その12 切なる思いは信じること
「一体、信一郎さんに何があったんです?事故に巻き込まれたとか…」
恐る恐る聞いた民子。桐野の返事は重かったものの、その答えを知ることはできた。
「旦那様はあの晩、だいぶ荒れておいででした。ここだけの話、奥様の百合子様との仲は冷え切っておりまして、ケンカも絶えませんでしたが、養子である立場上、奥様には逆らえず、いつも最後に折れるのは旦那様の方でした」
かたずを呑んで聞き入る民子。
「あの日は春恵様のおられたホスピスから帰宅後、奥様に行先を攻められて大ゲンカになりました。でも決して旦那様は口を割ろうとはしませんでした」
「………」
「口のかたい旦那様に呆れた奥さまは別荘に行くと言って出て行かれました」
「桐野さんは奥様と一緒に行かなくてもいいのですか?」
「私は旦那様専属の執事です。元々大河原家にいたわけでもありませんし、奥様にも専属の付き人は5人おりますので」
「すみません。私、上流階級の暮らしのことはさっぱりわからなくて…」
「いいんですよ。わからなくて。私は旦那様に見出されて勤めさせていただいたので、今のお役目も今日で終わりなのです」
「えっ?」
「すみませんがお茶をもう1杯お願いできますか?」
「あ、気づきませんで…今すぐ」
民子が2杯目の熱いお茶を桐野に出すと、彼は目を閉じてゆっくりとその味をかみしめた。
「おいしいお茶ですね。旦那様が私に淹れてくれたお茶と同じだ」
「え?信一郎さんが?」
「はい。旦那様はいつも優しかった。上流階級の家庭が使用人に甘く接することなどまずありません。ましてお茶を淹れるなど普通ならあり得ないことです」
「はい…なんとなくわかります」
民子には、目の閉じた桐野のまつ毛が、しっとりと濡れているように見えた。
「旦那様はその日、いつになく一人でお酒をたしなみました。その量は泥酔状態になるほどと言って良いでしょう。奥様とのストレスや、春恵様の状態が気になるあまり、いてもたってもいられない気持ちが全て、お酒に向いてしまったんだと思われます」
「それで……どうなったんですか?」
「翌朝、旦那様が発見された場所が浴槽でした。穏やかに眠られたまま、息を引き取られていました」
「そんな…」
「発見したのは私です。もう蘇生は無理だと思いました。救急車は呼びましたが、おそらく旦那様を連れて行くことはないだろうと思いました」
「…そ、それで?」
「私にはある考えが頭をよぎりました。もうおわかりですか?」
「いえ…」
「救急隊が来る前に、DCLFを旦那様に嗅がせたのです。もう息はしていませんでしたが、奇跡を信じて“トキノイタズラ”を旦那様の口と鼻に押しつけました」
「………」
「おかしいと思われるでしょう?奇跡を信じるなら、なぜ旦那様が蘇生することを考えないのかと。でも思った通り、救急隊はその場で旦那様の臨終を確認したのです」
桐野は一気にお茶を飲み干した。
「私の願いはただひとつ。旦那様が夢の世界で、春恵様と出会えること。そして仲睦まじく過ごせること。その一点のみに尽きるのです」
民子は思った。この初老の男性の心を動かすほど、信一郎という人は信頼の厚い、素晴らしい人物だったのだと。
なのに運命とは皮肉なもの。春恵にしろ、信一郎にしろ“いい人”と言われる人間が先に召されるのはなぜか?
正直者がバカを見るというフレーズばかりが世の中を支配している。
「桐野さん、私の教育が間違っていたのでしょうか?」
「どういうことです?」
「私は母から教わった教訓を正しいと信じて、娘にも同じことを教えて来ました」
「はい。わかります」
「“人に優しく、自分に厳しく、真面目に生きていれば、将来必ず自分に返って来るんだよ”と」
「いいと思います。それのどこが間違っていると?」
「ですから、娘にしても信一郎さんにしても、真面目に生きたところで結局は自分に何も返って来ないうちに終わってしまったと思うと…」
言葉に詰まる民子。必死でもう泣くまいと懸命に堪えながら話を続ける。
「世の中には報われない人たちがたくさんいます。罪のない人が理不尽な事件に巻き込まれたり、大災害に遭ったりします。こんな世の中なのに、人生必ず報われるなんて教えは、ない方がいいんじゃないかって思うのはいけないことなんでしょうか?」
その言葉を受けてかどうか、桐野はおもむろに春恵の遺影を指さした。
「お母様。娘さんの写真をごらんなさい。あの満面の笑み。素晴らしいじゃないですか」
「ええ。1年前に撮ったものです。家族旅行に行ったときの…」
「きっと今の春恵様も精神世界の中で同じ表情をしていると思います」
「はい…そうだと信じたいですけど…」
「私はですね、人生は生まれ変わるもんだと思ってるんですよ。何度もね」
「何度も…ですか?」
「はい。人生を送る上で、当然ながら良いこともあり、悪いこともある。でもそれは一つの人生の中だけに詰め込まれるとは限らないかもしれません」
「それは…どういう意味ですか?」
「つまり、この一生が報われなかったとしたら、来世の一生では必ず挽回できる人生が待っているのではないかということです」
「本当にそうなんでしょうか?」
「もっと一生を幅広く考てもいいのではと私は考えます。一個体が一生ではなく、これから先、何百年か、あるいはそれ以上の年月をかけて何度も生まれ変わることが一生に値すると」
「すみませんが、私には今すぐそんな考えにはちょっと…」
「ごもっともです。これは別に押し付けでも何でもありません。ひとつの考え方に過ぎません。でも、今のように考えたら少しは心が晴れませんか?春恵様も私の旦那様も、いずれは報われた人生を、生きがいのある素晴らしい人生を送れる世の中に存在できると確信するのです」
桐野の言葉は信じがたいけれど、その言葉が事実で、春恵が本当に救われるのなら、心から信じたいと民子は思った。
帰りの玄関で、民子はふと気づいたもうひとつの不安を桐野に問いかけた。
「あの…ひとつ気になることがあるんですけど……薬のことです」
「トキのイタズラ?」
「はいあの薬のことです。あの作用が素晴らしいことはわかったつもりです。でも永遠に夢を見るってことは、自分たちが旅立ったことに気づかないってことになるんではないでしょうか?」
「なるほど…そう考えましたか…」
「だとしたら、俗に言われてるじゃないですか。自分が亡くなったことに気づかないと浮かばれないって。娘はこの世を彷徨うことにはならないのかと…」
その言葉を受けても桐野の表情は明るかった。
「その点は安心していいと思います。たぶん気づいてると思いますよ」
「娘が…春恵が自分の死を受け止めていると?」
「はい。春恵様も旦那様もわかってらっしゃると思います」
そう言われても腑に落ちない民子。それも確証がないだけに当然の話。
「お言葉ですけど、春恵はDCLFのことは知ってました。でもそれは難病を治す奇跡の薬と信じ込んでいたようなんです」
「噂は独り歩きしますからね…」
「そんな娘が素晴らしい理想的な夢の世界で、自分の命が尽きたことを理解しているのでしょうか?」
桐野は数秒間、じっと民子を見つめた。だがやはり彼は今までと変わりない表情で言った。
「大丈夫です。それにはちゃんとした証拠があります」
「えっ?本当ですか?教えて下さい。その証拠って一体…」
「あなたはお聞きになったはずです。辛い場面かもしれませんが思い出して下さい。娘さんの最期の瞬間です。彼女は最期に奇跡を起こしましたよね。かすかながらもしゃべったはずです。あなたはそれをお聞きになった」
「!!!」
確かに桐野の言うとおりだった。
春恵はあのとき、確かにわずかならがに口を動かした。民子は口元に耳を近づけ、しっかりとその言葉を聞いたのだ。
───ちょっとショックだけど、信ちゃんと一緒なら今とっても幸せだよ
幸せなのにショックとはどういうことなのか疑問に思ったのは事実だが、夢の中のうわごとだからと納得していた民子であった。
「あの“ショック”という言葉が、自分の死を理解している言葉だと?」
「そう思いませんか?その言葉には他の言葉も省略されているのです。ここまで言えばわかったのではないですか?」
「ええ…なんとなく」
「省略された言葉を言ってみて下さい。あなたには言えるはずです」
「はい。。自分がもうこの世の人間ではないのはちょっとショックだけど、信ちゃんと一緒なら今とっても幸せだよ…」
桐野は大きくうなづいた。
「では私はこれで。お邪魔いたしました。外まで見送らなくても結構ですので」
そう一礼すると、桐野は自分で玄関の扉を開けて、静かに小林家を後にしたのである。
ただの執事にも関わらず、とても貴重なことを教えてくれた桐野に、民子は心から敬意を抱いていた。
───ハッ(゜〇゜;)
と、そのとき思いがけないことに気づいた民子。
「なぜ?なぜ桐野さんは知ってるの?春恵が最期に言ったうわごとのことを!?」
民子はすぐさま玄関を飛び出した。だがすでに左右どちらの方角にも彼の姿はない。
おかしい。まだ10秒か20秒くらいしか経っていないのに…
不思議に思いつつも、腕を組みながら何気に見上げた青い空。
「え?ウソ!」
そこには縦に長い閃光が、上へ上へと昇ってゆくのが目に映ったのである。
(続く)