20.アルロと瘴気
「アルロ!」
呼んでみても、反応はない。
魔物を斬りながらだから、なかなかそっちを注視できなかった。
「エイダン様、魔物は俺らで。そっちに!」
ゲオルグがエイダンの目の前の魔物を斬りつける。ゲオルグもタンも余裕のありそうな動きなのを確認して、エイダンは駆けだした。
松明をもって近づけば、それは確かに人の形をかたどっていた。
「アルロ・・・?」
声は十分届くはずだ。けれどその人影は闇に包まれたまま、ゆらゆらと立ち上がっているだけで、うつむいたままだった。
意識のない人間が、無理矢理操り人形になって起こされているかのように。妙な立ち姿だった。
エイダンは更に近づいた。瘴気が濃すぎて、苦しい。
どうしたらいいんだろう。本当にこれはアルロなんだろうか。
その人型からは間違いなく、瘴気の根源が立ち昇っている。
エイダンはこぶしを握り締めた。
これが、他の魔物と同じように自分に向かってきたら、僕は「これ」を、斬らないといけないんだろうか。
つ、と背中に冷たいものが伝った。
「アルロ!」
必死で声を絞り出して、エイダンは叫んだ。
「返事しろよ、アルロ!頼むから!」
その人影が、こと切れたようにうなだれていた頭をゆっくりと持ち上げた。魔物と同じような赤い眼がエイダンに向けられる。
「う・・・う、ぅ・・・」
うめき声だった。アルロの声に似ている。苦しんでいるような声に、エイダンは足が竦んだ。
どうしよう。アルロが、苦しんでいる。
「ア、アルロ・・・」
返事はなかった。それはもう、アルロではないように思えた。
ゆらゆらと揺れる黒い人型に、身体が総毛だつ。本能が、危険を知らせていた。
遠くで爆音がとどろいた。戦闘が開始されている。それが余計に、どうすればいいのかわからないほどの恐ろしさを感じさせた。
「——殴ってエイダン!」
いつの間にかすぐそばまで来ていたアイラが叫んだ。マリーヴェルと手を繋いでいる。
そんなに近づいたら危ない、と言おうとしたけど、魔物の数は随分と減っていた。ゲオルグとタンが二人を守っている。
「な、殴る・・・!?」
あの黒い塊を?
エイダンはそれでも、アイラの言葉を信じるしかなかった。今までずっとそうしてきたように。
魔物を避けながら、アルロかもしれないそれに接近する。
斬れと言われるよりよっぽどましだ。きっとただ殴るんじゃだめだ。
エイダンは拳に光の魔力を込めた。松明と剣を左手に掴む。
休んでいてよかった。そうでないと、これほど力は注げなかったかもしれない。
光の魔力を込めると、明らかにアルロの動きは止まった。
エイダンはその人型に向かって、思いっきり拳を叩きつけた。
手ごたえは、あった。
黒い人影はその黒い靄を四散させながら数歩先まで無防備に飛んで行った。
「アルロ!!」
マリーヴェルが叫んだ。光の魔力によって闇が蹴散らされ、顕わになったのは確かにアルロの姿だった。
みんなが駆け寄る。同時にアイラが周囲を一気に浄化した。
アイラを中心に、さわやかな風が駆け抜ける。重苦しかった空気が嘘のように清浄な空気に包まれた。
「——はあ・・・すごいな」
「あ、だめ。湧き出てくる」
ゲオルグの感嘆の声は、アイラの固い声によって遮られた。
アルロの体からまた黒い靄のようなものが出てきている。
駆け出したのは、マリーヴェルが一番初めだった。
マリーヴェルはアルロに駆け寄って、横たわるその身体にしがみついた。
「アルロ!起きてよ、アルロ」
アルロは黒く濁った眼をしていた。何も映してはいないような空虚な瞳だった。
腫れ上がった頬以外は、血の通っていないようにいつも以上に白い顔をしている。
「取り込まれていく・・・」
アイラが愕然として呟く。
魔物は全ていなくなっている。数頭残っていたはずが、アイラの浄化の力によって何事もなかったかのように消え失せた。
いつもと違うのは横たわるアルロと、枯れたままになっている草木だけだ。
エイダンは剣を握り直した。
「どういうこと?」
「瘴気は生み出され続けてるけど・・・拡がるんじゃなくて、アルロ君の中にどんどん・・・」
確かに、アルロは相変わらず闇の魔力を使い続けているようなのに、瘴気の広がりはほとんどなかった。息苦しさを感じない。
それに対してアルロの目がどんどん闇に染まっていくようだった。
マリーヴェルはアルロを揺さぶった。ぞっとするほど白く、死んでいるかのようなアルロに、手が震え出す。
「アルロ!聞こえないの?目を覚ましてよ・・・アルロ」
「マリー、離れて——」
エイダンがマリーヴェルを引き離そうとするが、マリーヴェルは離れなかった。
焦るのに、どうしていいかわからない。
生気のないアルロの顔に、目の前の景色が滲んでいく。ここで手を離したらきっと、一生アルロには会えなくなる。直感的にそう思った。
——泣くな。泣くな、私。泣いてる場合じゃない。
マリーヴェルは必死でアルロの頬に手を伸ばした。
ありったけの魔力をそこに込める。恐ろしいほどに、ごっそりと魔力を吸い取られていくようだった。
眩暈を感じて倒れ込むようにアルロの体を掴んだ。
「ごめんなさいアルロ。私のせいで嘘をつかせて。隠しててごめんなさい。私は、いつまでたっても、馬鹿で、駄目で、どうしようもなくって・・・アルロ、ごめんなさい。傷つけてしまってごめんなさい」
エイダンに殴られた頬は、少しも治らなかった。たくさん魔力を込めたのに、結局、マリーヴェルではアルロを少しも癒せない。
「アルロ・・・やっぱり私、全然駄目だった。アルロ——」
アルロを見つけ出したら、大丈夫よって言って、戻っておいでって言うつもりだったのに。
自分のために側にいてもらうんじゃなくて、アルロのために戻ってきてもらいたいって思ったのに。
目の前でアルロがもう、消えてしまいそうだと思ったら。
やっぱりこうして縋ることしかできない。
「・・・助けてアルロ・・・」
マリーヴェルは消えそうに言った。アルロは、助けてと言ったらいつも・・・。
アルロの体がゆっくりと動いた。
危ない——エイダンはそう思ったが、アルロの手は、そっとマリーヴェルの肩に回された。
「——ひ、め・・・さま」
すこしくぐもったような、いつものアルロの声ではなかった。
マリーヴェルは弾かれたように顔を上げた。
「アルロ!」
目が合ったアルロの顔は、いつものアルロの顔だった。顔色はとんでもなく悪かったけれど、優しくマリーヴェルを見下ろす眼差しは、いつものアルロだった。
「アルロ。ごめんなさい、私のせいで・・・」
「ひめさま・・・っう」
アルロが苦悶の表情を浮かべ、瘴気がまたアルロの体から漏れだすようだった。
アイラが駆け寄って、アルロから生じた瘴気を浄化する。
「しっかりしろ、アルロ!」
エイダンが怒鳴った。
アイラだって、立て続けに浄化を続けたら、いつまでもつか。
「ちゃんと制御しろ、もう一発殴られたいのか!?」
「あ・・・僕」
アルロの声が戻った。アルロはしがみつくマリーヴェルごと、ゆっくりと体を起こした。
「アルロ、ごめんなさい。私が嘘をつかせたせいで」
マリーヴェルがボロボロと涙をこぼしている。アルロは慌ててその涙を拭った。
遠い意識の中で、マリーヴェルの助けてという声が聞こえた。細胞の一つ一つが、動かなければと思った。今はただ、その涙をどうにかして止めたかった。
「姫さま、すみません。な、泣かないでください」
「違うの、アルロは悪くないの。私が、アルロに嘘をつかせて、追い詰めて・・・」
アルロの体にマリーヴェルが更に抱きついた。
言いたい事、色々考えていたのに何も言えなくなってしまった。ただ顔を埋めて、嗚咽を漏らしながら、赤ん坊のように声を上げて泣くだけだった。
「どこにもいかないで、アルロ。アルロがいなくなったら、私、何にも・・・も、生きて行けない」
「でも、僕・・・」
「マリーを護るって誓ったんじゃなかったのか?」
エイダンの言葉に、アルロはそっちを見上げた。エイダンはじっとアルロを見下ろして、剣を鞘に納めた。
アルロはマリーヴェルから手を放していた。触れると汚してしまいそうで。
その時、城門の方で、地面を揺らすほどの大群の歓声が上がった。
その歓喜の声が遠く離れたここまでしっかりと聞こえてくるほどだった。
「瘴気が薄まって、ワイバーンが帰っていってる」
暗くて何も見えないが、アイラにはわかったのだろうか。遠くを見つめてそう話したその台詞に、全員が心底ほっとする。
エイダンはアルロの横にしゃがんだ。
「何があったか、覚えてる?」
「いえ・・・王都を出たところまでしか」
その後は、何かに飲みこまれるように、意識を失った。
これが闇の魔力のせいで、この騒動が自分のせいなのだとしたら。それこそアルロはここにいてはいけない人間だ。
そう思うのに、マリーヴェルのしがみついた胸の温かさが、どうしても離れ難くて。決心が揺らぐ。
今はもうあのどす黒いものは消えているけれど。自分の中から生み出された感覚は鮮明に残っていた。
「ねえ、アルロ。一緒に考えようよ。闇の魔力については、まだ色々わかってないけどさ。一人で暴走されるよりは、ペンシルニアの中で、一緒にどうするか考えて行こう」
エイダンがそう言って、アルロの手を取り、マリーヴェルの背中に回させた。
アルロは泣きじゃくるマリーヴェルの背を恐る恐る、ゆっくりと撫でた。
温かくて、触れ合ったそこから、じわじわと自分の体を取り戻していくような気がする。手も足も、指先までが感覚がなかったのに、徐々にそれも戻って来た。
「僕といると、不幸に——」
「そんなのは迷信だよ」
エイダンはきっぱりと言い放った。
「僕はアルロと一年過ごして、すごく楽しかった。ソフィアだって、屋敷の皆だってそうだよ。アルロの誕生日の時の皆の顔、覚えてるだろ?誰も不幸になんてなってない」
それは同情でもなく。
アルロを一人の人間として、その強さが尊敬できると思っていたから。エイダンも諦めたくなかった。
一年前、アルロの人生はようやくスタートした。属性のせいでそれを再び阻まれるなんてあんまりだ。
「また暴走したら、僕がまた殴って止めてあげるよ」
「これ以上・・・僕」
迷惑を掛けたくない。そう言うだろうアルロに、エイダンは更に続けた。
「一緒にいたいんだよ、僕も。だから——帰ろう」
一緒に。
そう言われて、アルロは答えられなかった。
胸が苦しくて仕方がなかった。嬉しいのでも、悲しいのでもない。ただ苦しくて。
アルロは両手でマリーヴェルを抱きしめた。
はい、と答えたかったが、涙が出てきて、何も言葉にならなかった。
殴られても、父親が死んでも。孤独だろうと絶望しようとも、もうかなり長い間、アルロは涙が出てこなかった。だから、とうの昔に無くしたと思っていた。
それが今は、後から後から溢れてきて、声も出ない。熱い涙がどうしても止まらなかった。




