6.
ペンシルニア邸の正門にアイラがやって来た。今日からアイラはこの屋敷で暮らす。
とりあえずは、暮らすだけだ。エイダンも十六になったし、正式に騎士となって忙しくなり、同時に周辺が騒がしくなってくる。将来を考えているのなら平民であるアイラの準備をするのに、早いという事はない。
シンシアが健在だし、急ぐことはない、まずは気軽に滞在してもらおうという事になった。
約束では昼過ぎにエイダンが迎えに行く予定だったが、アイラは午前中の内にやって来た。
来訪を告げられて、執事長が応接室へ案内するところにエイダンはかち合った。
「——アイラ、早かったね。昼にならないと、母上も帰ってこないんだけど・・・」
「エイダン」
アイラの様子は、とても、これからお世話になりますという様子ではなかった。手ぶらで、取るものも取らず駆け付けた、といった様子だった。
嫌な予感がする。
「アイラ?どうかしたの」
「公爵様はどこ?」
「父上は、母上と一緒に水門を見に行ってる」
王都の外れの水門が壊れたと聞いて、散歩がてら朝のうちに見に行ってくると言って出かけて行った。屋敷には今エイダンしかいない。
アイラの様子にエイダンはまさか、と思う。
アイラのこれは、アルロの瘴気の時だけじゃなかったのか。
古文書からも、魔王を滅ぼすために勇者と聖女がいると言っていた。瘴気がなければ、アイラは普通の女の子としての人生を送っていくはずだった。
「何が——は、わからないか。父上の所に行けばいいの?」
「ううん。・・・分からない。嫌な予感がして、でもどこか分からないから、ここに来ただけなの」
「それって、前みたいな・・・?」
アイラは首を傾げた。はっきりしないようだった。
その時。廊下の向こうから、ペンシルニアの騎士が一人走って来た。
「エイダン様!」
オレンシアだった。エイダンのすぐ側の窓を開けて、遠くを指さした。
「あれを」
その方角は、王城。
屋敷から見ても分かる程黒い煙が上がっていた。
「城が燃えて・・・!?」
「いえ、火柱が上がっているんです」
「火柱・・・」
目を凝らせば、確かにそれは火柱だった。火柱と聞いて思い浮かぶのは一人だけだ。
「ソフィアは」
知っているが、確認のため尋ねた。
「王城です」
オレンシアは即座に答えた。
では、やはりあの火柱はソフィアが起こした可能性が高い。王城の結界の内側で、あれほどの規模の火柱を作れる魔力を持っているのはソフィアくらいだ、おそらく。
「急ぎ城と父上に伝令を。団員全員集結」
「はっ」
オレンシアが背後の部下に指示を出している。
エイダンはアイラと目が合った。
「とにかく何があったのか確認しよう。一緒に来てくれる?」
「うん」
エイダンは騎士団の詰所へ向かった。オレンシアが後に続く。
シンシアはライアスといるから大丈夫だ、護衛には騎士団長のダンカーもいる。
心配なのはマリーヴェルだった。ゲオルグら護衛と共に、ベラの屋敷へ遊びに行っている。
「カーランド邸へ小隊——いや、中隊を送ってマリーヴェルを連れて帰って来て。タンを入れて」
オレンシアに言うと、短く返事をして駆けて行った。
屋敷は俄に騒然とした。
大嵐の前のざわめきのように、不安が瞬く間に広がっていくようだった。
まず届いたのは、王城からの伝令。魔物らしきものが出現したという。
らしき、というのは、魔物かと思ったがよくわからないらしい。
「黒い靄のようなものが出現し、それが形を成す前に、その・・・ソフィア様が、消し炭に」
「・・・・・」
「・・・・・」
「それで?」
「あ、以上です」
「は?」
伝令も、混乱しているようだった。
「目撃者が数人いますので、何らかの魔物のようなものが出現したのは確かなのですが、何しろ一瞬で倒してしまわれましたので・・・それに、魔力がその、お強すぎて、跡も残らぬほどだったと」
「ソフィー・・・」
これは喜ぶ所なのか、何なのか。
「陛下から、ソフィア様は城で預かるから、安全を確認してから迎えに来るように、とのことです。王国騎士団は王城と街へ警邏の展開を始めました」
「だったら、うちも手分けしよう。——父上を待った方がいいかな」
距離からしても、三十分以内には帰ってきそうだ。
迷っている間に、報告に来たのはルーバンだった。報告の手紙が来たらしい。走り書きを読みながら渡してくる。
「水門に、怪しげな術の痕跡あり、公爵様はそのまま調査に当たられるそうです。奥様が帰還し、念のため救護所を設置する予定です」
「え、母上一人で帰って来るの?」
「いえ、公爵様が付き添われて、そのまままた戻ると」
「あ、だよね」
よく読めばそう書いてあった。
ならばそちらは問題ないだろう。指示がないという事は、こちらはエイダンに任せるという事だ。
水門の痕跡がライアス自ら調査したほうがいい程に何か気にかかることがあったのだろうか。
「この水門の場所って」
「南東です」
ルーバンが即答した。
王都の、南東——ブラントネル王国からは遠いが・・・。
「——じゃあ、こっちもペンシルニア騎士団を街へ展開しよう」
編成を考えようとしたところに、また伝令が来た。
「カーランド邸からの報告です。街の方で騒ぎがあるため、そちらの状況を確認してから移動を開始する。それまでは門を閉ざし公女様をお守りする、と」
街で騒ぎ。水門の怪しげな痕跡というのも引っかかる。
そもそも結界があり厳重に守られている王城に何かが出現していて、街の方に何もないとは思えなかった。
カーランド邸の守りは鉄壁だから、いっそそのまま留まっていた方がいいだろう。
「わかった。じゃあ、編成を相談しよう」
ペンシルニアの騎士団のうち、ダンカーもゲオルグも今はいない。少し手薄だった。
それでも、屋敷に残す者と街に派遣する者を分けなくては。
黒い靄、というのとアイラのこの予感がひっかかる。
「アイラ、僕と一緒に街に——」
「行く」
アイラは即答した。
一度瘴気や魔物を見たことのあるエイダンが、アイラと確認に行くのが早いだろう。アイラとも一緒にいた方が安心だ。
「オレンシア!編成は任せていい?」
「はい」
「上級騎士が少ないから、オレンシアにペンシルニア指揮権を預ける。準備を整えておいて。父上が帰ってきたらその指示に従って。もし帰ってこなくても、僕も一時間以内には戻るから」
「はっ」
指示しながら、エイダンは急いで装備を整えた。
屋敷はオレンシアに任せ、エイダンは身軽に街へ向かった。とりあえず一目だけでも確かめにいきたかった。
そうして目にした例の黒い靄は、見覚えがあると言えばあるし、違うと言えば、違うのだろうか。
確かに発生していた。アイラの示す方角に馬を走らせれば、黒く淀んだものがふらふらと、不自然に空中に漂っていた。しかしそれ自体は残り滓のような、何とも頼りない存在だった。
「瘴気には違いない、かな」
馬上のまま一瞬で浄化して、アイラはそう言った。
「人を病にし、魔物を呼ぶ。この靄がもっと集まって純度を増せば」
アルロが以前発生させた瘴気は、もっと重苦しくて、恐ろしく純度の高い代物だった。それに比べれば、これは煙のようだった。
「エイダン、あっち」
アイラには瘴気の濃い場所が分かるようだった。
アルロの存在が頭をよぎるが、エイダンはそれを打ち消した。こんな軟弱な瘴気をアルロが出すものか。アルロはもっと、この世の闇をすべて集めたような底知れぬ恐ろしさと重苦しさのある、闇の根源を作り出す。こんな中途半端な瘴気、アルロとはきっと無関係だ。
瘴気が濃い方へ向かうと、地中から何かが盛り上がって出てくるようだった。
「なんだ、あれ・・・」
異形の、なにかだった。
魔物なのだろうか。うごめいている動きは蛇やミミズのようだが、顔は耳のない犬のようだった。それがくねくねと地中を這い、顔の先端を持ち上げて牙を剥き、今にも襲い掛かろうとしている。
エイダンは馬から飛び降り、その勢いのまま一太刀で首を切り落とした。少し重いが、ワイバーンの時ほどではない。やや抵抗を感じたが光の魔力を纏えば簡単に切れた。
「闇の・・・何かかな」
光が通じるということはそうなのだろうが、あまりに手応えがない。瘴気から生じた魔物がちょうどこんな感じだった。それにしても、弱い。
そこまでの脅威ではないように思う。
「——一度、屋敷に戻ろう」
エイダンは再び馬に乗った。




