14.闇の力
「ああ……すまないね。そんなに心配することはないんだけど」
倒れたと聞いて駆けつけたアルロにヘルムトはそう言ったが、顔をアルロの方に向けただけで、体は動かせないようだった。
「——どう、なった?」
「一先ず決着はつきました」
「みんなが動揺したよね。タイミングが悪いなあ」
ヘルムトの悔しそうなか細い声が、静まり返った室内に響く。
あと一歩、中城門を突破できそうなところでヘルムトは落馬した。そこから一気に崩れて、一旦一つ手前の外城門まで退却を余儀なくされた。ヘルムトの側にいたスタンレーがすぐさま体を抱えて拠点まで運んだ。外城門の一角にある兵舎だったところで、今はヘルムトを休ませている。
すぐにヒューケも駆けつけた。
サンが泣きながら薬を飲ませ、湿らせた布で渇いた唇を拭い体をさする。しかしヘルムトの病状は一向に回復しそうにはなかった。
声を絞り出すのがやっと、という様子だ。
もう、体はとうに限界を超えている。
「ああ……調子よかったのになあ」
ヘルムトが本当に悔しそうにそう言った。
「本当に調子よく……このまま、内城まで行きたかったなあ……」
この部屋にはサンとアルロ、それからヒューケとスタンレーだけだ。だからだろうか。ヘルムトがこういう言い方をするのは初めてだった。
「なんだよそれ。行けばいいじゃねえか。すぐに連れて行ってやる」
スタンレーが低い声を絞り出す。その言葉に返事はなかった。
「はあ……」
しばらくの沈黙の後、ヘルムトが苦しそうに息を吐いた。
「いや、心配は、いらないって、分かってるんだ……。ここまできた、アルロ君もいる。もう勝利は目前だ。私がいなくとも……決着は、つくだろう」
ヘルムトはアルロをじっと見つめた。灰色の瞳は、今はもうほとんど光を映していないようにくすんでいた。
「ただね。本当に、あと少し、君ともっと……」
声が掠れて、それ以上は言えないようだった。
呼吸が苦しいからなのか、涙をこらえているのか。感情的な声にも聞こえるし、ただ本当に力を尽くして絞り出しているようでもある。分かるのはただ、本当にヘルムトの最期が近いという事だった。
「本当に楽しそうでしたからね」
「親子みたいだとか言われて調子に乗って、なあ?」
アルロと違って、スタンレーとヒューケはそう言うだけの余裕があった。覚悟があるのか、重ねて着た年月の違いかは分からないけれど。二人が揃ってアルロの肩を押す。行ってやれとゆっくりと頷かれ促されて、アルロはヘルムトのベッド脇へ膝をつき、その手を握った。
「僕も、楽しかったです、ここのところ、ずっと」
本当に細く、小さくなってしまった。骨と皮だけになった手は、歴戦の武将のもので、たくさんの傷が残っていた。
「私は……果報者だ」
ぎゅっと手を握られる。
果報者——アルロはそれに頷くことが、どうしてもできなかった。
ヘルムトに見られないように唇を噛む。
無念に違いない。志半ばで、あと一歩のところで体が動かないのだ。どれほど口惜しい事か。これまでアルロの想像もできないほどの長い間の成果が、今、やっと報われようとしているのに。
これのどこが果報者だといえるのだろう。
長い沈黙だった。
アルロはやっぱり、かける言葉を見つけられない。
かなりしばらくしてから、ぽつりとヘルムトが言った。
「私の体を操ってくれないか」
「……………は」
聞こえたけれど、アルロは聞き返した。ヘルムトはずっと考えていたかのようにもう一度言った。笑みすら浮かべて。
「君の力で私を動かして欲しい。みんなの前で倒れてしまったからね。このまま寝ていたら、動揺が広がる」
「しません」
アルロはきっぱりと言った。
「体を動かすのは、あくまでヘルムトさんの力を使います。魔力が動力となって動かすわけじゃない。本来動けない体に、鞭打って動かすだけで——」
「分かっているさ」
すっかり落ちて、無いに等しい筋肉、使い物にならない神経。きっと骨もぼろぼろで。それらを駆使して、擦り減らして使い尽くせと言っている。
その後の反動で一体どれ程の苦痛にさいなまれるかも、覚悟の上で。
「分かっていて、君に頼んでいる。君ならしてくれると分かって頼んでいるんだ」
それがヘルムトの望みだから。アルロは断らないだろう、と言っている。
止めると思ったこの場の誰も、何も言わなかった。アルロ以外は皆、ヘルムトがこれを言うのを知っていたようだった。
「私の最後のお願いだ。残酷なことを言って、本当にごめんね」
いつもの軽口のようにヘルムトは言った。
アルロが感じたのは心配でも悲しみでもなく、猛烈な——何かわからない、怒りに似た感情だった。腹の奥が熱くて、叫び出したくなる。
ふざけるなと言ってしまえたらどれほどよかっただろうか。
アルロは一度だけ深呼吸してから、手を離して立ち上がった。
「……ちょっと、頭を冷やしてきます」
すっかり占拠された街並みを歩いて、アルロは人通りの少ない湖への道を下った。
不吉な闇の国へとつながっていると言われている湖に向かう道には人通りがほとんどない。どんよりとした暗い水面は凍ることなく、風でゆらゆらと波打っていた。
それを見下ろしながらアルロは草むらの上に座った。
その時にかちゃりと音がして、提げていた剣をベルトから外す。
ペンシルニアの紋章がくっきりと見える。エイダンから預かった剣だった。その感触を手で確かめていたら、急に寂しくなって来た。
出立の時の事を思い出す。
「僕の……」
——僕の兄弟。
そう言ってくれたエイダンなら、どうしただろうか。
ヘルムトが明日出陣するとしないとでは、戦況は全く違う者になるだろう。合理的にそう判断して、やればいいと言うだろうか。——いや。
きっとエイダンなら、一緒になって怒ってくれる。
——はあ!?ふざけるなよ、アルロにそんなこと絶対させない!
まるで本当に言っているかのようにエイダンの声が頭に響いた。
そうすると不思議と、張りつめていた糸が緩むように肩の力が抜けた。
無償に会いたくなって、アルロはぐっと目を閉じた。目を閉じれば、みんなの顔がすぐに思い浮かぶ。
——アルロのためなら、何だってできるわ。
マリーヴェルの優しい声も思い出された。
きっと彼女もいっしょに怒ってくれるだろう。心配そうに、美しい顔を曇らせるかもしれない。
アルロ自身が気づかなかった、アルロの痛みにいつも気付いて癒してくれた人だから。
「何だって……」
そう、何だってできる。アルロもそう思ってここまで来た。
日が沈んで、冬の冷たい空気は肺が凍り付くほどに気温が下がった。
体が冷え切っても、頭は熱く冴えているようだった。辺りが真っ暗になってから、アルロはようやく立ち上がった。
結局、アルロはヘルムトの望み通りにした。
落馬したヘルムトの姿に動揺が走り、士気が下がっていたブラントネルの軍隊は、一気に勢いを取り戻した。
好機と思い攻めようとしたシャーン国軍を逆に押し戻し、中城門まで突破する。
ヘルムトの判断は正しかった。ただ、それがいくら正しくとも、アルロにとってはつらい戦いだった。
ヘルムトが馬上に現れ、健在であるとを示した時の、人々の空気が割れるような歓声。城門を突破した時の歓喜に湧く声。そのどれもが、胸を痛い程抉った。
このアルロの作り出した虚構に、皆が騙されて、熱気を作り出している。
そうして戦闘はあっという間に決着がついた。
戦闘が終わってすぐ操作を解いて、アルロはヘルムトをベッドに寝かせた。
深い昏睡状態のヘルムトは、生きているのか分からないくらいの顔色で、一気に病が進行したように見えた。
アルロのこの手こそが、確実に死期を早めている。
アルロはその寝顔をずっと見つめていた。
「——城門は突破しましたよ……あと少しです。ヘルムトさん」
聞こえていないだろう。手を握っているのも分からないだろう、こんな昏睡状態では。
それでも話しかけずにはいられなかった。
——僕はこの顔を忘れちゃいけない。僕がしたことを、覚えておかなくてはいけない。
ぽたり、とアルロの膝に、涙が落ちた。
君のせいじゃ……
罪深いよね、ヘルムトさん




