2.
小説の内容の細部までは、覚えていない。大まかなあらすじと結末くらいだ。
なにしろ序盤、エイダンの悲惨な幼少期が印象に残りすぎて。それがもう一つの未来かと思うと、考えただけでも胸が締め付けられる。
ペンシルニア公爵位を継ぐ前も継いだ後も、エイダンは多くの苦難に見舞われる。
家臣の裏切り、家門の抱える多額の負債、戦争——そして魔王の出現。
ライアスが領地に引きこもってしまっているから、奪えるものは奪おうと私腹を肥やす家臣らが跋扈したんだろう。
今はライアスが家臣を掌握して裏切りにも目を光らせているし、家門が抱える負債も今のところはない。
そもそも、ペンシルニアは巨大な穀倉地帯を有し、鉱山も、更には主要な街道がいくつも通るといった領地の立地も好条件が重なっている。公爵、公爵夫人共に健在であり、堅実な領地経営をしていたら、負債など抱えようがない。
更には現在、ルーバンが次々に流通を促進させ、ペンシルニアは経済が今までになく回っている。緻密な調査に基づく計算と幾重ものパターンの予測を得意とするルーバンは、経済を動かすのが性に合っているようだ。
ペンシルニアが健全であるという事は、それだけで近隣諸国への抑止力になる。
それでも、小説によるとこれから一年くらいで、シャーン国内に魔獣が大量発生する。それにより国が壊滅状態になり、流民がファンドラグに流れ込んでくる。魔王出現はシャーン国との国境付近だったが、それも何か関係があるのかもしれない。
ペンシルニアも流民の急増により、失業率や犯罪は増加し、感染症が蔓延した。
シンシアは数年前から流民対策に予算を割いて対策を講じている。
「奥様・・・!ウェリントの国情を受けここまで先手を打つなど。何という先見の明でしょうか。私よりももっと早くお気づきだったのですね」
と、ルーバンが勘違いして心酔した目を向けてきたが、面倒なので訂正していない。
国がどこであれ、同じ流民対策だ、大丈夫だろう。
穏やかに時間が流れ、戦争を知らない子供達が増えて。
ファンドラグ王国は戦争の傷から回復し、確かに繁栄に向かって進んでいる。
そう、今できることをやって行くしかない。
いつも起きる時間を過ぎても、まだ外は薄暗かった。今日は一日中雨らしい。
ドアの向こうには人の気配が何度も通り過ぎる。使用人らが忙しく働き始めているようだ。
「——そろそろ起きないと」
「ゆっくりするのでは?」
「それもいいかと思ったけれど」
いつも起きている時間を過ぎたから、段々と落ち着かなくなってくる。
みんな働いているのにこうして寝ているというのも。
「貴方は働き者すぎますね」
ライアスの声は少し残念そうにも聞こえる。
シンシアは一度、ライアスの体に腕を回して力一杯抱きしめてみた。びくともしない、硬い体だ。
「目の前の貴方を見て、幸せな気持ちになったから。もう大丈夫」
ふっとライアスが笑ったのが体の振動で感じた。
「それは良かったです。気持ちというのは伝染するものらしいので。私の幸せがうつったのでしょうか」
「そうかもしれませんね」
そんな軽口を言い合っているだけで、胸は満たされていく。
今の幸せが、やんわりと悲しい記憶を包み込んでくれるようだった。消えはしないけど、今を大切にしようと思える。
シンシアは思い切って体を起こした。ライアスが背中に掛け物を掛けてくれて、そのままベッドから降りてベルを鳴らした。
肌触りの良いシーツが温かくてなかなか抜け出しにくい。春になったとはいえ、まだ空気は少し冷たかった。
ノックをして使用人がやってくる——その開いた扉をすり抜けて、パタパタと走ってソフィアが入ってきた。
「お母さま、お父さま、おはよーございます!!」
「まあ、ソフィア」
普段はもう少し後の時間に起こされ、朝食の時にダリアに抱えられて入ってくるのに。珍しく早くから目が覚めたようだ。
「おはよう」
ライアスが軽々と片手でソフィアを抱き上げた。
「おはよう、ソフィア。目が覚めていたのね?」
ソフィアはライアスの腕の中からベッドまでダイブした。そのままシンシアに抱きつく。
ソフィアは5つになって、力もメキメキと強くなった。その力強さに押されてシンシアは再びベッドに仰向けに転んだ。
ペンシルニアの血筋をソフィアも濃く継いでいるのだろうか。筋肉質で骨太で、成長が早い。マリーヴェルは華奢だったから、エイダンの時に似ているなと思い出す。
当時は男の子というのはこんなにムチムチしているのか、と思ったが、ペンシルニアの血筋ならではだったらしい。
「ふふふ」
ソフィアは嬉しそうにそのまま、シンシアの胸に顔を寄せ、すりすりと感触を楽しんでいるような。
「まあ、ふふ・・・ここに赤ちゃんがいるわ」
「そうなの。わたし、赤ちゃんなの」
おや、とシンシアはソフィアを撫でながら思った。
ソフィアがこうして甘えてくるのは、実は少し珍しい。
いつも背伸びをしているような子だ。どうしたって家族の中で一番小さいから、兄と姉について行こうと、転んでもぶつかっても泣かずに走ってついていくような子だから。
三人の子供の中で、段違いに一番強い気がしている。体も、心も。
「ソフィー、何かあったの?」
「んー」
ソフィアは動きを止めた。
「母さま、いなくなるんでしょ?いつ?あした?」
「何の話かしら」
「おしろ、行っちゃうって」
何のことだろう、と考えて、すぐには思い浮かばなかった。
しばらくして、あ、と思い当たる。
「誰から聞いたの?」
「ダリア。母さまがいないのに、なれないと、だめって」
「いなくなるわけじゃないのよ。イエナ様のお手伝いに行くだけだから」
イエナが産気づいた時の話だ。
城にも治癒師もいるが、それでも前世の医療に比べると、この世界は数段遅れている。出産は母親にとって命懸けだ。何より、シンシアの母もオルティメティの出産で命を落としているから。
皆の不安をやわらげられたらと思って、出産時には手伝いに行こうと思っていた。
アレックスの時も、顔は合わせていないが側には控えていた。その時はソフィアもまだ小さかったから連れて行ったが今回はどうしようか考え中である。
といっても、出産の予定は初夏。まだまだ先である。
「ソフィーもいく」
「そうね。まだまだ先の話だから、近づいたらどうするか決めましょう」
出産が何日かかるかも、昼か夜かも予測できないから、予定が分かりづらい。ソフィアを伴うかどうかはもう少ししてから決めればいいだろう。
「まだ、いかない?」
「ええ。——さあ、母様は着替えるから、先に食堂へ行っていてちょうだい」
「はあい」
ソフィアはベッドから勢いをつけてジャンプして飛び降りる。あっと思ったが見事に着地して、次の瞬間には駆け出していた。
「——今の・・・」
シンシアが驚いて声を上げたが、ライアスは何とも思っていないようだった。さっさと支度を進めている。
「ライアス、見ませんでしたか?」
「はい?」
ライアスが不思議そうに手を止める。シンシアはその側まで行って、代わりに首元のボタンを止めた。
「今、ソフィアがベッドから飛び降りました」
「はい」
それが何か、とでも言うようだ。
シンシアとライアスのベッドは結構高い。ソフィアの腰よりずっと上の高さで、そこからさらに勢いをつけて飛び降りて。それだけならまあ、なくはないかもしれないが。
「あの高さから飛び降りて、全くバランスを崩さずに駆け出してましたよ」
片足で着地した瞬間に、次の足がもう出ていた。
「そうですね。身体の使い方をちゃんとわかっているようです」
「マリーの時は5歳で一人で飛び降りることもできなかったでしょう?」
通常の5歳児を思い浮かべてほしくて例に挙げる。
「マリーはおしとやかでしたね」
ライアスがそう言って懐かしむように目を細めた。
そうか、ペンシルニアでは普通なのだろうか。
そんなことを考えながら、続いてライアスの袖のボタンを留めていると、メイドがシンシアの着替えを持ってきてくれた。
いつもより少し遅い時間だ。さっさと支度に取り掛かることにした。




