9. ピクニック
前世にて。
子供が1歳半になった頃。
私の疲れはかなりピークに達していた。
ベビーカーに乗ってくれない長女は、常に抱っこだった。重くなっていく子どもの抱っこに、もともと丈夫ではなかった腰が限界を迎えた。
痛くて歩くのもままならない。
家がどんどん荒れていく。
片付けなきゃ。でも、愛ちゃんを抱っこしたままでは動けない。
ある日曜の昼。
お昼ご飯を作らないといけないと思い、のろのろと重い腰を上げた。
「あいててて・・・」
腰をさすりながら鍋を取り出した私に、夫が心配そうに声をかけた。
「大丈夫?出前でも頼もうか?」
そうできたらいいんだけどね。結局愛ちゃんのご飯は出前ではだめだから作るし、手間は一緒だ。
ゆう君の料理の腕は壊滅的で、大人はともかく幼児食は難しい。
「さっとそうめんでも茹でるよ」
「そう・・・?じゃあ、俺作業してるから。何か手伝うことあったら言ってね」
ゴン!
鍋をコンロに置く手に、つい力が入った。
今なんつった?
愛ちゃんのおもちゃが散乱し、洗濯物の山が積まれ、郵便物が雪崩を起こしているリビングで。
私を気遣う風に仕事のパソコンを開いた夫を、私は殺意の混ざった視線を向けたかもしれない。
そう。『手伝う』——それは夫婦で共に子育てをしたいと願う妻にとっては、禁句以外の何物でもないのだ。
また前世の夢を見た。
長女の時の夫がポンコツ過ぎて・・・ライアスと重なるからこんなに夢を見るのだろうか。
そんな夫も、3人目を産む頃には、どこに出しても恥ずかしくない、まごうことなき理想の父親に成長したんだけど。——いや、言いすぎか?
自分が病気をしてから感謝ばっかりだったから、多少美化されてるかもしれない。
懐かしいなあ。
こんな風に二度目の人生を送っているなんて。
エイダンは1歳半になった。
今日は少し出かける予定だ。
エイダンも1歳半になったし、いつまでも屋敷の庭だけでは寂しいだろう。
といっても、襲撃が怖いので、屋敷の横にある湖と丘だ。王都の、それも王城のすぐそばだというのに、何とそこはペンシルニア公爵家の私有地らしい。
もっと早く教えてくれていたら。すっかり体調も戻った私と暴れん坊エイダンの散歩コースにしていたのに。
騎士がぞろぞろついてくるのもあれなので、オレンシア卿だけを伴うことにした。というのも、お出かけにライアスが同行するからだ。
約半年、コツコツと食事時の会話で家族の溝を埋めて——これたかどうかはわからないが、なんとこのお散歩はライアスの発案だった。
それだけでも大進歩だろう。
「——あっ、だめ、もう追いつかない・・・オレンシア卿!」
「はっ!」
エイダンの駆け足に追いつけないなんて。なんて情けないんだろう。
けれど、エイダンが目を輝かせて向かった先は湖。危険すぎるのでオレンシア卿に回収を頼む。
乳母とメイアは後方から荷物を持ってついてきてもらっている。今日はあくまで、家族水入らず風だ。
湖に近づいたところで、程よい日陰にメイアが大きな敷物代わりの布を広げてくれる。少し歩いたのでそこに座ると、すぐに温かいお茶を入れてくれた。
手ぶらでピクニック。贅沢だ。
気持ちのいい風が吹いている。
「ライアス、貴方も座りませんか」
居場所が見つからないように辺りを見回しているライアスに声をかける。
「よろしいのですか」
「もちろん。3人座れるだけの大きさを持ってきてもらったのよ」
「失礼いたします」
ライアスが隅の方に座る。
ピクニックをしたことがないのだろうか。居心地が悪そうだ。
「エイダンが来たらデザートを出しましょう」
「貴方は・・・ご経験がおありなのですか」
「ピクニック?初めてです」
今世では。記憶にない。
前世では数えきれないほどした。お金がかからないレジャーだったから。
「そうですか。私もです」
「意外ですね。ピクニックは貴族間でのごく一般的な遊びかと思っていました」
「一般的には、そうかもしれません」
あまり家族仲は良くなかったのだろうか。
いまはライアスの父は亡くなり、母だけがひっそりと領地で暮らしているはずだ。
エイダンがオレンシア卿に抱えられてやってきた。
「——だ!や!」
ものすごく怒っている。
「エイダン、まだ水は冷たいですからね。見るだけね」
「ない!」
出た、ない。
近頃はなんでもない、だ。
着替えも身支度もご飯も。——とはいえ。
「ほら、美味しいものがありますよ」
そう言ってフルーツを少し見せれば急いで敷物の上に乗ってくる。
まだまだちょろいお年頃だ。
「あぉ、あーぉ!」
「はい、どうぞ」
ブルーベリーを渡すと満足そうに食べる。
「しー、し!」
エイダンが、なんとライアスにフルーツをねだっている。
感動だ。ライアスがこちらを見るので、うんうん、早くやって、と頷いて促した。
ライアスはフォークに洋梨を刺して、エイダンの口元へ持っていくが——エイダンに、ぷいっとそっぽをむかれる。
「ライアス、そのベリーです」
耳打ちしたが、エイダンは待てなかった。自分で掴んで食べてしまった。
「おいしいね」
「お、いし!」
エイダンが幸せそうだから、まあいいだろう。
エイダンはいくつか食べると、また冒険に出かけて行ってしまった。
それを見送る私達——いやいや。
「ライアス」
「は」
ふふふ、なにぼうっとしちゃってるのかしらこの人ったら。
できるだけにこやかに微笑みかける。
「エイダンと、遊んでやってくださいませ」
「遊ぶ・・・」
「ええ、遊んでやらねば。——貴方が難しいようでしたらわたくしが」
「いえ!行って参ります。貴方は、休んでいてください」
ライアスはエイダンの方へ向かってくれた。
このピクニックで、もう少し仲良くなってくれたらいいのだけど・・・。
数分後。
エイダンの大号泣の声が響き渡った。
茂みの向こう、死角だ。
メイアと顔を見合わせ、何事かと向かった。
数歩歩くとすぐ見える。
エイダンがぷりぷりのお尻突き出して、少し前のめりになって叫んでる。
「——っない!めっ!う、うああー!!」
可愛いお尻——っじゃないない。
「どうしました?」
声をかけると、ライアスは困った顔だ。
「わかりません・・・」
「怪我をしたわけではないのですよね」
「はい。私が、悪いのです・・」
「え?」
「エイダンの言葉が、全く——」
はあ、と息を吐く。
「難解で」
「ふっ・・・」
そんな、深刻に。
笑いを堪えてエイダンを抱き上げる。
「エイダン、どうしたの?」
「ふええー」
私の顔を見て、口をぷるぷるとふるわせ、への字にして泣き出した。
手を伸ばして泣いている。
「はいはい、大丈夫ですよー。よしよし、眠いのかしら?」
抱き上げて背中をとんとんと叩いてあやしながら、元の場所に戻る。
敷物の上でゆらゆらと抱いているとうとうとと眠ってしまった。
「手慣れていますね」
ライアスがエイダンの寝顔を覗いた。
「貴方も乳母も、皆エイダンの言葉が理解できるのに・・・なぜ私だけできないのでしょう」
ライアスは重いため息をついた。
「語学には自信があったのですが」
「まあ・・・ふふっ」
あれ?ジョークだと思って笑ってあげたのに。すごく真面目な顔をしている。
マジだった。
「一緒にいる時間が違いますもの。そんなに気を落とさないでくださいませ」
そして私は、幼児だけなら4人目の子育て中。娘達が大きくなっていくときは一緒にいてあげられなかったけど。
経験の質も量も違うといえよう。
「別に、言葉がわからなくてもいいのです。何かしようと思わなくても。そばにいてやるだけで」
それもしなかった1年前を思えば、大進歩なんだから。
私は結構満足している。
こんな穏やかな時間を過ごして。のどか・・・。
エイダンが温かくて眠気がうつるようだ。
あくびを噛み殺していると、ライアスが遠慮がちに言った。
「よろしければ、すこし休まれては」
「え」
ここで?ありなの?
それって・・・やだ、めちゃくちゃ気持ちいいじゃん。
貴族のお作法的になしだと思って我慢していたのに。
「よろしいのですか」
「はい」
即答されたから、じゃあ遠慮なく——と、横になろうとして。
ライアスがぐいっと引き寄せた。
うわ、胸板あつ・・・、腕太。
エイダンを抱いたまま持たれる形になったけど、すこぶる快適な座椅子みたいだ。
お言葉に甘えることにした。
ライアス、今日から貴方は「父親見習い」から「父親になりかけ優良背もたれ機能つき」よ。
夢うつつなのでそんな意味のわからないことを考えつつ、私はふう、と、目を閉じた。
風が気持ちいい。腕の中も背もたれも温かい。
「ああ、幸せ・・・」
健康で、子供を抱いて、思う存分愛してやれる。
これ以上の幸せってない。