16. ライアスの秘密
ライアスはその後すぐに帰宅してきた。
早退したらしい。
まだエイダンは昼寝中だ。私は昼下がりの読書をしていた。
「シンシア。エスコートは一度きりです」
入ってくるなり、ライアスは詰め寄るようにして言った。
着替えもしていない。
私は本を置いた。少しため息がでる。
「もちろん、一度なら良いという話ではないのは分かっていますが」
「私には確かめるすべはありませんし。——考えてみたのですが。結婚当初、私のあなたへの態度は散々なものでしたし。付き合いでパーティーへ行かねばならぬこともあるでしょうし」
つらつらと、何への言い訳だろうかということを並べていく。
ライアスとパーティーに参加した記憶は一度もない。それでは夫婦として、ライアスの顔は立たなかっただろう。
「私が悪いところもありますから。——これからは良き夫、良き父となると言ってくれたのですし」
昔の話なんだから、私が怒ってもね。
どちらかというと、レイラのあの非常識な態度の方が腹が立つし。
「シンシア」
「この話は終わりでいいですか」
「シンシア」
立ち去ろうとしたところを、ライアスがぐっと肩を掴んだ。大きな手だ。さほど強く掴まれたわけではないのに、動けなくなる。
「——このように悲しい顔をさせたくないのに」
悲しい顔?していたのだろうか。
でも、冷静になって考えたら、どちらが悪いということもない気がして。
「エスコートを行ったのは、本当に私の失敗です。愚かでした。その後、奴らが愛人にと勧めてきたのも事実です」
「は・・・・」
「きっぱりと断りました!」
ファンドラグ王国は一夫一妻制だ。——だというのに愛人を勧めるということは、あわよくば取って代わろうということだろうか。妻の妊娠中に・・・?
「どうしたら信じてもらえるでしょうか。シンシア・・・」
ライアスの言葉を疑っているわけではない。そしてライアスに対して怒っているわけではない。——が。苛立ちを表に出したくなくて、何も言えなかった。
ライアスはそれをどう受け止めたのか、重い口調で呟くように言った。
「私の秘密を打ち明けたら、信じてくださいますか」
「秘密・・・?」
ごくり、とライアスが喉を鳴らした。
深い色の目と合う。真剣な目だ。
「私は、男として機能しません」
「・・・・・・・・・は?」
急に何の話かと思えば、ライアスは真面目な顔のまま言い足した。
「勃たないのです」
絶句した。
——え?どういうこと?
「けれど、ライアス、貴方初夜で」
思い出してみる。シンシアが成人した日に初夜の儀は行われた。
あの時の記憶を探れば・・・しっかり、ちゃんと機能していたが?
シンシアは初めて見る男性のそれに恐怖を感じ、思いつく限りの罵詈雑言を投げつけたのだ。
暴れることはしなかった。嫁いだ身として、責務だとわかっていたし、誰も助けてくれないと思っていたから。受け入れるしかないと。
王族の最後の矜持だったのかもしれない。
だから、この憎い男を精一杯貶めてやろうと、夫婦の営みの間中、シンシアは呪いの言葉を吐き続けた。
終わった後も、思い出しても頭の痛くなるようなことを吐いていた。
「その後のことです」
「なんてこと・・・」
私は顔を覆った。
「私のせいで」
「それは違います」
違わない。全く違わない。
「後悔しています。——家臣等のいいなりになって、後継を成さねばと、くだらない、しがらみに囚われていた。その結果貴方を深く傷つけてしまった。心も、身体も」
ライアスはシンシアを愛していたと言った。敬愛し、妻にできた喜びを感じた、と。
そんな愛しい妻から、初めての行為で罵られ、深く傷つけられ・・・。
「ライアス・・・」
「つらい思いをさせ、憎い相手に抱かれた上に、貴方はその子供を産むために命まで危うかった。罪深いのは私です。天罰だと思いました」
痛むような気がする眉間を押さえつつライアスを見れば、彼の方が傷ついたような顔をしていた。
「ごめんなさい、ライアス」
謝らなくてはいけないのは私の方だった。
「あんなことを言って、貴方を傷つけてしまって。——後悔しかないわ」
「違います。貴方に罪悪感を抱かせたくて言ったわけではないのです。ただ、身の潔白を示したかっただけです」
そんなこと、もうどうでもいい。
目の前でこれほど傷ついた顔をしているライアスを、どうすればいいのだろう。
シンシアの犯した過去の暴言を、どうしてもっと一つ一つ、思い返していなかったのだろうか。
謝ったからそれで終わりにして、ライアスの好意に胡坐をかいていたのではないか。
「貴方は過去の私を許して、愛してくれたのに。私は・・・」
「許すなど・・・シンシア。言いましたよね。返事を求めているわけではないと。貴方はただ、私からの愛を受け取って下さればいいのです。何かを返してもらおうなどとは思いません」
ライアスは笑った。
「あなたがここにいて、エイダンを育ててくれている。毎日私に笑いかけてくれる。それがどれほど幸せか」
「そんな当たり前のこと」
「この当たり前の家族の形が、どれほど貴重でありがたいかを私は知っています」
私だって知っている。
子供を抱き上げることができる。子供と出かけて、遊んで、笑ってやることができる。愛していると言って抱きしめてやれる。それがどれほど、価値のあることか。
「シンシア」
ライアスが絶望的な顔をした。それと、私の目から涙がこぼれるのが同時。
ライアスは明らかに狼狽し、肩から手を離して手をわたわたと動かした。
「ど、どうしたら・・・ああ、私が全て悪い。だからどうか、泣かないでください」
どうして、私のことばかり。
傷ついているからそんなことになっているのに。
「ライアス」
私は思い切ってライアスの胸に飛び込んだ。
がっしりとした体が、硬直したように固まった。
「ありがとう」
伝えなくては。貴方が責めを感じることなんて何一つないのだということを。
「私に、エイダンと出会わせてくれて。家族を作ってくれて、ありがとうございます」
「シンシア・・・」
「私は今幸せです。——あなたのおかげです」
ライアスは答えなかった。
しばらく沈黙が続いたので、不安になって見上げようとして——そのまま、ふわりと抱きしめられた。
「見ないでいただきたい」
少し声は掠れていたように思う。
「ひどい顔です」
ぎゅっと抱きしめられる。
こうして抱き合うのは初めてかもしれない。
広い胸に顔を埋め、力強い腕に抱かれると、こんなにも落ち着くなんて。
「ライアス」
「シンシア。この世の祝福を集めた方。私の唯一無二の人。どうしたらいいでしょう。貴方に何と言っていいのか、言葉が見つからない」
くす、と自然に笑いがこぼれる。十分だと思うけれど。
「ライアス。いつものように言ってください」
「シンシア」
見上げたライアスはいつもの熱っぽい目をじっと私に向けていた。
この目が私は、結構好きかもしれない。
「愛しています」
言われて、自然と笑みがこぼれた。
「ありがとう」
まだ、私も愛している、までは言えないけど。
精一杯の感謝と信頼を込めて、そう言った。