その2 最期の審判
2023年3月9日
徐々に薄れてゆく意識の中で、小林春恵の目から一しずくの涙がこぼれ落ちた。
もう体を自由に動かす気力もない。
最後に自分で何かをしたのはいつだろう?
そうだ。ラジオ番組に好きな曲のエピソードを書いて送ったくらいだ。
でも、もうそれも聴けない。
目も見えないし、人の声も聞こえない。
───これでもう私も終わり…きっと二度と目を覚まさすことはないのね…
ホスピスで緩和ケアをうけながら、残された時間を過ごしてきた春恵の34年の人生は、ついに終わりを告げようとしていた。
覚悟していたこととはいえ、思い残すことはないなんて、ウソにも言えるものではなかった。
酸素マスクをしている春恵の脳裏には、あらゆる後悔の念だけが走馬灯のように駆け巡っていた。
やりたいことを何もできずに終わった人生。
思った事を堂々と言えた試しがなかった人生。
好きな人に一度も気持ちを伝えられなかった人生。
───自分の人生って一体何だったんだろう?
結婚への憧れもあったし、理想的な夫婦生活の夢も持っていた。
でもこれら全部、何一つ実現することはなかった。
自分は何か悪いことでもしたのだろうか?
それとも気づかないうちに人を傷つけたり、陥れたりしたのだろうか?
春恵はこのことを今日の今日まで真剣に考えていた。
だが結局、答えはわからない。
ただ、なぜ私だけがこんな目に遭うのだろうという疑問符ばかり。
子供の頃から両親やおばあちゃんによく言われた。
“人に優しく、自分に厳しく、真面目に生きていれば、将来必ず自分に返って来るんだよ”
そんなのウソっぱちだった。
悪を極めた人間ばかりが贅の限り尽くし、巨万の富を得て長生きをしている。
そういう人間は、病気になっても一流の病院のビップルームみたいな所を貸し切り、最高の治療を受けて蘇るのだ。
聞いた陰の噂では、セレブしか手に入らないDCLFとかいう非合法の秘薬を投与し、目覚ましく回復した人もいるという。
春恵は思い知らされた。助かるのはいつもお金持ち。下流家庭の自分の人生なんて、何の価値もないことを悟った。自分なんて虫けらも同然なのだ。
人間、生きている以上、一度は何らかの形で日の目を見たい願望もある。
別に戦国武将のように天下を取りたいわけじゃないし、世界中に名を轟かせたいわけでもない。
ただ、自分の生きて来た証しを残したいと思うだけ。
このまま忘れ去られるだけの人生ならば、何のために産まれた来たのかわからない。
何かをやり遂げた人は、後の世に思い出してもらえることもある。
でも自分の場合はどうだろう?そんな可能性は0に等しい。
心残りがたくさんある中で、最後まで悔いに思うことがただひとつ。
それはやはり一度も恋が成就しなかったこと。
34年生きて来て、結婚どころか恋人すらできずに終わること。
春恵には若かりし頃、衝撃的な一目惚れにより、心に強く思った男性がいた。
彼の名は真原信一郎。
家がわりと近くで、いつも遠くから見ているだけの憧れの存在。
と言っても、ニアミスのチャンスは毎日のようにあった。
というのも、春恵がバイトへ行く時間と、彼の出勤時間が重なるためだ。
決して一緒の電車に乗るとか、一緒のバスに乗るわけではない。
春恵の行く方向と、信一郎の進む歩行が正反対なため、行き交う舗道をすれ違うほんの些細な瞬間に過ぎないのだ。
その一瞬のために、春恵は毎日胸をときめかし、言葉を交わすことはなくとも、彼と軽い会釈までは交わすまでに至っていた。
だが、それ以上は何も進めなかった。春恵の性格からしても、それ以上積極的に自分をアピールすることなど、到底無理なことだったのだ。
それが災いしたのか、間もなくして信一郎は、アパートを引っ越しすることになり、春恵の領域から彼の姿を目にすることはなくなってしまう。
一途な春恵はひどい自己嫌悪に陥った。自分の性格を呪った。
決してチャンスがなかったわけではないのにと、幾晩も眠れぬ夜を過ごした。
そんな後遺症から抜け出せないまま、新たな恋も見出せずにズルズルと34まで来てしまい、病魔に蝕まれ、生涯を終えようとしている。
───これじゃあまりにも無情じゃない?私、そんなに何か悪いことした?
ホスピスに来てから、何度も癇癪を起こしては部屋を散らかした。
でも今は……それすら叶わない。
薄れゆく意識の中で、最後に思い浮かぶのは、両親でも友達でもなかった。
───彼とデートしたかった……あの時に戻りたい…あの時にさえ戻れたら…
どれほど時間が経過したのかわからない。
春恵は意識を回復した。
と言っても、病院のベッドではなく、見覚えのある道端にひとり立っていたのである。
───え?なに?ここって…昔住んでた町内の…
そのとき、目の前を引っ越し屋のトラックが通過した。
はるか昔の記憶ではあるけれど、明らかにこの光景にも見覚えがあった。
───ハッ!(゜〇゜;)
とっさに呼び覚まされた記憶。
朦朧としていた春恵の意識レベルは完全に蘇っていた。
───これは…彼が引っ越しする日だわ!!
(続く)