく起きたんだ、もったいなくって」
血の匂いがした。部屋の隅に血を拭った布が置いてある。吐血したのだろうか。
それでも、ヘルムトは少し持ち直したようだった。呼吸も穏やかで、笑みを浮かべる余裕があるようだった。
アルロは傍らの椅子に腰掛けて、じっとヘルムトを見つめた。
「僕にできることは、何かありませんか」
ヘルムトはもう眼帯をしていなかった。古い火傷の跡が髪の間から覗いている。
「——心配しなくてもね。整理はすっかり済んでいるんだ」
その声はとても穏やかだった。もう旅立つ準備は整っているのだと言うように。
「もう、ずっと……ずっと前から、こうなることは分かっていたからね」
ヘルムトはゆっくりと目を閉じて、また開けた。瞬きすらゆっくりで、時間の流れが違うように感じる。
「ヒューケも、スタンレーも、他の仲間も。良くここまでもったと思っているだろうな」
ヘルムトの灰色の目がアルロの方を向く。
「ごめんねアルロ君」
白濁した目がもう一度瞬きをした。
「私は寝てたから分からなかったけど……本当に、ものすごく残酷なことを頼んでしまったみたいだ。君は、優しいって、わかっていたのに……」
ふう、とか細い溜息。
少しは見えているのだろうか。目が合ったような気がした。
「君は大事な大事な、預かりものなのに……」
後悔が滲み出ているようだった。いつもの、飄々とした様子がない。後悔——そして、申し訳ないというように。
——そんなに僕は情けない顔をしているんだろうか。
「ヘルムトさん」
アルロはたまらなくなってヘルムトの手を掴んだ。
「それ、もうやめませんか」
ヘルムトの手は先日より更に小さくなった気がした。壊さないようにそっと握って両手で包み込む。
「それ……?」
「その、預かりものっていうのです。確かに僕はペンシルニアから来ましたが……預かりものじゃなくて。僕もここの一員だって、言ってもらえませんか」
「アルロ君……」
「ヘルムトさんの仲間だって、僕も、言いたいんです」
確かに、アルロにはアルロの目的があった。さっさと区切りをつけてペンシルニアに帰りたいとさえ思っていた。
けれど、悲惨な街の様子を見て。あまりにも理不尽なことが長い間行われて、もう憎しみすら湧かない街の人々の顔を見ていたら。
ただ単純に、シャーン国を滅ぼすだけではだめだ。この国の人達を救いたいと思った。すべてを諦めて死を待つ人達に、もう一度生きたいと思える国にするにはどうしたらいいのか。他でもないヘルムトと一緒に考えたいと願っていた。
「ああ……そう言ってもらえるなんて」
ヘルムトが少しだけ早口になる。
「嬉しいよ。それはつまり、私の後を継いで——」
「違います」
アルロはきっぱりと言った。
新参者の自分がなんて、ありえない。
あまりにもきっぱりと言い放つから、ヘルムトが声を上げて笑った。渇いた笑い声だったが、懐かしいいつもの、楽しくて仕方ないという時の笑い方だった。
「——楽しそうだな」
スタンレーとヒューケがそう言いながら入って来た。すっかり暗くなったからろうそくの明かりを足して、部屋が少し明るくなる。
「ああ……久しぶりだね」
「お前ずっと寝てたからな」
二人はアルロを挟んでヘルムトの側に座った。
「聞いたぞアルロ。シャーン国からふざけた報せが来たって」
「あ、はい……」
「どうしたんだい」
ヘルムトに話すのには少し重い話だ。アルロは躊躇ったが、二人は気にしていないようだった。
「アルロの母親の処刑をするって報せがな」
「——それで、そんな顔をしていたのかい」
「いえ……はい、あ……その——わかりません」
おかしな返事の仕方になってしまった。アルロはヘルムトから手を離した。
ヘルムトに気を遣わせたくないが、かといって母親の事を理由にしたら、それはそれで心配をかけてしまう。
アルロは迷いながら指を組んで、それを見つめた。
「——母の事は、ほとんど覚えていないんです。顔も思い出せない……だから、母と言われてもぴんと来ないというか」
「………………」
「………………」
沈黙の後、アルロはぐっと手を握り込んだ。
「助けに行ってきます。夜のうちに、闇に紛れて」
「いや、だめだよ」
ヘルムトがすぐに止めた。
アルロも、自分でそう言ったのに少し驚いたほどだった。でも、口に出すと、そうしたかったのだと自覚する。もやもやの正体もよくわからなかったが、助けに行くと心を決めると、気持ちが少し軽くなった。
「……アルロ、内城門は最後の門だけあって、仕掛けの多い城門です。罠だと分かっているのに潜り込むのは、危険すぎます」
「僕の力で——」
「魔力無効化の魔道具を使われたら?」
「少数で突破するのに最も向かない城門だ」
ヒューケとスタンレーからもそう言われて、アルロは黙るしかなかった。心から心配しているように言ってくれている。それがありがたかった。
アルロを捨てた母だ。顔は覚えていないが、最後に突き飛ばされたのは覚えている。大人の全力で拒絶されて突き飛ばされ、意識を失った。向こうも再会を望む気持ちは微塵もないだろう。
アルロの中で、母というのなら、きっとシンシアの事を言う。恐れ多いけれど、母親のような存在として真っ先に思い浮かぶのはその一人だけだ。
危険を冒してまで助けたい存在かと言うと、多分そう言う理由ではない。
「母だから助けたい、というわけではないんです。ただ……シャーン国としてのやりように刃向かいたいだけです」
「刃向かう……?」
「黒持ちも、それに関係する者も、それだけで処刑して当然という、こんな傲慢で、横暴な虐殺の統治を、ブラントネル王国はもう二度と許さない。それを示したい」
それがアルロの答えだった。
母を助けるのではなく、シャーン国の処刑という見せしめを叩き潰す。
「君は本当に、強いな」
そんな事はない、とアルロは思った。
自分よりもっと強くて美しい人達を知っている。
でも、僕は大切にされたから。自分がかけがえのない存在だって分かっている。誰に忌まわしいと言われても、揺らぐことはもうない。
「明朝、日の出の前に攻撃を仕掛けよう。内城門を破壊して、その混乱に乗じて君はその人を助けるんだ」
「え、でも……」
「アルロ君の母親だからじゃない。ブラントネル新王国は、残忍な虐殺を許さない。それを示すんだろう?」
「ああ。目の前でそんなことが行われてるのに、俺達が見て見ぬふりするなんて、しちゃだめだろうな」
ヘルムトとスタンレーがそう言って、ヒューケも少し考えてから頷いた。
「そうですね。貴族なんてどうなってもと思っていましたが……こういう考えでは、この先国がなくなってしまう。建国を宣言したばかりの私達の有りようを示す、いい機会です」
よし、とスタンレーが膝を叩く。決戦はもう決定したようだ。
「気を引き締めようぜ」
今からでは準備は十分ではないかもしれない。だが、内城門を突破したら、もう革命はなったようなものだ。間違いなくこれが最後の山場と言ってもいいだろう。
「アルロ君。嫌ならちゃんと、仲間として、断ってくれ。もう一度だけ……駄目だろうか」
操作をして、出陣を。
「——でももちろん、無理にとは言わないよ」
士気を高め、有利に進めたいのは勿論だけれど。その言い方を思えば、ヘルムトは一緒に出陣したいのだろうと思った。元々、それが悲願だったのだから。最後まで共に戦いたいのだと、それが痛いほどわかった。
ヘルムトの願いがそこにあるのなら、そのせいで命を縮めても、それはきっと彼の喜びなのだろう。
アルロはゆっくりと頷いた。
「——やります。一緒に出陣しましょう。ヘルムトさんがいてくれたら百人力ですから」
「はは……本当に、嬉しいなあ。こんな体にまだ使い道があるだなんて。本当、君は最高だよ……」
あれもこれも、一つずつできなくなっていった。一つずつ諦めて、一つずつ手放していった。それをアルロは、まだヘルムトは役に立つと言ってくれる。
サンを呼んでくれ、とヘルムトは言った。
強い薬を使ってもらうんだ。そうして深く眠って、アルロに体を委ねるために。
——目覚めるだろうか。再び、ヘルムトとこうして話すことができるだろうか。
頭をよぎった恐ろしい考えを、ヘルムトは見透かしたように笑った。この場の誰よりも当の本人が穏やかな笑みを浮かべている。
「大丈夫、自分の体の事は一番よくわかっている。終わったら、また話そう。君達の活躍を聞かせてくれ」
「はい……」
夜明けを待たずに戦闘が開始された。
シャーン国側も万全の戦力を集結させているのが、城壁越しにも伝わってくる。
ブラントネル軍の攻城兵器が中城門を出発し、内城門へ到達する。到達と同時に雨のように弓矢が降り注ぎ、狭い城の中道に兵士がひしめき合った。
狭い空間に魔力無効化の魔道具が使われ、両軍ともに魔法は使えない。そうなるとペンシルニアの騎士の出番だった。
ベンを筆頭に次々に敵を薙ぎ倒し、ついには魔道具を破壊する。
そこから魔術師による魔術が展開されるが、そちらはアルロが押しとどめた。アルロの能力を最大限生かした軍の展開にシャーン国はなすすべもなく攻撃を浴びせられた。
アルロは敢えて鐘楼には近づかなかった。
戦力を削ぐことに集中し、内城門を突破した後もそのまま戦場に留まった。鐘楼の方にはペンシルニアの別の騎士数名が向かい、ほどなくして救出を知らせる鐘が鳴らされた。
「——よぉし!」
ここまでは順調だ。スタンレーが雄叫びを上げる。
この戦闘で、城門はすべて破られた。敵は兵士以外は全て城内に籠っている。
城の門は重く分厚いが、外の城壁に並ぶ城門に比べたら、人の力でも開く程度のものだ。
勝利は目の前だった。
やがて夜が明けて、眩しい朝日が辺りを照らし始める。
朝と共に全軍城へ押し入れば、この長い争いに終止符を打つことになるだろう。
そう確信し——ヘルムトを振り返ってアルロは固まった。
ヘルムトの口から、だらだらと赤黒い血が流れていた。とめどなく流れ、首を濡らし、胸を赤く染めていく。
マントが黒くなかったら、辺りは騒然としただろう量の吐血だった。
それだというのに深く昏睡したヘルムトは微動だにせず、仄暗いまなざしを前方に注ぎ、剣を持ち上げていた。
まだ誰もヘルムトの異変に気づいてはいない。アルロは急いで身を乗り出して、ヘルムトの体に自分のマントを巻き付けた。そのまま操作し、ヘルムトと自分の馬首を返す。
「——全軍、退却!」
アルロは気が付いたら叫んでいた。
「内城門は破壊された。直ちに、中城門まで撤退せよ!!」
心臓が、早鐘のように鳴っている。
——大丈夫だ、まだ操れる。まだ、息はある……。
ヘルムトを抱きかかえ、馬から降りると同時に操作を解く。途端にヘルムトは激しく咳き込んだ。血が泡となってあふれ出す。
アルロは抱きかかえる手に力を込めて、必死でヘルムトの寝室までの階段を駆け上がった。
ヘルムトの体は、枯れ枝のように軽かった。
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