その6 この世の異世界
2023年3月9日
小鳥のさえずりが聴こえる。
それはかすかにではるあけれど、ベッドに横たわっている小林春恵の耳に確実に伝わっていた。
遠い意識レベルから徐々に覚醒してゆく自分がなんとなくわかる。
でも、この状態でいるのがとても心地良くて、すぐに目を開ける気にはなれない。
───今いる世界はどこなんだろうか?34歳の自分に戻ったのだろうか?
意識レベルがはっきりしてゆくに連れ、脳内で考えるようになった春恵。
───それにしてもおかしい。あんなに苦しかったのに、今は呼吸もすごく楽。信じられないほど気分も穏やか。なぜ?
春恵がこの疑問を解決させる理由として、思いつくのはただひとつ。
もう自分は肉体を持たない人間になっているのではないか?ということ。
つまりもうここは死の世界。未知の精神世界。
そう思い始めると、一気に押し寄せた不安と恐怖で、心地良さなど吹っ飛んでしまった春恵。
とにかくこれを確認しなければならない。怖いけど答えを見つけないと恐怖に負けてしまう。
実のところ、春恵にはそれを確かめる方法はわかっていた。
しかも至って単純なこと。単に目を開ければいいことなのである。
勇気を出して、今目の前に見えるものをしっかり確認するだけでいいことなのだ。
意識レベルはほぼ正常値に戻っている。あとは自分の意志のみ。
恐る恐るゆっくりと目を開ける春恵。
仰向けになっているのはわかっていたので、視界に天井が見えたことには違和感がなかった。
自分は酸素マスクをしていないことにも気付いた。
次に春恵がしたことは、左右を確認すること。
顔は動かさずに、目玉だけを動かしてみた。
───あれ…?
部屋の様子がおかしいことに気づいた春恵。
───ここは…病院じゃない
春恵は上半身だけを起こしてみた。
すんなり起きれた体の身軽さに、自分でも驚きながら。
辺りを見渡すと、明らかに病室ではないことがわかった。しかも自分が寝ていたのはダブルベッド。
なぜかドレッザーがあって、壁際には洋ダンスと和ダンスが。
薄い黄色のカーテンが敷かれている窓の隣りのデスクにはノートパソコンもある。
どうやら誰か個人の部屋にいるように思われる。
───寝てる間に、誰かに運ばれて来たんだろうか?
いろいろ疑問が湧いて出てくるばかり。
今着ているパジャマも、意識を失う前のものとは違っていた気がするし、何より驚いたのは、ドレッザーに映った自分自身。
「私……ロン毛だ。。」
思わず声に出してつぶやいた。
それもそのはず、春恵の記憶が確かならば、彼女は長期入院を覚悟して、その長い髪をバッサリ切ったはずなのだ。
「一体、どうなってるんだろう…?ひょっとして、ここは現実に似せた死後の世界?」
きつねにつままれたような感覚に陥る春恵。
だがそのとき、更なる衝撃が彼女を襲った。
それは突然部屋のドアから入って来た人物の姿を見たことによるものである。
「お、春恵起きてたのか。ちょうど良かった。リビングへ来いよ。ケーキ買って来たからさ」
春恵はその言葉よりも、その男の姿を見て、呆然となっていた。
「信ちゃん…」
そう、たったさっき、14年前の世界でサヨナラを告げた相手が、今まさに目の前にいるのだ。
しかも、明らかに年を重ねたと思われる信一郎の姿で。
「何驚いてんだよ。お前、まさか自分のバースデー忘れてたんじゃないだろうな?」
「…え?」
「おいおい、ボケるにはまだ早いぞ。来月は結婚記念日なんだぞ。こんなこと男の俺より、普通は女の方が憶えてるもんだろうが」
「ちょっ…え?け、結婚…?」
春恵を襲う衝撃の2連発。
「私たち…結婚してる…の?」
天性の勘の良さを持つ信一郎。
その言葉を聞いて、春恵の異常事態に表情が一変する。
「春恵、大丈夫か?気分はどうだ?」
「うん…気分はすごく楽なの。楽なんだけど…」
「だけど?」
「信ちゃんはわかるんだけど、ここがどこかわからない…」
「ここは俺と春恵の家だよ。お前、記憶喪失なのか?」
「わかんない。でも元いた世界と全然違う…」
ここで春恵は口をつぐんだ。
今日、目覚めるまで体験して来た14年前の世界を、今の信一郎に話しても、夢物語のように判断されるだけだと思ったからだ。
「ごめんね信ちゃん。私、ちょっと夢見てたみたい。先にリビング行ってて。私もすぐ行くから」
「……あ、あぁ。無理すんなよ。元気になったとはいえ、まだお前の体は完全には回復してないんだから」
「う、うん。。」
立ち去る信一郎を呆然と見送りながら、春恵は思った。
───私、助かったんだ。死んでなかったんだ…
このとき春恵はハッキリと気づいた。戻って来たこの世界が変化していることに。
急に伸びがしたくなって、両手を組んで天井へ思いっきり腕を伸ばした。
ふと上を見た視線の先に、何かキラッと光るものがあった。
不意に腕を下ろして自分の手の甲を眺める春恵。
その左手の薬指には、しっかりと結婚指輪がはめられていたのである。
(続く)