3. ブラントネルへの道
「アルロ、ごめんなさい。私、まだブラントネルには行けない」
15の誕生日、マリーヴェルは改まってアルロにこう話した。
それまではずっと、15になればアルロの所に嫁ぐと公言してはばからなかった。それが、いつからだろう。
勝気な瞳に、時折憂いの色が浮かぶようになったのは。
迷いなく信念を貫いていた姿が、突き進むだけではなく、一人で止まるようになった。
「何か、ありましたか?」
「うまく言えないんだけど……今の私じゃ、まだだめなの」
そう言ってマリーヴェルは、近頃よくする、憂いを帯びた瞳を伏せるのだった。
二人で興している事業も順調で、観光業もブラントネルの刺繍の販売も軌道に乗っていた。収益が安定してきて、国家を潤している。マリーヴェルの功績がブラントネル国内でも知られ、未来の王妃への期待は大きい。
下地は整えられた、マリーヴェルには絶対に不自由な思いをさせない、そうアルロは思っていた。
忙しさの合間を縫って、アルロは季節ごとにペンシルニアを訪れていた。どれほど忙しくても、馬を走らせてマリーヴェルに会いに来ていた。
マリーヴェルは可愛らしい少女の顔から、次第に美しい大人の女性へと成長した。
流れるような優雅な所作に加え、我儘で勝気と言われていた言動は鳴りを潜めた。持ち前の社交的な性格を活かし、既に社交界での影響力も大きい。
魔力がなくとも、事業の才とその美貌と、何より人脈はマリーヴェルの強みになっている。ペンシルニアの銀花と呼ばれ、求婚状が後を絶たないほどだった。
それでも、マリーヴェルはまだ15。ペンシルニアから離れるのも心細いだろうと思い、アルロは分かりました、と言った。
それが、1年前。
益々増える求婚はついには他国からも届くようになっていた。
待とうと思っていたし、いつまででも待てると思っていた。
そもそもはじめ、アルロがペンシルニアを発つ決断をしたのは、ただマリーヴェルのため、それだけだった。
シャーン国は故国とはいっても、全くと言っていい程愛着もなかったし、覚えていることもほとんどなかった。ただその争いが、ファンドラグにも飛び火するかもしれない——シャーン国は光の魔力を執拗に狙っているから、禍根を残してはいけない。そう思ったからだ。
例えマリーヴェルと結ばれなくても、彼女の進む道が安全で自由なものになれば、それだけでいいと思っていた。
それが、今は。
——貪欲になったと思う。遠くから見ているだけでは足りなくなったし、触れたいと思ってしまう。なんて欲張りなんだと思うけれど、マリーヴェルが応えてくれたから、望んでもいいんだと思って。
けれどブラントネル国王という肩書を持ってしまった。遠くから見ることも叶わなくなり、背負うものが大きくなるにつれて、突き進めば進むほど、マリーヴェルの存在が遠のいていくような気がしていた。
マリーヴェルは、来月16になる。——春には成人の式典に参加し、大人の仲間入りを果たす予定だ。
アルロは焦っていた。
かつて、マリーヴェルが世界の中心で、彼女の幸せがそのまま自分の幸せだった。そこに自分の感情はなかったというのに。
その焦りを、ライアスに殴られて初めて自覚させられたのかもしれない。
マリーヴェルの心がどこにあろうと、自分は彼女を守るだけだと、どうして言えないのだろう……。
ファンドラグからブラントネルへの道。
もう幾度も駆け抜けた草原を、ただひたすら全速力で駆けた。
「——っわ」
駆け足を続けていたせいで、馬の足が少しもつれてこけそうになる。
バランスを崩したところを何とか持ち直し、アルロはスピードを緩めた。
「——どう、どう」
黒く光る毛の首筋を叩いてやって、更に速度を落とす。
馬はチラチラと白い縁取りの目をアルロに向けてきた。まだ走るのか、と訴えているようだった。
「そうだな。ゆっくり行こう……」
アルロはそう言って、並足にした。
日が沈みかけている。
草原の地平線から空が赤くなって、アルロと馬の影を伸ばしていった。
アルロは目を閉じた。馬の体が揺れるのを感じ、鐙が踏みしめる大地の硬さが伝わってくる。
自分の中にある——その深淵の闇の存在を自覚する。それは消えることはなく常にそこに存在し続けている。これを二度と放たないと決めていたし、今では完全に制御の中だ。
けれどこんな日は……どうしても考えてしまう。
ペンシルニアを発った日。いつでも帰ってきていいと言われて送り出された。
祖国を選んだ自分は、ペンシルニアにとって裏切り者ではないのか。後ろ足で砂をかけるような真似をして、再びペンシルニアの地に立っていいのだろうか。そう思う度に、とてつもない孤独と恐ろしさが襲って来た。
そんな時はいつも、マリーヴェルの姿を思い浮かべ、その香りを思い出す。
アルロにとって、マリーヴェルとの出会いは劇的だった。苦しみの中、終わりのない闇の中で、マリーヴェルだけが色を持って近づいて来た。強烈な眩しさなのに温かく、まだ小さな手で抱きしめ、根気強くいつも慰めてくれた。
尊くて、神聖で、強くて美しい人。
マリーヴェルを思えばこそ、深淵の闇は制御できた。
「やっぱり会ってから帰ればよかった……」
目を開けて、振り返る。ファンドラグの街はもう遠く地平線の向こうで、建物の影も見えなかった。
***
——初めてこの道を駆けた時、隣にはヘルムトがいた。
「後悔はさせないよ」
呼吸をするのもつらそうなのに、ヘルムトの顔は晴れやかだった。
アルロがともにブラントネル軍へ加わると言ったからか、その先の未来を見通しているからなのか。
つらくてたまらない様子なのに、ただただ嬉しそうに顔をほころばせていた。
一人で馬に乗るのも難しいから、サンが一緒に乗って、後ろから支えている。馬車を使ったらどうかと聞いたら、目立つからだめだと言われた。
「ここを越えるとシャーン国だ」
涸れそうな小川を通る直前、ヘルムトがそう言った。
まるで別世界だった。
草は枯れ、土と言えるのか、黒く焦げた焦土だけがただ延々と広がっている。
土も岩も、全てが黒く変色して、そこには二度と植物は生えないように思えた。
「草も生えない、というのは比喩かと思ってました」
シャーン国の大地は、もはや草も生えない。新聞記事にそう書かれていたのを思い出す。
「ああ……それなら良かったんだがな」
サンに体を支えられながら、ヘルムトが力のない声を上げる。
「人を焼いたんです」
サンが後を継いで説明した。
「逃亡する民衆を軍隊で取り囲み、生きたままに。見せしめの為にその炎は5日間燃やされ続け……そのせいか、何ヶ月もたった今でも、この辺りは黒焦げのままです」
「……………」
黒ずんだ土を踏むたびに、人の焼ける臭い、草木の燃える煤の臭いが、漂ってくるようだった。
アルロに続くペンシルニアの騎士らも、誰一人言葉を発することができなかった。
「本当は本拠地まで一気に行きたいんだけど」
昼を過ぎたあたりで、遠くに街並みが見え始めた。
駆け抜ければ首都近くの本拠地まで1日でたどり着くが、ヘルムトにその体力はない。革命軍が掌握している街の内の一つで一晩泊まって、体力を回復させてから明朝本拠地に向けて発つ計画だ。
「いえ、街も見たいですから」
アルロは本心からそう言った。報告書で聞いていた状況と比べて現状がどうなっているのか、この目で見ておきたいという気持ちが大きい。
「地方の街を見て、衝撃を受けるかもしれないけど——その、なんていうか……」
「後悔させないのでは」
歯切れの悪いヘルムトに、アルロは先ほどの言葉を引っ張ってきた。
「や、まあ、ゆくゆくはね。ただ、その……本当に悲惨だから」
ヘルムトのその言葉は、確かにその通りだった。
地獄という場所を描くなら、ちょうどこんな光景かもしれない。
家のほとんどは崩れ落ちて原形をとどめていない。焼かれた跡もあちこちに見られた。まばらに見かける人はひどく痩せ細り、骨と皮になってほとんど動くこともない。膝を抱え、路傍に気の抜けた様子で存在する。ただ、どこか遠くを見つめていた。
夜になると、街の人は簡易のテントで身を寄せ合って暮らしている。火を燃やす薪もろくにないから、煙も立っていない。ヘルムトの仲間が食料を配った。固いパンだったが、一人ずつ、それを拝むように受け取っては、数人で分け合って食べている。
今夜はここで泊まる、というテントの前で、ヘルムトはペンシルニアから来た面々の表情を窺った。
想像以上のひどさに、誰もが深刻な顔をしていた。
すぐ隣の国だと言うのに、ファンドラグとの差があまりにも大きい。
「連れてきておいて言うのもなんだけど……がっかりしないでほしいんだ。僕は、これでも……」
「回復します」
きっぱりとアルロは言った。
「王権を早期に交代させ、僕たちが復興へ舵を切れば。——必ず、回復させましょう」
アルロが言った言葉に、ヘルムトが笑った。
「はは。君は……すごいな」
これでも、復興の希望はあると思うんだ。何故なら——そう説明を続けようと思ったのに。
ヘルムト以上に、アルロは断言した。それも信じて疑わないように。
恨みもある祖国だろうに、全力でそれに手を貸してくれると言う。
ヘルムトの笑う声には力がなかったが、その目は少し涙が滲んでいた。




