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15.「契約」


「あ、れ・・・?」



 暗くブラックアウトした視界が、徐々に色を取り戻してゆく。

 寝起きのように靄がかった視界は、白と赤のコントラストに彩られていて、ふわりと香ってくる柔らかな薔薇の香りと、後頭部に感じる暖かさが妙に心地よくて、そのまままた眠ってしまいそうになる。


 だけど、とても大事なことを忘れているような気がして―――。



「・・・そう、だ」



 思い出した。


 俺は、あのでっかい犬(ケルベロス)に吹っ飛ばされて―――



(死んだ、のか?)



 ・・・いや、恐らく死んでない。


 肩はざっくり切り裂かれて、とんでもない量の血を流していたし、最後のケルベロスの攻撃で、脇腹を抉られていたが、意識はあった。

 といっても、本当に生きているのが不思議なぐらいだったし、あのままだと1分もしないうちに死んでいた気がする。


 じゃあやっぱり俺は、死んだのか?


 そんな疑問は、俺の髪を優しく撫で梳かした手に遮られた。



「―――お、じょう?」



 ようやくピントの合った視界には、いつもどおりの殺風景な真っ白な空間と、垂れ下がる深紅のサイドテールが垂れ下がっており、その間からはお嬢の綺麗な瞳が俺の顔を覗き込んでいた。

 今の俺はお嬢に膝枕されて居たらしく、先程から感じていた薔薇の香りと後頭部の暖かさはこれが原因だったのかと、妙に納得したのも束の間。


 俺が一瞬、それが誰だか分からなかったのは、お嬢の表情がいつものようなむすっとしたいじけた顔ではなく、始めに見たようなあの憂いを帯びたような悲しげな顔に酷く既視感を感じたからだ。

 どうして、そんな悲しそうな顔をしているのか?



「ねぇ、レイ」



 そうやって俺が問いただす前に、お嬢は俺へ語りかけた。

 いつものように焔のように透き通った快活なソプラノの音色は、初めて(・・・)俺の名を口にした。今まで、俺のことを「アンタ」としか呼ばなかったお嬢が、俺のことを名前で呼んだ事に内心で驚いていた。

 いつも俺が彼女のことを「お譲」と呼ぶように、彼女もその意趣返しとして、頑なに俺のこと「アンタ」としか呼ばなかったお嬢が、どうして急に俺の名前を呼んだのか?


 そんな疑問を口に出す前に、お嬢は続けた。



「―――あなたはどうして戦うの?」



 お嬢の問いは―――今の俺には、少々難しすぎた。


 俺にはマレットちゃんのように戦う力があるわけでもない。

 本当になんの力もない、剣の一つも振るえないただの一般人だ。

 今だって、俺は何も出来ていない。


 結局、俺がやったことは逃げて、殴られて、死にかけただけ。

 戦いにすらなっていない。


 だから、俺はその問いに答えられなかった。



「傷ついて、死にかけて。どうして立ち上がれるの?」



 お嬢のその言葉は、遠回しにもう逃げてもいいと訴えているようだった。

 本当なら、俺だって逃げ出したいよ。

 痛いのなんてまっぴらだし、戦うのなんて怖くて仕方ない。

 でも―――



「―――俺、さ。ずっと、後悔してた。あの時どうして逃げんたんだろうって。他にできたことがあったんじゃないかって」



 仕方ない、そうやって諦めるのは簡単だ。


 だけど、自分が嫌いになるぐらい悩んでいたマレットちゃんは、逃げなかった。

 どうしようもなくても、どうにかしなきゃって努力して、立ち向かっていけるマレットちゃんを見て、正直、凄いと思った。

 怖くて仕方ないはずなのに、あんなに小さな体で傷だらけになりながら、戦って。


 すげぇ、格好いいって思った。

 でも俺は、逃げて、諦めて、放り出して、また勝手に諦めてた。



「だから、あの時。あのままマレットちゃんを置いて逃げたら死ぬほど後悔するって、思ったから」



 諦めたくなかった。

 逃げたくなかった。

 後悔したくなかった。


 要するに、変わりたかったんだ。

 どうしたいか、なんて全くわからないけど。

 それでも、動かずにはいられなかった。


 そうしたら少しでも変われるんじゃないかって、思ったから。



「でも結局、俺は女の子一人、守れなかった。・・・ホント、カッコ悪いよなぁ」


 無力で、悔しくて、情けない自分に腹が立つ。

 泣いたってどうにもならないのに、涙が出る。

 俺の懺悔を静かに聞いていたお嬢は、そっと俺の涙を掬って、慰めるように俺の頬へと手をやってゆっくりと、流れ落ちた涙の線を指でなぞっていた。

 少しこそばゆいが、指先から伝わる僅かな温度に、何故かすごく安心する。



「―――そうね。カッコ悪い」


「酷いなぁ・・・」


 慈しむような穏やかな表情で、さらりと辛辣なその言葉には、棘は一切無い。

 彼女なりの優しさが詰まった言葉に思わず、笑みが溢れる。

 


「ねぇ、レイ」



 再度お嬢は俺の名前を呼んだ時、先程までの愁いはもう消えて無くなっていて。

 代わりに、なにか覚悟を決めたみたいな真面目な顔で、俺にもう一度問うた。



「―――あなたは、どうしたい?」


「俺は」



 また、酷く漠然とした質問だが、その問の答えは、ずっと前から決まっている。



「俺は、皆と一緒に居たい。くだらないことで笑い合って、喧嘩して、どうしたら謝れるかって考える。手の届く範囲でいい。そんな平和な日常を守りたい」


 そんな俺の言葉に満足したみたいに。



「ねぇ、レイ」


 もう一度、優しい笑みを浮かべて、お嬢はゆっくりと俺へと顔を近づけた。



「―――あなたは私と一緒に居てくれる?」


「勿論」


 

 ゆっくりと近づいていたお嬢の唇が俺の頬へと触れた、その瞬間。


 ――――真っ白な空間は燃え盛る焔に包まれた。

 



 ・・・



「レイさん―――ッ!!!?」



 ケルベロスの攻撃によって、紙くずのように吹き飛ばされたレイを見た瞬間、今まで必至に紡いできた意志が、ぷつりと途切れたように、体の力が入らなくなてしまって、マレットはその場に剣を取りこぼし、へたり込んだ。



(私の、私のせいで、レイさんが・・・)



 自分の無力さを憎み、悔やみ。

 マレットは自分の今の状況も忘れて、ただただ泣いた。

 今はもうその涙を優しく拭ってくれる者は居らず。


 代わりにケルベロスの凶悪な爪がマレットへ振り下ろされていたが、マレットにはもうそれを躱す気力も、体力も残っていなかった。



(ごめん、レイさん)



 彼女が最後に思ったのは、やはり彼だった。

 迫りくる確実な死を前に、彼女は絶望するでもなく、ただ一人の人間のことを思ったのは、彼女も未だに気がついていないその感情故に、だったのかもしれない。

 その感情をマレットが理解する間もなく、迫るケルベロスの凶爪によって、マレットはその命を散らした。


 夥しい量の出血によって、瞳からは光が失われ、四肢はだらりと力なく垂れ下がり、ゆっくりと地面へ倒れ込んだ。



「・・・ぇ?」



 誰の目から見ても、間違いなく死亡した―――その瞬間。

 彼女の体をオレンジ色の炎が包み込んだ。

その炎は人を焼くことはなく、寧ろその炎からは春の陽気のようなポカポカとした暖かさを感じるような、そんな不思議な炎だった。

そして、もっと不思議なのは、そのオレンジ色の炎が傷に触れた瞬間、逆再生のように体の傷が治っていったのだ。


 そして、数秒前まで自分自身ですら死を確信した・・・いや、一度死んだといったほうがいいのかもしれないが・・・というのに、マレットには傷一つ付いていない状態に戻っていた(・・・・・)

 一瞬、夢でも見ていたのかと疑ったが、確かに切り裂かれた服は破れているし、地面に染み込んだ血が先程の出来事が現実であった事を裏付けていた。


 だが、そんなことよりも。


 倒れたマレットの視界に映った、緋色の翼を持つ騎士の存在のほうが異様だった。


 その騎士は、騎士というにはあまりにも軽装で、全身に身に纏った真っ赤な鎧はまるでスーツのようで。

 顔にも同じ様なフルフェイスのヘルメットのような兜をかぶっており、目の辺りあるバイザーのようなガラスがその人物を完全に隠していた。

 そして、1番特徴的なのは、肩甲骨辺りから噴出する焔がまるで翼のようになっており、動く度に緋色の燐光を撒き散らしていた。


その騎士は、マレットを庇うように前に立っていて。

 岩を発泡スチロールのように簡単に砕いてしまう威力を持つケルベロスの攻撃を片手で受け止めていた。


 受け止めたケルベロスの腕を掴んで、無造作に横薙ぎに腕を払うとケルベロスは先程のレイのように吹き飛んでいった。


 薄れゆく意識の中で、マレットが最後に見たのはケルベロスを圧倒したその騎士がマレットの頬を優しく撫でて―――



『よく頑張ったね』



 微笑む大好きな人(レイ)の顔だった。


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