21.
「あ、もう夕方・・・」
部屋に戻ったアルロは、今までに感じたことのないような疲労感を感じた。
本を置いてそのまま椅子に座って、机に突っ伏した。
どうしてこんなに疲れているんだろう——そう思いながら、抜け殻のようになってしまった。
ルーバンのペースに巻き込まれたせいも、もちろんある。大いに。
それに加えて、まだ霧の中にある自分の将来を聞かれて、どれだけ探っても雲を掴むような手応えのなさと、不安と——それに向き合うのにはエネルギーがいる。
アルロは疲れて一瞬意識を飛ばしかけた。
だめだ。
アルロは今度こそ、マリーヴェルの部屋を訪れようと決めた。
早く行かないと、マリーヴェルは家族の誕生日会の準備を始める。忙しくなる。
よし、と思い、立ち上がって、アルロはマリーヴェルへのプレゼントに手を伸ばした。
——コンコン。
ノックの音がする。
「はい」
誰かと思ってドアを開けると、レナだった。
「アルロ、お休みにごめんなさいね。今ちょっと、手が足りなくて」
「どうしたんですか?」
「マリーヴェル様へのプレゼントが、また大量に届いたの。マリーヴェル様のお仕度を始めるまでに、プレゼントの仕分けをしておきたかったのに」
他の使用人に頼んでもいいが、本来これは専属侍女や侍従の仕事だ。
「もちろん、大丈夫です。手伝いますよ」
アルロは快諾して、レナと共にプレゼント置き場へ向かった。
プレゼントは大量にあったが、いつもより忙しそうなレナに、アルロは自分一人でやると言って引き受けた。
贈り物や手紙の仕分け作業は慣れている。
リストを作って、マリーヴェルが分かりやすいように順番に並べていく。去年レナと一緒にやった時には、親しい間柄、身分と縁続きの深さ等、考える要素が多くてなかなか進まなかった。
今では知らない名前はないから、サクサクとできる。
プレゼントを開ける時のマリーヴェルの喜ぶ顔を思い浮かべると、アルロも嬉しい気分で作業が進んだ。
全ての仕分け作業が終わった頃には、すっかり夕方になっていた。
五時。ディナーは六時からだから、もう少ししたら準備を始めるだろう。急げばきっと間に合う。
アルロは作業していた部屋を出て、荷物を持って小走りで外のごみ置き場へ向かった。ごみを置いてアルロの部屋まで走ろうと思ったら——。
「うわあ!」
誰かの悲鳴が聞こえた。
「あ、あぶねえ!」
「そっち押さえ——いや、逃げろ!」
ただ事ではない様子にアルロは声のする方へ向かった。厩だ。
馬車置き場の向こうに、巨大な厩の建物が並んでいる。馬車を挽く馬と、乗馬用の馬と、軍馬と。様々なペンシルニアの馬たちがここにつながれている。
遠目に、馬が数頭と、蜘蛛の子を散らすように逃げ回る人影が見えた。
「一体・・・」
「あー・・・暴れ馬だよ。アルロ、危ないから逃げといたほうがいいよ」
答えてくれたのは馬屋番ではなく、馬車担当の御者の一人だった。
見れば興奮した馬が柵を飛越し、首を振りながら激しく暴れまわっている。走っているというより、後ろ脚を跳ね上げたり、前足を浮かせて踏み荒らしたりと、本当に暴れている。
ペンシルニアの馬の調教施設である練馬場はもっと街の郊外にあり、屋敷には訓練を終えた選り抜きの馬達がいるはずだが。そこは、動物の事である。しかも気性の荒い軍馬もいる。
滅多にない事ではあるが、何かの拍子に起こり得ることだった。きっともうじき騎士等が呼ばれて、収拾されるだろう。
——でも、下手をすれば怪我人が出そうだ。
アルロは騎馬用の馬を借りた。マリーヴェルの誕生日にけが人が出たりして、少しの水を差すようなこともあってほしくなかった。
「お、おい、アルロ。鞍は?頭絡は?」
「大丈夫です」
アルロはさっと辺りを見渡した。
ここはペンシルニアの敷地奥だし、魔力を察知するような人もいない。
屋敷の敷地内においては、ライアスによってアルロの魔力使用は許可されている。自己の判断のもとに正しく見極めて使用するように、と魔力の訓練をある程度終えた時に言われた。それが難しい決断だと言うのも分かっている。だからこそ、その信頼に応えたくて極力この力は使わないようにしていた。
そのままひらりと馬の背に乗って、そっと馬に指示をする。鞍がないから脚でしっかりと馬体を挟んだ。
アルロの黒い瞳がきらりと光る。馬は暴れ馬の方へ向かった。
*****
夜の六時。
マリーヴェルの誕生日パーティーが始まった。
たくさんのごちそうに、みんなからのプレゼント。マリーヴェルは幸せいっぱいだった。
家族に祝われて、楽しいパーティーが終わったら、もう九時近く。いつもならとうに寝支度をしている時間だ。
今日は特別だから、早く寝なさいとも言われない。
新しいドレスは想像以上に可愛くて、きらきら光るエメラルド色に可愛いレースがついていた。すぐに脱ぐのがもったいなくて、もう少し着ていたい、と言って一度部屋に戻って来た。
結局、アルロは来なかった。
来なくて初めて、自分がすごく期待してしまっていたのに気づく。
「——来ないわよ」
自分に言い聞かせるように、一人になった部屋でポツリと呟く。
実はディナーはアルロも誘ったが、即答で断られた。自分なんかがとんでもない、と。
アルロだってペンシルニアの一員だ。一緒に食卓に着いてもおかしくない。今後に備えてマナー教師もついている。
でも、ライアスとシンシアもいる食卓でとなると、緊張して味のしないディナーなんて嫌だろうから、無理強いはできなかった。
アルロと自分の間には、明確な一線がある。身分の差以前にもっと大きな壁が。
アルロはマリーヴェルを、恋愛対象として全く見ていない。
「ばかね。来るはずないじゃない」
どうして、来てくれるんじゃないかなんて思ってしまったんだろう。
マリーヴェルは鏡台の前に座った。朝はわくわくしながら、ここでレナにおめでとうといわれて髪を梳いてもらった。夕方、少し大人びた髪形に結ってもらって、これをアルロに見せたいなと思って。
「来るはずない。アルロは、用事がないと、ここには・・・」
鏡の中の自分に言って、情けなくなって、はあ、と大きなため息をつく。
呼べば来る。何を置いてもすぐに来てくれる。
呼ばなければ——来ない。
アルロが好き。そう自覚して、ずっと一緒に居られて幸せだけど、同時に苦しい時もある。
今日みたいな日は、ちょっとつらい。
マリーヴェルは鏡の前に座ったまま、ぼうっと自分の顔を見つめた。
中身はともかく、この外側は間違いなく貴重なものだ。公爵令嬢で、光の能力者で、王位継承順位も四位。
その外側が邪魔をする。
鏡に映った自分の顔をそっとなぞった。
アルロがいたから、落ちこぼれの中身でも自信が持てた。それが自分だって胸を張って言える。
この中身に見合う外側なら、アルロはもう少し近づいてくれるのだろうか。
「ばかばかしい」
そこまで考えて、マリーヴェルは鏡に背を向けた。
どうあったってこの身分が変わることはない。
こんなことなら会いに行けばよかった。幼い、何も知らない主人の顔で、今日は私十歳になるのよって言えば、アルロはきっと心からお祝いしてくれたはずだ。
主人の顔でいれば、きっと、ずっと一緒にいられる。
——コンコン。
ノックの音がする。レナが着替えの手伝いに来たのだろうか。
「はあい」
マリーヴェルは立ち上がってドアに近づいた。開けて入って来ないのでマリーヴェルがドアに手を伸ばす。
「早かったのね。もう片付い——」
ドアを開けた目の前には、思いがけずアルロがいた。




