番外編【赤ちゃんこんにちは】4
「ライアス、ちょっと、話しませんか」
帰宅後、眠ったエイダンをダリアに預けてから。改まったシンシアの台詞にライアスは凍り付いたように固まった。
「あ……」
返事もできないライアスの手を、シンシアは困ったような顔で引いた。
二人でソファに掛ける。
ライアスの体が強張っている。手はつないだまま、シンシアはライアスの顔を覗くように見上げた。いつもと違って視線も合わず、思い詰めた顔をしている。
「ライアス。私は怒ってませんからね」
それでそんなに緊張しているのかと思って、まずはそう言ってみる。逆効果だったようで、ライアスは絶望的な顔色になった。
「そ……それ、は」
「ライアス?顔色が——」
繋いでいない方の手をライアスの顔に当てると、今度は泣きそうな顔になる。一体、何を考えているのだろうか。かといって、もういいですとも言えず、どう言えばいいのかと悩む。
しばらくして、ぽそりとライアスが呟いた。
「もう、私には、怒りも湧きませんか……」
「え」
「私の事は、もう……」
はあ、と苦し気にライアスは息を吐いた。
「私にはもう、何の感情も……ここを、で、出て……行きたいと——」
「ライアス!?」
触れていた手でそのまま、頬をぱちりと軽く叩く。
「そんな訳ないでしょう?どうして私が出て行くんですか」
ライアスはやっと正気に返ったように、目を丸めた。
「違うんですか」
「何が違うやら……ちょっと待ってください」
わからないままに、一応念を押しておく。
「私は出て行くつもりはありません」
それを聞いてライアスは心の底から安堵したような顔をした。
「もう怒りを通り越して、私には関心がなくなったのかと。——無理もありません。貴方はいつも、我慢を強いられ、それを受け入れて来た」
ライアスとようやく目が合う。
「せめてこれからは、自由に生きてもらいたいと思っていたのに。いつの間にか私が貴方の障害になっている」
このライアスの目の色には、見覚えがあった。まだエイダンを産んで間もない頃にもよく見ていた。
申し訳なさか、負い目のようなものか。いろんな重いものを一人で抱え込み、自分さえいなければいいのだと思っているような。
「貴方がもし出て行きたいとなったら……私は、それを止める術はなく——」
「ライアス」
まさかここまで思い詰めているなんて。
主従関係のようだった当時から、名で呼び合うようになり、二人の時間も家族の時間も大切にして。そうして毎日を積み重ねてきたつもりだったのに。
想像以上に重症だったんだな、と思う。
それでも、ライアスはずっと考えてくれていたんだ。シンシアがいつか自由に生きられたらって。
それを——ライアスの配慮を、箱庭の中に入れられているだなんて。何て贅沢を言っていたのだろうか。
「そんな風に、思ってくれていたんですね」
我慢の多い生活だったのは確かだ。王宮と神殿しか行った事がないと言ってもいいほどに。世情にも疎く、何も見せられていなかったし、見ようともしなかった。
だから兄の死の真相からも目を背け、目の前のライアスを責めたてて……。
それを変えたいと思ったシンシアの事を、ライアスはちゃんとわかってくれていた。
思い返せば、治療院を建てたいと言った時も、孤児院を整備したいと言った時も。反対もせず、いいですねと笑ってくれて。予算の事から細やかに教えてくれた。
少しずつ出ていけるように、慎重に道を作ろうとしてくれていた。
「ありがとう、ライアス。それからごめんなさい」
「いえ……!」
「でも、やっぱり少し残念だわ。この3年、私は貴方と、二人の時間を築き上げていたと思っていたのに」
ライアスの手を握る手に力を込めた。
「私たちの関係は、そんなに簡単に手放せるものなの?」
「い、いえ。ですが、あれ程望んでいたのに……。急に、その話をしなくなったので……」
「普通の会話はしていたじゃない」
完全なる思い込みだったことをようやく自覚したのだろう。
ライアスはシンシアの手を両手で包み込んだ。
「——不甲斐なく、申し訳ありませんでした」
しゅん、としているところを見ると、この顔に弱いんだなと思う。
シンシアはそのままライアスの胸に飛び込んだ。ライアスがゆっくりと腕を回し、抱き締めてくれる。
「愛してるわ、ライアス。私こういうの言うのが慣れなくて……もっとちゃんと、言うようにしますね」
ライアスの腕に力がこもるのを感じる。
「——貴方のその優しい瞳も。この力強い腕も。私の事を何より大切に思ってくれているところも。エイダンに邪険にされても、くじけずに父親として接してくれているところも。その声も——」
「ま、まって、待ってください」
腕が緩んだので見ると、ライアスの顔はゆでだこのように真っ赤だった。
耐えきれなくて顔を覆っている。
たったこれだけの事で、ここまで反応されると——やだ、いじめたくなってしまうじゃない。
「ライアス?貴方の好きなところ、まだ言い足りないわ。3年間、足りていなかった分をちゃんと伝えないと」
「……………っ、シンシア」
泣きそうな声にシンシアは思わず止まった。泣かせるつもりはないのだ。今日の所はこのくらいにしようと思ったら、ライアスが絞りだしたような声を上げた。
「私の方こそ……十数年分ありますから。まだまだ伝えきれていません」
ちゅ、と、手の甲にキスをされて。少し赤くなったまま、じっと見つめられる。
「貴方の眼差しが注がれる度、その唇から声が漏れる度に。私の心臓は早鐘を打つ」
あ、何か、始まってしまった。
「細い銀糸のような髪の一本から、美しい足の爪先までが愛おしい。先程も、つい拝まずにはおられぬ程に——そのお姿が、神々しく、眩しくて」
熱を持った声のまま、そっと再び抱きしめられる。
「愛しています、シンシア。全身全霊をかけて、一生をかけ、幸せにすると誓います」
そんな、耳元でその低い声で囁かれたら。
「だ、だめ、腰が抜けるわ」
「それはいけませんね」
ライアスは飄々とした顔で、シンシアをさっと膝に乗せた。
とてもご機嫌な様子だ。
いつもの調子が戻ってきたようで何よりである。
「私、子供は三人位ほしいの」
落ち着いてから、膝の上のままだったが、シンシアはそう言った。
「さ、三人……」
二人目さえ躊躇っているのに、とライアスが驚く。
シンシアは苦笑した。驚かせてしまった……でも、この思いは、一度伝えておきたかった。
「私の中の、こだわりというか……うまく言葉にするのは難しいんだけど」
やり直し、と言うわけではない。そんな簡単な話ではない。前世の娘たちの代わりを求めているのとも違う。
だた、これはもう、感覚だ。
三人の子供。その将来像が、この上なく自分にしっくりくるだけの話で。
うまく言葉にできないから、何から言ったらいいのか迷いながら伝えた。
「寂しい、というわけではないの。今でも十分幸せ。——本当に、欲張りだというのはわかっているの」
完全に我儘だ。子供が生みたい。二人目、三人目が欲しい。理由もなく、直感的に、それだけなのだ。
「ただ何ていうのか……わいわい、にぎやかで、うるさくって。ああうるさい、忙しい、でも幸せ。っていうのがしたいの」
驚いたままのライアスにふわりと笑って、シンシアはその肩にこてんと頭を預けた。
「でも、貴方の気持ちや不安を無視したいわけでもないから。——私、待つわ。ただ子供が欲しいだけじゃないもの。ライアス、貴方と一緒に、家族を増やしていきたいの」
すり、と顔をすり寄せれば、ライアスが自分を見つめているのを感じる。この上なく落ち着くこの腕の中。
「ずっと……。ずっと、貴方と一緒にいたいから」
「……………っ」
ぎゅっとシンシアを抱くライアスの手に力が込められた。
「わかりました」
見上げると間近に目が合う。もう見慣れた濃茶の瞳。
「貴方の望みが、欲張りなどとは言えないように。——方法を探しましょう」
そう言ったライアスの顔は、いつもの頼りがいのある夫の顔に戻っていた。
この日から、ライアスはシンシアと一緒に王宮の書庫に通い、魔術師や治癒師を訪ねた。
どれほど話を聞いても安心できるということはなかったが、ライアスがただ反対する訳ではなく方法を探してくれることが、嬉しかった。
そうして数ヶ月経ってようやく、折れるような形でライアスは納得した。
過保護は増したが、その時のシンシアの嬉しそうな顔に、ライアスはもう何も言えなかった。
ライアスは寂しい幼少期を送っていたので、なんでもない日常を噛み締めていて、それを失うのが怖くてたまりません。
そんなライアスのことをまだそこまでわかっていなかった頃のお話しです。
今じゃそんなことないです。もう、手のひらでコロッコロなんですけどね^^




