その13 癒された心
2023年3月17日早朝
人には自分の胸にずっとしまい込んでいる大切な記憶がある。
それは決して人に公言することではなく、生涯忘れることのできない記憶。
安易に話せば記憶が汚れ、その尊さも失われてしまうと強く感じるのである。
人は利口でありながら、また自分に甘い愚か者でもある。
物理的に残せるものがあるのなら、人はおそらくその大切なものまでも忘れ去ってしまうだろう。
この日の出来事は、小林民子とその夫・雅夫にとって、永遠に心に刻み込まれる記憶になったに違いない。
「あなた、ちょっと来て」
仏間から聞こえる民子の声。
今はちょうど春恵のいる仏壇に、お供えのごはんと、そして花の水も取り替えたところだ。
身支度をしていた雅夫は何事かと仏間へ足を運んだ。チラッと腕時計を見る。
大丈夫。まだ出勤まで小一時間はある。
「どうした?何かあったのか?」
問い返す雅夫に、民子は手に持っていた便せんを見せる。
「手紙か?誰から?」
「まだ見てないの。このテーブルの上に置かれてあって…」
「封筒は?」
「それがないの。この三つ折りになった便せんだけ」
「ふうん…でもお前言ってたじゃないか。昨日、大河原家の執事が来たって」
「ええ」
「だったらその人じゃないのか?。何か事情があって、黙ってそっと置いて行ったのかもしれない」
「でも……昨日の夜にはこんなのなかったもの」
「見過ごしてわけじゃないのか?」
「絶対そんなことないわ」
「そうか……でも考えていても始まらないだろ。とりあえず、その手紙を読んでみないことには…」
「…ええ。だからあなたと一緒に読もうと思って。なんだか胸騒ぎがするの」
「怖いのか?」
「ううん。その逆。不思議だけどわくわくするような気分なの。おかしいでしょ?」
「それは胸騒ぎって言わないだろ。意味がわからんな。じゃあお前から読むか?」
「いえ、何枚もあるからあなたが1枚読んだら私に手渡して」
「わかった」
「じゃあそういうことで。はいこれ」
折りたたまれた便せんを手渡された雅夫。
テーブルにとなり合わせに座ったこの夫婦は体を寄せ合う。
雅夫から目を通し始めたものの、待ちきれぬ民子も手紙に顔を近づけ、ほぼ同時に読んでいた。
10分…20分…30分…
二人はその手紙から目を離さなかった。
更に時間が経過し、40分、45分と無言のままに時が過ぎた。
便せんの枚数は結構あるものの、普通に読めばとっくに読み終えていいはずの文面。
ではあるのだが……
そう。民子と雅夫は幾度も手紙を読み返しでいたのである。
ただ黙々と。読み終えてはまた最初から。あるいは途中に戻っては読み返す。
繰り返し繰り返し、一文一文を確かめるように、目を潤ませながら、鼻をすすりながら読んでいた。
だが、それは決して悲しみを意味するのもではなく、心から思える安堵感に他ならなかった。
「良かった…春恵が幸せで…」
そう言葉に出したのは雅夫。となりにいる民子に顔を向けると、民子もまた夫に目を合わせてうなづいた。
「ええ。私もそれが何より安心しました…」
「これは…もういいな?」
「はい」
雅夫は手に持った便せん数枚を、前と同じように三つ折りにたたんだ。
「これは大事にしまっておいて……んっ?」
「どうしたの?あなた」
「こっ…これは…」
「あっ!」
二人は仰天した。雅夫の手のひらに重なる便せんが、徐々に透明度を増してゆくのだ。
まるで雅夫の手のひらに溶け込んでゆくように、ゆっくりと、ゆっくりとその中で消えてゆき、最後は完全に消滅したのである。
何もなくなった手のひらをしばらく眺めていた二人。
やがて、次に口を開いたのは民子だった。
「できればとっておきたかったわ…」
それに対して、雅夫の意見は違っていた。
「俺達の心に残っていれば、もうそれでいいじゃないか。これからだって、決して忘れることなんてない」
雅夫の言葉を受けて、民子はすぐに思い直した。
「そうね・・・そうよね。これはきっと天国からの手紙なんだもの。ここにずっとあってはならないものかもしれない…」
「俺もそう思う」
「私達の胸の中にしまっておけば、それでいいのよね・・・」
「そういうこと。それでいじゃないか」
「ええ…」
二人は顔を上げて仏壇の春恵の遺影を見た。
お互い口には出さなかったが、この二人がこの時同時に思ったことがある。
写真の春恵の表情が、いつになく笑顔が増しているように見えたのである。
もちろん、それが本当かどうかは知るすべもない。
雅夫の出勤時間がギリギリになった。玄関前まで見送りする民子。
もう二人の表情に不安や悲しみなどなかった。
心晴れやかに、笑顔で夫を送り出す妻。笑顔で出勤する夫。
そんな仲睦まじく、微笑ましい爽やかな熟年夫婦がそこには存在していた。
(続く)
次回が最終話になります。