38.ヘルムトの誘い
「私もずっと考えてたんだよ。——アルロ君のために何ができるだろうって、ずっと考えてたんだ」
「消えてくれるのが一番だろ」
エイダンがすかさず口を挟んだが、ヘルムトはへこたれなかった。意思の強い灰色の瞳が、じっとアルロの方を見る。
「アルロ君。良かったら、君のお母さんを探す手伝いをさせてくれないか?今の私達なら、きっと会わせてあげることができる」
アルロはこの言葉に瞬間、息が止まるかと思った。
これまでずっと反応しないようにしていたのに。ぞわりと嫌な感覚が内側から沸き起こりそうになる。背中に冷たいものが触れる。
——お母さんに会うために・・・?
母親と聞いて思い出すのは、アルロを抱きしめた温かい感触。虚ろな瞳。大好きと言った感情のない声。あの人は自分を捨てたんだ。そして誰も助けてくれなかった。誰も——。
ぎゅ、と握られた手の感触にアルロは我に返った。
——いけない。動揺するな。こんなことで、こんな見知らぬ男に惑わされるような事じゃない。
アルロはもう、愛情というものがどんな形をしていて、どんな色をしているかを知っている。
手を握ってくれたのはマリーヴェルだった。力が出るようで、アルロはその手を無意識に握り返した。小さくて細いけれど、柔らかくて温かな手。
アルロはゆっくりと目を閉じてから気持ちを落ち着けて、また開けた。
「僕の父も昔、母の事を条件にして、僕に力を使わせました」
ひたとヘルムトを見据えた。
「そうして犯した罪を、僕は一生忘れない」
怒りも悲しみもない、静かな声だった。それだけに大人びていて、黒く澄んだ瞳にヘルムトは圧倒された。
辛酸を嘗めつくした老将が、ちょうどこんな目をしていたじゃないか。
闇の魔力はシャーン国では禁忌、抑圧の対象とされている。子供の頃からそれは恐ろしくおぞましいものとして刷り込まれている。それを恐れず利用しようとするものがいるなどと、思いもよらなかった。
アルロの父とその仲間は手柄を独り占めするため、何の記録も残さずに事を起こしたのだろう。だから、王権にまで張り巡らした情報網にも、アルロの事は一度も引っかかったことがない。
ヘルムトはこれまで、自分が地獄に住んでいると思っていた。心のどこかで、ファンドラグで守られて暮らしているアルロを懐柔できると思っていたのだろうか。
想像していた以上に、この青年の幼少期は悲惨なものだったのかもしれない。
「貴方も父と同じように、母に会わせてやるから人を殺せと言うんですよね」
「待て、人殺しじゃない、圧政からの——」
「大義名分は解放、自由、革命——名前は色々でも、人殺しという手段に変わりはないでしょう」
ヘルムトは愕然とした。無意識にごくりと唾をのんだ。
部屋の温度が明らかに下がったような気がする。背中に冷たい汗が流れるのを感じて、自分はどうしてこんなに緊張しているのだろうと思う。
アルロのこの静かな物言いの奥にある、得体のしれない、底深い何かなのだろうか。
もしくは、もう一人、今にも斬りかかってきそうなエイダンが向こうからヘルムトを睨みつけているからかもしれない。
「君は・・・賢いな」
そう言うのがやっとだった。
ヘルムトはここでようやく自覚した。
なりふり構わず、あらゆるものを使って短期にこの革命を収束させたかった。させられると思っていた。
しかしそれは傲慢で、たくさんのこぼれ落ちたものに蓋をして見向きもしてこなかったから。このままではうまくいくはずがない。
正義を貫くために自分が正しいと思っていた事が崩れ落ちていくようだった。
ただ愕然とした。
「おじさん、本気で国を救いたいのね」
ソフィアが悲しそうに声をかけた。
「そう・・・そう、なんだよ」
「そのためにアルロを利用しようとしてることに気づいてない・・・残念な人なのね」
「うっ・・・」
ヘルムトは胸を押さえた。
「ペンシルニアはこんな小さなうちから・・・」
気まずい沈黙が流れる。
静かになったタイミングで、店主が料理を運んできて離れて行く。
ヘルムトは料理の方を向いた。手を組んで、じっと祈りを捧げている。
行こう、とエイダンが声をかけて、残りの三人が立ち上がる。
「すまなかった。また出直すよ」
四人の背中にヘルムトが声をかける。
「もう来るな。早く国に帰れ」
エイダンがきっぱりと断る。ヘルムトは苦笑した。
「これでも、半分は解放軍の仕事で来たんだ。シャーン国にとって、これから厳しい季節が来るからね・・・十分に備えておかないと」
商団主としての肩書を最大限使用して、あらゆる食料や物資をかき集めるつもりだ。食料もそうだが、シャーン国は北方の地域が多く、冬は薪がないと室内でも生きていけない。去年も恐ろしいほどに人が死んだのは冬だった。どうにか燃やせる木材を集める必要がある。
ファンドラグの隅々を駆け回って物をかき集め、シャーン国に運ぶ。国の出入りが統制されている今、比較的能力を使って自由に行き来できるのはヘルムトだけだった。
あまり時間がない。
「とにかく、私が間違っていたよ。本当に申し訳なかった。——きっと私は、恥知らずに君たちを傷つけたかもしれない」
エイダンはこの真摯な謝罪を受け取らなかった。黙って妹たちを促し、店を出て行った。
残されたのは多めに置かれた銀貨と、店主の冷たいヘルムトへの視線だけだった。
店を出てしばらく歩いて、もうすぐ屋敷に着くという頃になって、エイダンが立ち止まって振り返った。
「——あのさ、いつまで繋いでるの」
「え?」
エイダンの視線は、強く握られたマリーヴェルとアルロの手に注がれている。
「あ!すみません、姫様」
アルロが慌てて離す。マリーヴェルが不満そうにエイダンに向けて目を細めた。それから心配そうにアルロの顔を覗き込んだ。
「——アルロ、大丈夫?」
アルロはいつものようににこりと微笑んでくれた。変わらないように見えるけれど。
「ありがとうございます。姫様の手が温かくて、気持ちが落ち着きました。——僕もまだまだですね。あんなことに動揺して。もっと鍛えないと」
「あんなこと、じゃないわ」
「——もういっそ、追い出してしまおうか」
「でも、公爵様や陛下も、お考えがあっての事なのでは」
「まあ・・・」
確かに、ヘルムトを泳がせているのは、情勢を見守っているというところもある。
ヘルムトを追い返せば、シャーン国政府の肩を持つことになりかねない。
革命軍が物資を運ぶことで救える命が多くある。シャーン国に対し、どういった立ち位置にいるべきか、まだ決めかねているのだろう。
「でも、ここまでしつこいと、その方が問題だよ」
「不愉快な要素しかなかったわ」
エイダンと同じく、マリーヴェルも憤慨しているようだった。
確かに先ほどのエイダンは殺気まで出ていた。マリーヴェルとソフィアの辛辣な言葉も、全てアルロを守るためだったのだと思う。
「皆さん。ありがとうございます」
「お礼を言う事じゃないよ」
「そうよ」
そんなことを言いながら、四人は門をくぐった。
この件はすぐにライアスにも報告が行くだろう。が、念のためエイダンは屋敷に着いたらライアスへ報告へ向かう事にした。
ただ、この日以来ヘルムトが顔を見せる事はなかった。
注意して動向を探っていたが、ヘルムトの言っていた通り、四方八方駆け回り、手の者と共に安値で物資を仕入れることに忙しくしている様子だった。




