I Talk To The Wind
・・・・
俺がシャワーを浴びているところに、あまねが「来須さん、一緒に入ろお」と云って現れた。一糸まとわず、懐中時計を首に掛けているだけ。裸を見るのは初めてだが、均整の取れた良い身体だと思った。彼女は浴槽に張った湯に大量の泡とダリアの花を浮かべて肩まで浸かると、片方の端に頭を乗せ、もう片方の端に両足の踵を乗せた。
「十一月十四日、二十二時九分だねえ。来須さん、知ってる? 聖会初代の殉教者として有名な聖女ペルペトゥアはね、服を脱ぎ捨てると男性的になったの」
浴室は声がよく反響する。俺はシャワーを止めて、シャンプーで頭を洗っている最中だ。
「衣装を脱ぐというのは、妄想に囚われた状態を捨てること、さらに云うなら地上的な現実の生存を捨てることを意味するんだ。『テオドトス抜粋』にも記されているよ――男性的なるものはいつもロゴスと直截的に合一する。これに対し女性的なるものは男性化の過程の後、天使たちと一緒に充満の中に入るって」
「何の話だよ。それよりお前の時計、ちゃんと防水なのか」
「私は愚かさを地上に残すため、愚かさを脱ぎ捨てた――これはソロモン雅歌の第一一雅歌だけど、どうだろうね来須さん? 私に陰茎が生えると思う?」
「気色の悪い話はやめろ」
シャワーで頭を洗い流す。泡が湯と一緒に排水口へと吸い込まれていく。
振り向くと、あまねは上気した顔で俺を見詰めていた。ボブカットにした藍色の髪が濡れて、光沢を帯びている。
「だけど大事なことだよ? 人は生きているうちに復活を遂げないと、死んだときに何も受け取ることができな――」
「捨て鉢になるな。お前が勝てるように、手を打っているところなんだから」
昼過ぎに渚から電話があったし、夕方にはテレビやネットでもニュースになった。水柱武彦が自宅で、何者かに大量の瞬間接着剤を飲まされ死亡したのだ。もちろん俺には赤鞠の一派が犯人だと分かっている。
赤鞠の話では狙いは洋平だったはずだが、計画が変わったのだろうか。それでも七五三は残り〈一・一・二・二〉の形であまねのターンだ。このままではあまねが敗北する。
逆転のためには再び家系図の組み換えが必要だ。俺は渚に電話して、生まれたばかりの水柱渦花を養子縁組によって潤子の娘にしてはどうかと持ち掛けている。里親でなく養子縁組であれば、家系図上で渦花は元の渚の位置となる。残りは〈二・二・二〉となり、あまねが二本消せば〈二・二〉という必勝パターンをつくれる。
問題は時間だ。両親のいない渦花を、親戚の潤子が引き取ること自体は不自然でない。しかし武彦まで亡くなったこの状況で、早急に養子縁組をさせることが難しい。何か理由をつけて、渚にも協力させないといけない。明日、会う約束を取り付け済みだが……。
「そんなの必要ないって云ってるじゃん」
あまねは微笑した。ずっとこの調子だ。「目的は遂げた」「来須さんは何もしなくていい」と繰り返すが、根拠を訊ねても返ってこない。自棄になっているとしか思えない。
「負けず嫌いだよね、来須さんって。赤鞠ちゃんよりもプライドが高いんじゃないかな」
何を云ってるんだか。俺はまたシャワーを止めて、石鹸で身体を洗うことにする。
「贅沢したくない、幸福になりたくないと云って、どうして大企業に勤めてるの?」
「就活で手を抜いた結果だ。知ってる名前を受けて、内定が出たから就職した」
「簡単に云うけどさ、ものすごく頑張ったんじゃないの?」
「やめろよ。そんなもの、何の価値にもならない。まったくな」
「だけど、そうせずにはいられないんでしょ?」
「別に。そもそも大したことじゃない」
「真面目なんだね」
「じゃあ真面目でいいよ。それで防水なのか、その時計は」
「肥大したプライドで雁字搦めになって、本当に可哀想な人」
戸を一枚隔てた脱衣所から、軽妙なメロディが聞こえてくる。俺の携帯の着信音だ。
「毎日毎日、遅くまで残業して。それで満たされることなんてないと分かってるのに。だから自分は幸福になりたいんじゃないって、先回りの云い訳をしているんだよね?」
「何なんだ。さっきから見当違いの分析をして……」
「あまねが救ってあげないと。来須さんはもう限界なんだよ」
「しつこいな」
着信音はまだ続いている。一度切れたのに、またすぐに鳴り始める。
俺はシャワーで全身をざっと流して扉を開けて手を伸ばして、寝間着の横に置いた携帯を取った。相手は渚だった。まるで半狂乱の声が耳に突き刺さる。
『来須くんっ、来須くんっ、来須くんっ!』
「どうした」
『お母さんも――お母さんも死んじゃった! お風呂でドライヤー使って――感電して死んだの! たぶん、お父さんが殺されたから――自分も後を追って! 自殺で!』
自殺? 本当に自殺か? 今日は赤鞠のターン。潤子まで死んだとなると……
……残りは〈一・一・一・二〉だ。
「赤鞠ちゃんからすれば大きな誤算だろうね。来須さんにとってもかな?」
フローラルな香りをまとったあまねが、俺の横を通過して脱衣所に出る。
「二十二時二十一分。あと二時間しないうちに、あまねのターンだね」
「お前……こうなることを、知っていたのか?」
『え? 来須くん?』という渚の声は、通話を切ってシャットアウト。それよりも俺は、鬱陶しいくらいの湯気の中、タオルで身体を拭いている眼前のあまねに釘付けとなった。
「少し早いけど、あまねは出ることにするよ」
「どこに行くんだよ」
「決まってるじゃん。海春と鞘乃を殺すの」
この瞬間、俺は気付いた。あまねは最も単純な必勝パターン――〈一・一・一〉を完成させることができる。それが予定されていた可能性に。
赤鞠は今日、洋平を殺すつもりだった。しかし死んだのは武彦だった。武彦を殺したのは――あまねだ。こいつは今朝、外出していたじゃないか。水柱家に侵入して、寝ている武彦の口に瞬間接着剤を流し込んだのだ。そして同日中に妻の潤子が後を追う。
だが、そうなるとは限らない。であれば、どうしてもっと確実に、武彦と同時に潤子も殺しておかなかったんだ? 「目的は遂げた」と云っていたが、この展開はそれほどまでに確実に担保されていただろうか? この解釈には、いくら何でも無理がないだろうか?
「二十二時二十四分。さようなら、来須さん」
あまねは身体を拭き終えて、いつもどおりにピンク色のパーカーの上から黒いブレザーを羽織り、丈の短い黒いスカートを履いていた。藍色の髪はまだ少し濡れている。
分からない。こいつの態度に理解が到達しない。絶対的に隔てられた感覚。
「行かせるわけないだろ……約束はどうした。もう誰も殺さないと誓ったはずだ」
「全然だめ。甘いよ来須さん。こんなのまだ、序の口なんだからさ」
携帯が騒々しい着信音を響かせ続けている。ノイズ混じりの空間で俺の脳味噌はあまねの嘲笑に犯される。彼女は俺へ向き直り、手を後ろで組んで、幸せそうに俺を蔑んでいる。
「ただの始まり。切っ掛けに過ぎないの。もっともっと、大勢の人が殺されるよ。謎や不思議が溢れ出して、混迷を極めていくよ。来須さんはそれを一番の特等席で楽しむことができるんだよ」
脱衣所を出て行くあまね。「ま、待てよっ」びしょ濡れのまま、俺も慌てて廊下へ出る。あまねは玄関にいて、既に革靴を履いている。早い。馬鹿みたいに早い。
「一体、何を喋っているんだよお前は! どういうことなんだよ、この状況は!」
「仕方ないよ。来須さんとあまねは、すれ違い続ける宿命だからね」
振り向きもしない。玄関扉が開いて、流れ込んできた夜の空気が俺の全身を撫でる。
「本当に、これからの事件を楽しんでね? 全部、貴方のためなんだから」
扉が閉じた。俺はひとり残された。途方もない気分で、しばし突っ立っていた。
結局のところ、俺は何もできなかった。
だが、それでいいじゃないか。何の問題がある? 何人死のうが。何人殺そうが。あまねが勝てば、すべての罪は赤鞠が被ることになるのだ。もう任せたらいいじゃないか。
もとより俺は、関係ないのだから…………。
・・・・
誤算だった。あまねは海春と鞘乃の殺害に失敗した。二人が生活する老人ホームの一室では洋平が彼女を待ち構えていた。あまねは洋平によって凌辱された末、屋上から地面へと落とされた。素っ裸の彼女の死体は翌朝に発見された。洋平は屋上からずっとその死体を見下ろしていたのですぐに逮捕されたが、取調べでは「罰を受けろ……罰を受けろ……」とうわ言みたく繰り返すばかりで、まともな精神状態ではないとのことだ。
『空なら飛べるから平気。心配はいらないよ』
あまねのあの言葉は虚勢だった。彼女は空なんて飛べやしなかった。空想が嵩じて現実を生きられなくなった彼女は、こういう結末を迎えるのが必定だったのだと思う。
結局、水柱一族の連続死は潤子の自殺を以て終了した。すべては雫音あまねと水柱流香の二人を犯人とする連続殺人事件ということになった。花天月高校の生徒達がそう証言したし、そのうえで捜査すれば証拠もいくつか見つかったからだ。
俺も警察から事情聴取を受けたが、知らぬ存ぜぬで通した。あまねの葬式が開かれる予定はなく、月曜から普通に出社した。渚はまだ休んでいて、電話しても応答しない。
彼女は俺の事件への関与を疑っているだろうか?
火曜の夜、ポストに一封の茶封筒が投函されていると気付いた。中身は渚の捺印が済まされた離婚届と、短い文章を綴った手紙だった。
『貴方のヤニまみれの舌が私の右目を何度も舐め回したせいで、眼病になってしまいました。しばらく眼科に通わないといけません。慰謝料は要求しませんが、離婚届を役所へ提出し、二度と私に関わらないようお願いします。会社は辞めることにします。 渚』
だから云ったのだ。幸福は、不幸に向かう準備段階。
最後のこれは誤算ではなかったと、そう思いたい。
【うりえる章:赤鞠7つばかり誤算】終。