その8 そこにあるべき道
続・2023年3月10日
こんなこと、すぐに気づくべきだったと信一郎は深く反省していた。
元々デリケートな春恵にとって、昨日から丸一日ひとりで悩むというのは、どれほどの苦痛だったろう。
14年前に春恵が言った言葉が、いつまでも頭に引っ掛かりながら幾年も過ごして来たというのに、ここぞというときに思い出さなかったなんて、自分は愚か者としか言えない。
───信ちゃん、わたしね、34歳で死んじゃうの。わかる?
このセリフのあと、当時の春恵は14年後の未来へ戻ったはず……
もしこれが本当に事実だとすると、彼女が戻ってきた14年後の世界が昨日ということになるわけだ。
とにもかくにも春恵との結婚後は今日まで、信一郎はその意味深なセリフの意味を探りながら、毎年二人で義務化してきた人間ドック。
万が一、春恵に難病が襲いかかり、命を奪われる運命ならば、いち早い早期発見でその運命を変えてやろうじゃないかと心に強く誓っていたのだ。
事実、それが功を奏し、まさに去年発病した春恵の病気は順調に回復に向かっているのである。
なのに油断とは恐ろしいもの。そこまで徹底していながら、春恵が元気になってゆくごとに、14年前の奇妙な出来事など、すっかり頭の片隅に追いやられていたなんて。
今、目の前にいる春恵は不安に打ちひしがれているに違いない。
彼女はもうすぐ“自分は死ぬもの”と思っているはずなのだから。
安心させてやらなければならない。今すぐに!
「春恵、大丈夫だよ。心配しなくていいから。春恵はまだまだ長生きできるんだよ。俺と一緒にね」
「えっ?」
何か心を読まれたような気がして驚いた春恵。目を丸くして信一郎を見つめる。
まさに自分は今、この瞬間にも血を吐いて死ぬんじゃないかと不安や恐怖が膨れ上がっている状態。
意味がわからず、目で訴えかける春恵。
「春恵は知らないだろうけど、君の病気は完治に向かっているんだ。治るんだよ。絶対死ぬことはない」
「……どういう…こと?」
言葉に詰まりながらも恐る恐る問いかけた春恵。
信一郎は思った。おそらく春恵は、これまでの14年間の記憶は全くないはず。
というか、記憶ではなく、そのすら経験がないのだ。
34歳で命を落とす春恵と、その運命を変えた春恵は、20歳から過ごした経験が全く違う。
今の春恵は、運命を変える前の春恵。では今までの春恵はどこに?
同じ人間でありながら、一方の記憶しか優先されないのはなぜなのか?
経験の違う二つの記憶を共有することはできないものなのか?
こんな非科学的な出来事に、信一郎に打つ手などあるはずもない。
どっちにしろ、今ここにいる春恵には14年前の過去からさかのぼって、今までの流れを説明をする必要がある。
彼女の不安と恐怖をぬぐい去ってやることなら信一郎にもできる。
───よし、できることから確実にしよう
ソファに二人並んで座っていた信一郎は、春恵の肩をそっと引き寄せながら話し始めた。
「春恵の運命は変わったんだよ。たぶん俺と結婚したときからだと思う」
「…ごめんね信ちゃん。私、信ちゃんと結婚した憶えが全然ないの」
「わかってるって。だからこれから君に教えるよ」
「…うん。。でも…私、今でも信じられないの」
「なにが?」
「私が生きてることもだけど、信ちゃんと結婚してることが」
「信じていいんだよ」
「でも…でもあの時別れたはずでしょ?それがどうして?それに信ちゃんには別な彼女が現れる予定だったんだよ。その人はどうなっちゃったの?」
信一郎は頭をかいた。
「焦るなよ春恵。全部説明するからさ」
「…ごめんなさい」
「確かに当時、春恵と一旦別れたあと、間もなくして俺の前に“それらしき彼女”が現れた」
「やっぱり……」
「部署の異動でやって来た子だった。思ったことを積極的に言う子でね。毎日顔を合わせて同じ仕事をするちに、告白されたんだよ」
「………告白。。」
(続く)