その11 ある訪問者
2023年3月16日
夕暮れ時。小林民子が買い物から帰宅してすぐのこと。
その小柄な男性は前触れもなく現れた。年の頃は初老くらいだろうか。
一見、華奢でひ弱そうな印象はあるが、背筋をピシッと伸ばした姿勢と、黒のスーツの着こなしが気品の良さを感じさせる。
これが英国人ならば、まさしく紳士という言葉がピッタリ当てはまるのだろう。
小林民子は、そんな第1印象を持ちながらも、その男性と初めて言葉を交わしていた。
「あの…どちら様でしょうか?何かの勧誘でしたらお断り…」
「いえ、違います。私は大河原信一郎様の使いで来た者でございます」
物腰の柔らかいしゃべり。落ち着きの払った態度。とても悪徳セールスマンには見えそうもない。
それと同時に、信一郎という名前を聞いたとたんに驚いて目を丸くする民子。
「信一郎さんの……それは大変失礼致しました。あの方には後ほどお礼に伺わなくてはと思っていましたのに…」
「それは結構です。なにぶん内密なことですので。今日は旦那様の名代として、執事の私がこちらに伺わせてもらいました。桐野と申します」
「桐野さん…ですね。遠いところわざわざ申し訳ございません」
「失礼ですが、春恵様のお母様でいらっしゃいますか?」
「はい。春恵は私の娘です。昨日、初七日の法要が終わりまして…」
「本来ならばご葬儀も旦那様が出席するべきところ、諸事情がありましてそれが叶わず、誠に申し訳ありません」
と、直立不動の状態から深々と頭を下げる桐野。
「とんでもありません。どうか頭を上げて下さい。信一郎さんには大きなお花もいただきましたし、お世話になりっぱなしで……あ、玄関で立ち話も何ですから、どうぞ中へあがって下さい」
「はい。ではご焼香をさせていただきます」
仏間へ通された桐野。焼香するその姿を、やや後ろ斜めから見ている民子。
桐野は手を合わせているときも目を閉じず、じっと春恵の遺影を見ていた。
焼香が終わると、民子に一礼して立ち上がろうとする桐野。
「あ、ちょっと待って下さい。お茶くらい飲んで行って下さい。すぐ用意しますから」
「そうですか。ではちょとだけお言葉に甘えて」
仏間のテーブル席まで民子に誘導されながら移動した桐野。
数分後、一人分のお茶を入れた民子がテーブルについた。
「奥さまはお茶は?」
「私はいいんです。それよりもあらためてお礼を言わせていただかないと。信一郎さんに直接言えないのは残念ですけど、公の人ですからこんなところに来られないのもわかりますし」
「ええ、まぁ…」
「いただいたお花には真原信一郎と書かれてましたけど、お立場上のことで、苗字を変えられているものだと思っております」
お茶を一口すすった桐野が、穏やかな笑顔で民子に言う。
「よくおわかりでいらっしゃる。でも旦那様は偽名を使われたのではありません。あれは旧姓なのです」
「旧姓?」
「はい。旦那様は養子なのです」
「そうだったんですか。全然知りませんでした」
桐野は再び春恵の遺影を眺めながらお茶を啜った。
「きれいな娘さんですね。旦那様が長い間、ずっと心を惹かれていたのもわかります」
「あの…」
と、民子が聞きづらそうな口調で言う。
「お支払の方は本当にしなくていいのでしょうか?」
「何をですか?」
「例の…あの薬の…」
「あぁ、DCLFのことですか」
「ええ。とても私達庶民にはすぐに払える金額ではありませんけど、この先一生懸命働いて、何年かかっても必ずお支払する気持ちではおります」
「その件につきましては、ご心配無用です。旦那様からもそう言われたでしょう?」
「はい。信一郎さんが春恵の入院先に直接いらしたときはそう言われましたけど…」
「ならばそれでいいのですよ。それに大きな声では言えませんが、あれは非合法な薬です。奥様も知っておられるでしょう?」
「はい。それは…」
「あれは旦那様のたっての願いです。奥様がお金のことを気になさると、旦那様のご好意が無になってしまいます」
「はぁ……でも…」
「旦那様はずっと後悔の念を私だけに言い続けて参りました。家の事情で春恵様と結婚できなかったことを。自分の意思とは裏腹に、大河原財閥の娘婿にならなければならなかったことを」
「…詳しい事情は知りませんけど、とにかくあの時はもう時間がありませんでした。春恵は苦しみながらもうわごとのように信一郎さんの名前を呼び続けていました。そんなとき、突然ご本人が現れたのです」
「はい…わかります」
「信一郎さんは、自分の名前を名乗っただけで、理由もそこそこにDC…なんとかという高額な薬を渡してくれました。ちょうど看護師さんがナースステーションにほんのわずかな時間だけ戻った時にです」
「偶然とはいえ、必然かもしれませんね」
「はい。今になって思えば本当に私もそう思うんです。私は信一郎さんにお願いしました。どうかその薬で春恵の苦しみを和らげられるのならと。陰の噂で聞く夢のような理想の世界が春恵の脳内に訪れるのならと。あの時はその一心でした」
「親御さんなら誰でもそう思うでしょう」
「最後まで生きる望みは捨てずに来ましたけど、苦しむ娘を見ているのがたまらなかったのです。主人の意見も同じでした。信一郎さんは春恵に触れてくれました。優しくそっと頭や頬をなででくれました。そして…そしてあの薬を…酸素マスクを少しズラせて春恵に嗅がせてくれたのです」
民子の目から一滴の涙がポロッと落ちた。
「すみません。こんなときに泣くなんて…」
「いえ…」
「あの子の人生があまりにも不憫で仕方なかったんです。あの子が何か悪いことでもしたっていうんでしょうか?なぜこの若さで人生を終えなければならないなのか。死に値する罪を犯したっていうんでしょうか?それが理不尽でなりません」
「お気持ち、お察しします」
「映画やテレビドラマではよく観ましたけど、まさかこのようなことが娘に起こるとは思ってもみませんでした…」
「……」
「本当にすみません。今更こんなこと言うなんて…」
「まだ1週間しか経っていないのですから仕方ありません。失礼ですが、娘さんの最期はきっと幸せだったと思います。いえ、今も天国で幸せを噛みしめていると思います」
「そうだったらいいんですけど…そう願いたいんですけど…私たちに確かめるすべはありませんよね。。」
お茶を飲みほした桐野が優しい笑顔で民子に微笑んだ。
「DCLFは夢操作薬です。通称“トキノイタズラ”と呼ばれています」
「時のいたずら?」
「はい。脳の視覚中枢にも直接影響を与えます。場合によっては時代をさかのぼる夢も見させます。臨死体験をした人の証言がいくつもあるんです。ほぼ100%の確率で、自分の一番叶えたかった思いを成就できる理想の夢を見ています。本人からしてみれば、夢は現実です。臨死体験をした人以外は、永遠の現実なんですよ」
「そんなすごいものなんですか…それがDC…」
「DCLF。Dreams、Come、Life、Foreverの略です。眠ってるようで眠っていないレム睡眠とは真逆な効果があると言っていいでしょう」
「ということは春恵は夢の中で、信一郎さんと結ばれているのでしょうか?」
「そう考えた方が自然だと思います。そう思いませんか?」
民子は春恵の最期の瞬間を思い出し、涙が頬をつたった。
でもこれはさっきのような悲しい涙ではない。
春恵が幸せに最期を迎えられたことが裏付けされたような気がして…
そのことによる確信からの嬉し涙だったのである。
「あの子の最期は本当に安らかでした。不思議なくらいに落ち着いて。微笑みを浮かべていて。そして静かに息を引き取りました」
「それを聞いて安心しました」
「お礼の言いようもありません。どうか…どうか信一郎さんによろしくお伝え下さい」
深々と桐野にお辞儀をする民子。桐野は信一郎の執事に過ぎないかもしれないが、物腰といい、説得力のある説明といい、小柄ながらになぜか圧倒的な存在感を醸し出していた。
その桐野がやや顔を曇らせた。何か言おうとしているが、何かためらっている風でもある。
「どうかなさいましたか?」
民子の問いかけに桐野はゆっくり口を開いた。
「実は……旦那様は亡くなられました」
「ええっ!!!」
「くしくも春恵様と同じ日、3月9日のことです」
「!!!!」
「旦那様が春恵様の元を訪ねられた日の夜のことでした」
「そんなことって…」
「私が名代で参りましたのも、そのためなのです」
「…………」
あまりの衝撃に言葉も出ない民子っであった。
(続く)