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その7 空白の14年間

 2023年3月10日


 仕事を終えた信一郎は、足早に帰途についた。

 昨日から様子が激変した春恵のことが心配でならなかったからだ。

 遠隔通勤のため、毎朝5時前には起床して出勤する信一郎。

 低血圧気味の春恵はそのままベッドの中。

 元々、結婚当初からそれで納得済みのことなので、特に気にしてはいない。

 それに何より、春恵の体調のこともある。


 何にしても、今日の春恵はどんな具合なのかと、そればかり信一郎の頭を悩ませていた。

 昨夜、共にバースデーケーキを食べたときも、ずっと困惑気味な表情だった春恵。

 痛みや苦しみを隠してるのとは訳が違う。精神的な何かが彼女を迷わせている。

 本来ならば、仕事を休んで春恵を専門医に連れて行くべきだったかもしれないが、どうしても外せない企画会議があったため、それができなかった。

 一体、春恵の体にどんな異変が起きているというのか?

 現在、病院から処方されている薬に原因があるのだろうか?

 そんなことを帰りの電車の中で考えながら、家路に着いたのである。


「ただいまぁ。春恵ーっ。気分はどうだー?」

 玄関に入るなり春恵の姿も確認せずに、靴を脱ぎながら声高に呼び掛ける。

「はーい」

 意外にも元気そうな春恵の返事に内心ホッとした信一郎。

 昨日の彼女の様子からすれば、今の返答など期待できないと覚悟していたからである。


「気分良さそうじゃないか。昨日に比べたら見違えるほどだ」

「うん。体調はすごくいいの。信ちゃんをずっと待ってたからよ」

 この春恵の言葉に信一郎は内心、おや?っと思った。“信一郎さん”と呼ばれるようになって、かれこれもう10年以上経つのにと。

 だが春恵に不安な表情を見せぬよう、務めて明るく言葉をはぐらかす。

「おいおい、ちゃん付けなんて新婚当時みたいで照れるじゃないか。ハハハ<(; ^ ー^) 」

「新婚……」

 一方、春恵の方はこのとき軽いショックをおぼえていた。

 今の自分には、信一郎との新婚時代の記憶などない。まして結婚してから現在までの過程なら尚更のこと。

 ずっと望んでいた相手と結婚できたというのに、その経緯を知らないとは皮肉なもの。 

 信一郎の仕事帰りを一心に待っていたのは、まさにそれらを詳しく聞き出すため。

 自分はどういう道筋を通って現在に至っているのか知りたくてたまらない。

 だがそれを知るためには、やはり自分が記憶喪失であるという理由づけでもしないと、教えてくれる口実にはならない。

 やむなく春恵は、その役を演じると心に決めて、夫に相対したのである。


「どうだい?頭痛の方は?」

 優しくいたわるような声で春恵に問いかける信一郎。

 リビングのソファに隣同士で腰かけているこの二人。

 春恵は真横に年を重ねた信一郎がいることに、多少の違和感はあったものの、決して彼が老けたという印象ではなく、良い年の取り方をしていると感じてはいた。

「頭は痛くないんだけど、私…憶えてることと、憶えてないことがあって…」

「そうか…やっぱりな。つまり記憶が断片的ってことなのか?」

「う、うん…」

「明日、調べてもらいに行こうか?」

 心配そうに春恵の顔を覗き込む信一郎。

「ちょっと待って。その前に確かめたいの。私がどこまで憶えてるかって」

「あー、なるほど。じゃあ春恵はどこまでの記憶があるんだい?」

「えっ!?」

「だから最後に憶えてることってどんなことなのかってことだよ」

「………」


 春恵の作戦ミスだった。まさかそうくるとは思っていなかったのである。

 都合のいい話かもしれないが、春恵の理想的な話の進め方としては、今日に至るまでの時の流れを彼に細かく語ってもらうことがベスト。

 なのに、逆質問から始まるのは春恵の意図するものと全然噛み合わない。

「春恵、どうなんだよ?昨日のことは憶えてる?」

「そのくらいは覚えてるよ。あのね、そうじゃなくて…」

「じゃあおとといは?」

「お、おととい?」

 話の主導権は信一郎にあった。

「そ。おととい」


 困り果てた春恵。一昨日というよりも、昨日以前の記憶といえば、14年前の世界を意味する。

「うる憶えでもいいから正直に。たとえ春恵の記憶がチグハグであったとしても笑ったりしない」

「でも…」

 おとといに何か重要なヒントがあると悟った信一郎。

「大丈夫。どんな記憶でもそれはきっと病気から来るものだし、きっと治るから」

「でも…」

 ためらう春恵。ウソを突き通すことに自信などない彼女。

 結論的に、一か八かで本当のことを言って、信じてもらうしかないと思った。

 やや伏し目がちな面持ちのまま、春恵は小声でしゃべり出す。

「えと……14年前の…信ちゃんと最後にケータイで話した日…」

「は?」

 訳がわからず目がテンになる信一郎。

「ほらー。信ちゃん、私が頭おかしいと思ってるでしょ?」

「違う違う。そうじゃないよ。俺も今さ、おとといのことを思い出してたもんだから、急に14年前って言われるとビックリしただけさ」

「ごめん。今言ったことは忘れて」


 そうは言われても、事の重大さに気付き始めた信一郎がこのまま見過ごすわけはない。

 自分の脳裏から消えつつあった過去の記憶を呼び覚ますのに、そう時間はかからなかった。

「なるほどね・・・そういうことか。少しずつ思い出して来たよ。春恵が今言ったこと」

「えっ?」

「あの日、会って別れるのが辛くて、ケータイで俺と話した日のことだろ」

「…うん。そうだけど…」

「そうか…あの時の記憶がおとといの記憶………ってことは…」


 信一郎の記憶が鮮明にまざまざと蘇ってきた。14年前に話した春恵との会話の内容を。

 パンッ!と大きく手を叩き、ひらめいたように声高になる彼。

「わかった!思い出した!今やっとわかったよ」

 信一郎の目が覚めるような驚きの表情とは裏腹に、拭いきれない不安を抱えたままの表情の春恵であった。


「春恵、君の意識は14年前の世界から、昨日戻って来たんだね?」

「!!!」

「君は14年前の俺に会いに行った。そのときは俺にとって、君は14年先の未来人だった。でも今は俺がその時代に追いついたってことになるんだ。そして君が過去の俺と別れてここに戻ってきたんだ。な?そうだろ?」


 ───すごい…こんな夢物語みたいな話を信一郎は理論的にちゃんと解釈してる。。


 春恵は信一郎の分析力の明晰さに驚くばかりだった。

 しかしながら、現在における疑問や矛盾はまだ解決したわけではない。

 死にかけていたはずの…いや、死ぬはずの自分の運命とは一体どう左右されているのか、新たな不安が押し寄せるばかりの春恵だった。


                         (続く)

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