番外編【はじめてのおつかい】4
アイラは意外と力が強くて、ぐんっと引っ張られた。
それでも、エイダンはゲオルグにすぐ追いつかれると思った。
鬼ごっこの時みたいに、すぐに見つかってしまうだろう。ゲオルグは手加減をしない人だから、いつもオレンシアから大人げがないと言われている程だ。
そう思ったが、人の壁の向こうに、ゲオルグが女性客に囲まれているのが見える。
「あら?いい男」
「騎士様、ここでお食事するの?」
「あ、いや……」
積極的に腕を組まれたりして、意識がそっちに逸れている。
アイラはエイダンの手を引いて通りを一つ入り、曲がってすぐのお店に入った。
ちょうど葡萄亭の裏の通りだから、葡萄亭の斜め裏の建物になる。
「ここよ」
「ここ……?」
すごくご近所だ。
お店には看板はなかった。正確には、扉の所に『薬師』と控えめに書かれていたが、エイダンには見えなかった。
店内には客はいない。
不思議な匂いだ。春の野原で転がった時のような、草の潰れた匂いのような気もするし、厩舎へ行った時の独特な獣のような香りもする。
でも、嫌いな匂いじゃなかった。
カウンターとその手前に椅子が2つあるだけで、こちら側のスペースはとても小さい。けれど、カウンターの向こうには棚があり、そこにはびっしりと瓶が並んでいる。その向こうに続きの部屋があり、そこからもくもくと紫色の蒸気が立ち込めていた。カウンターの端に鳥かごがあって、綺麗な白い鳥がちちち、と鳴いている。
アイラがカウンターの椅子に座ったから、エイダンもよじ登って座ってみた。そうすると続きの部屋がもう少し見える。そこには誰かがいるようで、黒いローブと、大釜が見える。
これは、エイダンも絵本で見たことがある。
「……まじょ、みたい」
「そうだよ。妙薬の魔女って言ったでしょ」
エイダンはちょっと感動して、きらきらした目を向こうに向けた。するとその黒いローブの人が店に出てくる。コツコツ、と木の床で靴の音が鳴る。
「はあい——おや、アイラじゃないか」
魔女、と言うから絵本に出てきた老婆を想像していたエイダンだったが、妙薬の魔女は一見するとどこにでもいるような普通の女性だった。かぎ鼻でもなければ、白髪が散らかったり、ぎょろりとした目もしていない。しかも、それほど年もいっていない。お姉さん、と言ってもいいような見た目だ。
「こっちの子は……こりゃまた、いいとこのお坊ちゃんじゃないのかい」
「うん、公子様」
「こっ……!」
魔女は目を丸くした。そうするとより若く見える。
「公子って、まさか、ペンシルニアの……!?」
「そうだよ。——エイダン様、有名だね」
「ゆうめ?ぼく?」
「護衛は?こんなところに、子供だけで何の用で」
「妙薬の魔女の薬をもらいに来たの」
ね、とエイダンを見てアイラが笑う。エイダンも期待のこもった眼差しで、力強く頷いた。
魔女は呆気にとられたように口を開けて、一瞬固まった。が、すぐに気を取り直す。
「いやいや。私の薬なんて。高価な材料は使ってないんだから。とても高貴なお方の口に入れるようなもんじゃ」
「でも、魔女の薬はよく効くでしょ?」
「く、す、し!誰が魔女だよ、まったく」
「まじょ、じゃ、ないの?」
エイダンが愕然とした様子で言った。そのあまりの絶望感に、魔女はバツの悪そうな顔になる。
「——あー……まあ、そう呼ぶ奴は多いけど……」
治癒師は貴族に多く、治癒師の治療を受けられない庶民のために民間で薬を煎じるのは女性が多かった。家の中で子どもがいてもできる貴重な産業とも言える。一昔前までは魔女だとか、腕がいいと妙薬の魔女だとか言われていたが、魔女というとどうも怪しいイメージがある。最近では薬師という事の方が多い。
「私は薬師、って言うんです。薬師のユーリです、公子様」
ユーリが丁寧に名乗ると、エイダンはあっと思いついたように背筋を伸ばし、胸に手を当てた。
「ペンシルニアの、エイダンです。もうすぐ4さい、です」
言えた、と満面の笑みを浮かべる。こうするといつもシンシアは、上手、可愛い、と拍手をしてくれる。
「あの……おくすり、もらえますか」
「誰の薬ですか?」
「ははうえ」
「公爵夫人は、どこがお悪いんですか」
「ずっとね、ねてるの。ごはんたべれなくて、おへやでいるの」
「うーん……」
ユーリは眉間にしわを寄せて、首を傾けた。
「あのですね、坊ちゃん。私ら薬師は、患者さんの症状をお聞きして、それに合わせて調剤——薬を、作るんです。ですから、細かい症状をお聞きしないと、お薬はお出しできないんです」
「魔女なのに?」
「アイラ。あんたには何度も言ってるでしょ?私らは魔力があるわけじゃない。膨大な過去の記録と、伝承された知識と、ありったけの経験値と、それらをすべて統合した、学問で成り立ってるれっきとした医術なんだよ」
「アイラ……」
ユーリの言う事が一つも分からなくて、エイダンは不安そうにアイラに話しかけた。
アイラはにっこりと笑ってエイダンの頭を撫でた。
「大丈夫だよ、エイダン様。私もいっつも、ユーリの言う事は一つも分かんないの。きっと魔女の言葉なんだよ」
「アーイーラー!」
ユーリの声にエイダンはびっくりした。普段、エイダンに向かってこんな風に声を荒げる大人はいないから。体がこわばってしまう。アイラが手を繋いでくれてなかったら、椅子から落ちたかもしれない。
一方アイラは全く気にしていない様子だった。
ユーリの方が諦めたように落ち着きを取り戻す。
「だからね、情報が少なくて、どの薬がいいか、わからないって言ってるの。分かった?」
「分かった。エイダン、奥さまの事、もっと話せる?」
「うん!」
エイダンは拳を握った。
「ママはね……きれいで、ふわふわのかみなの。おひさまのしたにいくと、それがきらきらして、すっごくまぶしいの。それでね、やさしくて、えっと、すっごくかわいいの。だれよりもかわいいよねって、ちちうえもいってる。でも、ぼくのほうが、さきにしってたんだよ」
「あ、ええとですね——」
「あ!ママはね、ひかりのちからなの。ぼくがけがをしたら、あっとゆうまに、なおしちゃうんだよ」
それで、ええと……と、エイダンは必死に言葉を探している。シンシアの事はたくさん思い浮かぶし、あれもこれも伝えたいと思うけど。エイダンの知っている言葉の中で、どれを使えば、それを伝えられるのかが難しかった。
「ママはね。ぼくのことが、だいすきなの。ちちうえより、せかいでいちばん、ぼくのことがすきなんだって!それでね、ぼくも……ままが、いちばん、すきなの」
エイダンは両手でほっぺを押さえた。丸いすこし赤くなったほっぺに、ぷにぷにの手が添えられる。
「ママがわらうと、ぼく、ぽかぽかするの。ママもなんだって。あいしてるから、しあわせでぽかぽかするんだって」
エイダンは完全に自分の世界に入ってしまっている。
「エイダン様が、お母様を本当に好きという事は、よくわかりました」
ユーリはまた困ったように、腰に手を当てた。
「でも、公爵夫人ともあろうお方ですから。私よりよっぽど腕のいい治癒師がちゃんと診てると思うんですよね」
「それでもなかなか治らないから来たんじゃない」
「それは……」
治癒師でも治せない、もっと言えば、光の力でも治せない重篤な病ではないのか。一瞬頭をよぎるが、シンシアを思い浮かべて幸せいっぱいのエイダンを前にして、口が裂けても言えない。
「なんか、全体的に元気になる薬、ないの?」
「薬ってのは、副作用もあるもんなんです。飲んでいい薬と悪い薬、その人に合う合わないがあって、何でもいい、誰にでも効くお薬ってのはないんですよ」
「じゃあ、消化にいい薬。エイダン様、奥さまはどんなものを食べてるか、知ってる?」
エイダンはさっきまでの元気が嘘のようにしょんぼりとしてしまった。
「——もうずっと、たべてるとこ、みてないの……」
「あ………」
「おくすり、ないの……?ママのおくすり……」
エイダンはぎゅっと鞄を握りしめた。
——まあ、エイダン。ママのためにおつかいに行ってくれるの?
エイダンを送り出したシンシアの、いつもより白い顔が浮かぶ。頬もこけてしまっていた。
でも、笑顔はいつもと同じだった。エイダンの前では全くつらそうにもしていなかった。
——葡萄亭にはずっと行けていなかったから、嬉しいわ。
そう言って抱きしめてくれた。
お金はわかる?道はわかる?と確認しながら、ひとつひとつ、すごいわね、って本当に嬉しそうにしてくれた。きっと楽しみに待ってくれていると思うと、今にも涙が出そうだった。
うまくいっていると思っていたのに。
ずっと握り締めていたから、くしゃくしゃになった紙袋。カウンターに置いたその紙袋にはおいしそうなパンが入っていた。
風邪にいいといわれる葡萄亭のスープも買えて、後は薬があれば、完璧だって。
思っていたのに。
ついに我慢しきれず、ぽた、とエイダンの涙が一粒、カウンターを濡らした。




