8.
アルロは気合を入れるために水場で顔を洗った。
ズシリと重くなった袋は、背中に背負っている。
これは全てマリーヴェルがみんなに言ってくれたのだろうか。
手元のメモを見ると、次は作業部屋とある。
初めはただ驚き申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、贈り物をくれる人たちの顔を見る度に、次第にアルロは胸が締め付けられそうになるし、温かくなった。
誰もが、アルロに何かを渡す時には、嬉しそうにしていた。心からアルロの誕生日を祝ってくれていたようだった。
マリーヴェルに言われた事だろうに、おめでとうを言う事が嬉しそうに。ここの人たちはなんて温かいんだろう。
まるで、アルロが生まれて来たことを心の底から喜んでくれているように感じる。
生まれてきてよかったのだと言われているような。こんなのは、アルロにとって初めての事だった。
作業部屋に入ると、執事長が待っていた。
普段は執事長の部屋で仕事をしているのに、今日はここでアルロを待ってくれていたようだ。何かを書いている手を止めて、大荷物を抱えたアルロを見て嬉しそうに目を細めた。
「やあ、来たね。順調かい?」
「あ、その・・・はい」
「アルロ、誕生日おめでとう。——しかし、すごい荷物ですね」
「皆さん、本当にいい方達ばかりで・・・」
「それはそうなんですけど。そればかりではありませんよ。アルロ、君がいい子で、いつも一生懸命頑張っているから、こうして誕生日にみんなが祝いたいと思ってくれたんでしょう」
執事長はそう言いながら流れるような動作でアルロの前にティーカップを置いた。どうぞ、と言われて、アルロは椅子に腰かける。
自分が来る時間が分かっていたのだろうか。程よい温度のお茶が、渇いた喉を潤す。
「お嬢様に言われたから用意したんじゃないですよ。皆何かしたいなとは思っていたんです」
そう言って微笑む執事長の顔は、少しタンに似ていた。タンは異国の母親の血を濃く継いでいて異国風の顔立ちだが、目元の優しさは執事長ととても良く似ている。だからアルロは執事長にも、恐れ多いが、とても親しみを持っていた。
以前働いていた家では虐げられることもなかったが、大人たちと一緒に働いていて常に感じていたのは無関心だった。ここでは、みんなが関心を寄せてくれるのを感じる。
「——はい、私からはこれです」
そう言って執事長が差し出したのは、小ぶりな箱だった。
「アルロは最近とても勉強を頑張っているから。これは万年筆です」
「え・・・そんな、高価な・・・」
万年筆なんて、触ったこともない。マリーヴェルも鉛筆を使っていて、アルロも同じように鉛筆を使わせてもらっていた。もしくは、羽ペンとインク壺。
インクにいちいち浸さなくていい万年筆は贅沢品だ。
執事長は大らかにまた微笑んだ。
「私は誰ですか?」
「えっと・・・執事長です」
「そう。天下のペンシルニアの執事長を務めております。可愛がっている部下に万年筆の一つを送るくらいは、まったく負担ではないのです」
それでもまだためらうアルロに、執事長は優しい声で続けた。
「夢だったんですよ。いい年頃になった息子に万年筆を送るのが。——タンはそんなものより剣が欲しい、ばかりだったので」
いったい誰に似たのやら、と執事長は肩を竦めた。
アルロは時折見る、この親子のやり取りが好きだった。普段はものすごくあっさりしているのに、なぜか端々にお互いの思いやりを感じる。温かい。
執事長がタンの事を話すのがおかしくて、アルロは自然と笑みがこぼれた。それを見た執事長が、ますます目尻の皺を濃くして微笑む。
「——さあ、次の行き先はどちらですか?あまり私が引き止めたら、お嬢様の計画が狂ってしまいますからね。お行きなさい」
ティーカップが空になったのを見て、執事長がそう声をかけてくれた。
次のメモの先はエイダンの勉強部屋だった。
いつも勉強するマリーヴェルの勉強部屋の隣に当たる。
近くにあるが、滅多に訪れることのない場所だ。
ノックをするとすぐに扉は開かれた。タンがアルロを見下ろしてくる。
「あ、あの・・・姫様に、言われて・・・」
「待ってたよ。どうぞ」
エイダンが奥から言ってくれた。アルロは恐縮しつつ中に入った。
「誕生日おめでとう、アルロ。いつもマリーのお世話をありがとう」
エイダンがそう言って、タンが差し出したのは革のベルトだった。
タンが黙って差し出すから、アルロもどうしていいかわからず止まる。エイダンがその間に入ってベルトを受け取った。
「僕とタンからの、誕生日プレゼント。本当は剣を送りたかったんだけど、ダンカーが譲らなくてさ。——だから、僕からは帯剣するための、腰剣ベルト。——つけてみていい?」
「は・・・はい」
エイダンが慣れた手つきでアルロの腰に革ベルトを取り付けてくれる。
「うん、サイズぴったりだ」
キュ、と締めてくれる。腰にしっかりとフィットして、それほど違和感はなかった。まだ革が新しいから固く濃い茶色をしている。エイダンとタンを見れば、もうすっかり馴染んで柔らかくなった腰のベルトを着けていた。
「帯剣しなくても、普段からつけとくと馴染んでくるからいいよ」
「これ、革の手入れセット」
更にアルロの手に包みを乗せられる。
どれも高価なものだ。アルロは何と言っていいかわからなかった。
「——気にせず受け取って。それと同じものをタンにも贈ったことがあるし、ここの工房のが一番使いやすいんだよ。おすすめなんだ。店の案内カード入ってるから」
タンを見れば頷いていた。
二人が付けているのも同じ工房の物なのだろう、よく似た造りになっている。
タンはアルロといる時はよく話してくれるが、エイダンがいると途端に寡黙になる。
「こんな高価なもの・・・僕・・・」
「これでマリーを守ると思えば、必要なものだよ」
自分なんかではとても、と言いたかったが、こんなプレゼントをもらった時にそれを言うのは相応しくないと思った。
アルロは深く頭を下げた。
「精進します。ありがとうございます」
「うん。よく似合ってるよ」
エイダンが満足そうにそう言ってくれたから。
この恩は、身をもって示さないとと背筋が伸びる思いのアルロだった。
メモはついに最後に到達した。
ライアスの執務室である。
これはかなり緊張する。
今までほとんど訪れたことのない場所である。
ノックをしようとしたら、その前にガチャっと扉が開いた。
「あっ、やっぱり、アルロー!」
ソフィアだった。
今日は白いドレスにレースがたくさん縫い付けられたふわふわのドレスを着て、妖精のような可愛らしさだ。
「お嬢様。おはようございます」
「うん。おたんじょび、おめでとう!」
ソフィアはそう言って両手で紙を差し出してくる。アルロはその場に膝をついた。
ソフィアは度々絵をくれる。今日はいつもより力作のようだった。色がついている。
「ありがとうございます。・・・ソフィア様ですか?」
四本足で耳がある何かをいつも書いているが、今日は人物のようだった。四人描かれている。
「兄様と姉様と、アルロね。これ、あのギリギリのきのこ。お馬さん、ボート」
「わかります。とてもお上手です」
一際大きなソフィアとアルロ、少し小さいエイダン、そしてその半分くらいのマリーヴェル。
アルロが褒めるとソフィアは本当に嬉しそうに笑った。
ソフィアはアルロを引っ張って執務室の中に誘った。
中にはライアスとシンシアが待ち構えていた。ソフィアが嬉しそうにライアスの足元にしがみつく。
アルロは三人の対面に立って頭を下げた。
「アルロ、誕生日おめでとう」
「おめでとう、アルロ。いつもマリーのことを助けてくれてありがとう」
三人並ぶと絵画を見ているような気になる。眩しくて直視できないような。
「——ありがとうございます」
アルロはまた頭を下げた。
感謝を伝えるのなら自分の方だ。行き場のないアルロを拾って、こうして仕事と居場所を与えてくれている。
「アルロはそうは思っていないでしょうけど、貴方がしてくれている仕事は、誰にでもできる仕事じゃないのよ」
「とんでもないです。僕の方が、こんなに良くしていただいて・・・仕事をいただいて」
「アルロ、君は真面目で勤勉で、努力を惜しまない。そんな君だから、私たちも力になりたいと思ったし、これからもできるだけ助けになりたいと思っている」
ライアスが言う一つ一つの言葉が、じわりとアルロの胸に染み込むようだった。
ライアスはその超人的な実力でずっとペンシルニアだけでなく王国全土を守ってきた人だ。そんな人に見つめられるだけで凄まじい威圧感がある。
言葉にも重みがあるし、威厳がそのままのしかかってくるような。そんなライアスに労われたら、どうしていいかわからなくなる。
返事が出来ずにいるアルロにシンシアがそっと語りかける。
「それでね、アルロ。貴方さえ良ければ・・・もっと学んでみないかと思って」
「え・・・・・」
「今でも、十分優秀だとマリーの教師たちから聞いているわ。でも、マリーに合わせて一緒に勉強をみてもらうのには、限界があるでしょう?アルロも14になったんだし、そろそろ本格的に将来を考えた勉強を始めてみてもいいと思うの」
「将来・・・」
「たとえば、もちろん騎士になってもいいし、うちは色々と事業をしているから興味のある分野があれば、それでもいいし。ルーバンのように副官を目指すのもいいわね」
それは途方もない話のように思えた。
ルーバンの事は知っている。少し変わっているが、それでも恐ろしく頭の回転の速い人だ。ライアスやシンシアとともにペンシルニアを牽引する実力者で、雲の上の人だ。
そんな人を目指すだなんて。
「僕は・・・そんな事は」
「急に言われて戸惑うわよね。まだうちに来て一年だもの。ただ、勉強はね、続けたらいいと思うの。嫌でなければ、今学んだことは、何をするにしてもきっと役に立つはずだから」
「私達からの誕生日の贈り物として、君に家庭教師を雇うつもりだ。受け取って欲しい」
アルロは驚いた。
教育というものがどれほどお金のかかるものか、アルロには想像もできない。
けれどただの平民の学校ともわけが違う。専門的な教育を、それも個人的に依頼するとなれば、間違いなくアルロが手にしたこともないほどの金額が必要であろうことは想像がついた。
「——いただけません」
アルロはきっぱりと断った。
「僕は、ただの、姫様付きの侍従です。下働きでもありがたいのに、侍従にしていただきました。僕は、身の程をわかっています。父の事も、どれほどお世話になったのかわかっています。これ以上ご恩を受けても、僕には返すあてがありません」
最後の方は声が小さくなっていった。この人たちは、そう言っても出て行けとは言わないと分かっている。分かっているけど口にするのは情けないし、だからこそ、これ以上甘えられない。
「いいえ、貴方は何も分かっていないわ」
シンシアの声が、俯いたアルロの上からはっきりと聞こえた。
がっしりと肩を掴まれ、アルロははっとしてシンシアを見た。
見慣れたマリーヴェルと同じ金の瞳が自分をじっと見つめていた。
「貴方は自分の価値を、何も分かっていないのね。あなたに施すばかりのつもりなんてないわ。ちゃんと返してもらっているし、将来どんな形であれ、貴方はこれからもちゃんと返してくれるわ」
シンシアが困ったようにライアスを見上げた。
「こう言うと重荷だったかしら」
ライアスもアルロをじっと見つめる。
「——アルロ。私も同意見だ。が、もちろん無理強いはしない」
ここまで言われて断ることなどできなかった。
恐縮しながらも、アルロは落ち着かない気分になった。
自分に何ができるのか。価値を示せるのか。
ただ助けられて何とか生きてきたけど、この先の、もっと遠い先の事を考えないといけない。
そう言われている気がした。