4. この世の地獄
街に入った一行はほとんど言葉を発さず、何もない開けた場所にばらばらと座った。
「一応警戒はするけど、本拠地からファンドラグに続く地区は念入りに掃除をしてある。楽にしてて、大丈夫だよ」
ヘルムトはそう言って、その言葉の通り緊張を解いているようだった。
確かに街には小隊規模の兵士が駐屯しており、警備もされているようだ。その兵士の腕には黒い布が巻かれていた。街の入り口にも黒い旗が立てられていた。ブラントネル革命軍の証である。
アルロが把握している限りでも、まだいくつかの街はブラントネルには落ちていない。しかし、それも時間の問題だった。シャーン国の兵士は王都以外にはほとんどいないだろう。そもそもこんなところに革命軍のリーダーがいるなんて誰が思うだろうか。
ただの軍の移動だと思われているし、街の人々を見る限り、そもそも誰かを気にする余裕はない。
荷物を解いて、皆は乾いたパンと僅かな干し肉だけを腹に入れた。
薪が貴重だというので焚き火もせず、ただ静かに日の入りを見つめる。普段は明かりもないというが、ペンシルニアの騎士が照明の魔道具を持っていたため、その明かりを頼りに明日の行程を簡単に打ち合わせる。
静かな街にボソボソと低い声が生じては、消えていく。聞こえる音といえばそれくらいで、どことなく気味の悪さのようなものを感じた。
秋だというのに、虫1匹鳴いていないからだろう。死んだ街と言うならこういう所を言うのかもしれない。
照明も消して、見張りを残し、一同は早々に就寝した。
地面は冷たく、秋の夜の冷気は体を冷やす。各自は簡単な毛布のようなものにくるまった。ブラントネルの兵士らは慣れているようだったし、ペンシルニアの騎士らも黙って横になっている。
アルロはなかなか眠れなかった。体は適度に疲れているのに、頭が冴えてしまっていた。寒さのせいでもあるし、慌ただしくペンシルニアを発ったせいで、色々な感情が混ざり合って落ち着かない。そっと寝床を抜け出して、街をぐるりと一周した。
照明はないが、星明かりを頼りに荒れた道を歩く。歩く度に崩れた石畳や瓦礫がゴロゴロと音を鳴らした。
しばらく歩いて、井戸のようなものを見つける。その脇で一人の男が井戸にもたれかかるようにしていた。
「そこの……人」
その男はしわがれた声でアルロにそう声をかけた。
服もぼろぼろ、手足は折れそうな程に細い。もしかしたら、まだそこまで年はいっていないのかもしれないが、しわがれた声は老人のものに聞こえた。
「その色では、さぞかし……酷い目に、あったろう」
この闇にとけこみそうなほど黒いアルロの髪と目は、今ではシャーン国では珍しいものになっているらしい。この街に着いた時から驚いたような顔をされていた。
「恨みを……晴らしに、来たのか?——っごほっ、ぐっ、ごほっ」
男は激しく咳き込んだ。
アルロは慌てて男の背中に手を添えて、体を支えた。
骨に触れているようなごつごつとした感触は、壊れてしまいそうで頼りない。出来るだけそっと触れるが、折れてしまいそうで怖かった。
「水を汲みましょうか」
井戸に落ちる綱を手繰り寄せるが、思いのほか軽い。綱は切れていた。千切れたと言うよりは、刃物で鋭く切られているようだ。
「この、井戸の水は……誰も飲まん」
修理をすれば使えそうなのにそれをしないという事は、何か理由があるのだろうか。綱の先を眺めていると、ようやく男は息を整え終えた。
「溢れるほどの死体がこの井戸の中に投げ込まれた。俺の妻も。……まだ、息もあったろうに」
ぎょっとするような事を、男は淡々と言った。
一体どんな思いで——その表情を窺うが、男の目は相変わらず空虚に遠くを見つめているだけだった。
今はもう血の匂いも、死体の気配もない。おそらくそれはもう随分昔の話なのだろう。
「では、水を取ってきます」
立ちあがろうとしたアルロの手を、男は掴んだ。
その力の強さにアルロの方が驚く。もう骨しかないようなこの細腕の、一体どこにそんな力があるのだろう。
「なあ、——俺を殺してくれないか」
「——え……」
「もう……終わりにしたい」
驚いて声も出せないアルロに、男は手の力を緩めないまま、むしろますます縋り付くようにして身を乗り出した。
「なあ、憎いだろう?恨めしいだろう?それを俺にぶつけてくれないか。好きにしていいから、なあ?」
男の目はいつのまにか怪しげに光っていた。けれどもやはり生気はなくて。
——ああ、この人は、自分で死ぬ力もないんだ。
アルロはそう思った。
死にたくても死ねなくて、偶然目の前に現れたアルロに縋るしかない。
アルロはその男の手に自分の手を重ねた。
「……ごめんなさい」
他に言葉は見つからなかった。
ただ、その願いを叶える事は出来ない、その謝罪しか。
生きていれば希望がある——そうだろうか?
妻の分も生きてほしい——何のために?
どんなに考えても、絶望の中にある人に、掛けられる言葉なんてない。
アルロはカサついて皺だらけの手を握った。
アルロは、マリーヴェルの為にここに来た。隣国の内戦を早期に決着をつけるために。もちろん、そこにどれほどの犠牲があったのかも知っていたし、それがどれほど悲惨な状況かも理解しているつもりだった。
——僕は、この惨状、この人々の事までは思っていなかった。そんな僕が……。
何か大きなものを置いて来ていたような感覚に、アルロは胸がしめつけられるような気がした。
しばらくそうしていたら、やがて男はアルロに頼むのを諦めたようだった。
また表情のない顔を向こうに向けて、脱力した体を井戸にもたれかける。
アルロはゆっくりと手を離して、立ち上がった。
——戻ろう。
そう思い踵を返すと——いつからいたのだろう。ヘルムトが立っていた。
「ヘルムトさん」
ヘルムトは薄手の毛布を肩に掛けてそこに立っていた。
「体は大丈夫ですか」
夕暮れ時、脂汗を浮かべながら明日の行程を確認したら、土色の顔で薬を飲んで眠った。
「少し寝たらもう平気だよ。薬もよく効いてる」
「……………」
それが必ずしも良い事とも思えなくて、アルロは黙った。
薬の量はアルロが思っていた以上に多く、その作用時間も短くなっている、とサンがこぼしていた。
動かずにじっとしていた方がいいのではないかと思う。
「暗いのに一人で出てくから、どうしたのかと思ってさ」
「少し……眠れなくて」
「大丈夫かい」
アルロは思わず笑ってしまった。
この場に似つかわしくない笑いだったからヘルムトも少し驚いたような顔をする。
「何だ」
「いえ。それは僕の台詞じゃないかと思って」
どう考えても、大丈夫じゃないのはヘルムトの方だ。
ヘルムトが困ったような笑みを浮かべた。
「いやいや。私のは、分かっていた通りになっているだけだからね。それよりも——私にはね、責任があるんだよ。君のことを愛してやまないご家族から、引き離して連れてきてしまった……」
「なんだか——」
矛盾している。
ペンシルニアにいる時は、アルロを何とかしてブラントネルへ連れてこようとしていたというのに。
ただ、その言葉を投げるのもためらわれるほど、ヘルムトが弱っているような気がして、アルロはそっとその横に並んだ。
秋の風が首筋を通り抜けていく。
「戻りましょう。あったかくして、少しでも寝た方がいいですよ」
「君はほんと、優しいね」
「——そんな満身創痍な姿を見せられたら、みんなそう言うと思いますよ。ヘルムトさん、ひどい顔色です」
「見えるの?この闇で」
アルロは黙ってヘルムトの腕を自分の肩に回した。
流石に顔色までは見えないが、休んだ方がいいのは確かだから。
アルロに支えられて、その頼もしい体つきにヘルムトはふと考えを口にした。
「君が……傷つかないといいんだけど」
はあ、とヘルムトのため息が聞こえる。
矛盾しているのは自分でも自覚しているのだ。連れて来るのがブラントネルの最善だと思っているし、それは揺るがない。だからせめて、アルロが傷つかないように——。
——いや、ここまで巻き込んでおいて、それは偽善だ。
「シャーン国はどこもこんな感じだ。何を聞いても悲惨な状況を耳にすることになるだろう」
「僕はかける言葉がありませんけど……それによって、僕が傷付くことはありません」
アルロは静かに前を見つめていた。
「深く傷ついているのは、僕ではなくて彼らですから」
「ああ、ほら、そういうところ」
傷つく資格がないと思ってしまうのだ、アルロは。
数歩歩いてから、ふう、とヘルムトは息をついた。それからまたゆっくりと歩きだす。アルロはヘルムトの亀のような歩みに合わせてゆっくりと足を出した。
「相手を思い過ぎるんだよね……アルロ君さ。あの時も——いつも私を無視してたのに、この前は君の方から声をかけてきただろう?」
ペンシルニアの屋敷を出た時の話だ。いつもなら言葉も交わさずに通り過ぎるのに、あの時だけ、初めてアルロの方から話しかけてきた。
「ご飯を食べていないのかなって、気になっていて」
そういうところが、アルロの優しさなのだ。
掛ける言葉がないとアルロは言ったが、今だって、アルロは側にいた。
殺してくれと言う人間の側にただいるという事も、つらいはずだ。距離を取ればいいのにそれをしない。
「——ああやって、遺された者達は絶望の中にいる。恨みに燃えている者もいる。今のブラントネルには、そういう奴ばかりだ」
十数年にも及ぶ迫害と弾圧の歴史が、大地だけではなく人々の心をも荒廃させているのは、この街に入ってよく分かった。
「それでも、どんな感情を持っていたとしても。覚えていてほしいんだよ。あの人達の命は、君が繋ぎ止めたものだ」
アルロが革命軍に手を貸したことを言っているのだろうか。
ヘルムトなりの、救えた命があったのだという励ましなのか。
アルロにとっては、少しも喜ばしくはなかった。




