ジェントル澄神による解決編・前
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澄神の指示で、俺は喫茶店〈月の天鵞絨〉にやって来た。店内はやはり貸切で、澄神は壁に掛けられた黒板の前に立って俺を待っていた。
「さあ、掛けてください。早速、始めようではありませんか」
俺がソファーに座ると、照明が一斉に切られた。
それから天井に取り付けられたスポットライトが点灯し、澄神を照らした。
「既にお分かりのとおり、きみは自分自身の想像の世界に閉じこもっています。此処は現実ではない――いえ、いまや此処がきみの現実となったのです。次々と起きる殺人事件、私のような名探偵、伏線とその回収による謎解きの連続を見れば明らかですが、此処はきみがかつて書いていたミステリ小説のプロットさながらですよ。
きみはプロのミステリ作家となるため、その青春をひたすら執筆に捧げました。きみは自分の才能を信じていた。想像の中で、きみはさぞかし全能のミステリ作家だったことでしょう。作品を書き上げては、方々の新人賞に応募し続けましたね。
ですが結果はすべて落選でした。きみが費やした時間も手間も、そこに懸けた想いも、まったく無駄なものとして否定されました。
そうしてきみは挫折したのです。社会人となったきみは、もう小説を書こうとはしませんでした。小説を書いたら、また傷付かないといけません。自分にはプロのミステリ作家となれる力がないという事実に、向き合わなければなりません。だから人一倍、仕事に没頭した。そうやって自らに対し、夢を諦めさせたのでしょう。
幸福は不幸へと向かう準備段階――幸福恐怖症(Cherophobia)とも云えるこの考え方もまた、これ以上の苦しみを味わうことがないようにするためのプロテクトですね。期待しなければ、落胆もしない。きみは徹底して自分を押し殺したというわけです」
簡単にまとめられるが、俺にとっては途方もない歳月だった。
本当にすべてを懸けていた。そんな自分のすべてを失ったのだ。
ようやく、諦めることができた。現実との折り合いをつけることができた。
そのはず、だったのだけれど……。
「しかし、社会人としての生活――そこでの成功に、きみは興味を抱くことができませんでした。きみの心は依然、ミステリの世界にいたのです。仕方ありませんよ。ずっとそうやって生きてきたのですから。来須くん、此処に来る前にラカンを学び直しましたか?」
「ああ……」
「〈父による去勢〉を受けた人間は〈象徴界〉で生きていくことになります。〈象徴界〉は言語の世界。言語を用いて表現をすることで、他者との関係を築いていく世界です。しかし来須くんは小説を書くこと、つまり言語を用いて表現することを辞めてしまいました。一方で、その本心は自分が唯一、興味を抱き情熱を注ぐことができる対象――ミステリの世界を求めました。これがきみを言語以前の世界である〈想像界〉へと向かわせたのです。
とはいえ、〈父による去勢〉を受けた人間にとって、〈想像界〉へ戻ることは容易ではありません。〈父による去勢〉は自我形成の根底となっています。時間を遡れないのと同様に、自らの限界を知った人間はかつての全能者へは還れないのです。たったひとつ、それを可能とする方法を除いてね。さて、それが何だか、分かりますか?」
俺は頷く。そこまでは、俺も辿り着いている。
「父を殺すことだろ。エディプスの神話と同じように」
澄神は「ご名答」と指を鳴らした。
「〈父殺し〉――つまりは〈父による去勢〉の拒否。これによって人間は〈想像界〉に還りますが、それは自らの限界性を象徴化せず、外部に排除しようとする働きを意味します。精神分析家はこれを精神病と呼ぶのです。特に来須くん、きみはパラノイア性精神病ですね。これの患者は〈象徴界〉から〈想像界〉への逆戻りによって、時間が逆行する幻覚を見るようになります」
チョークを手に取ると、澄神は今の説明を黒板に図示した。
法なき想像の世界とは、まさにそのとおりだ。荒唐無稽な事件の数々に、まるで機能していない警察。ミステリ小説によく見られる、作者にとって都合の良い世界。特に俺の書く小説はその傾向が強いとして、何度も批判を受けていた……。
「だが……俺はいつ〈父殺し〉なんてしただろう? それが分からない」
現にパラノイア性精神病を発症している以上、〈父殺し〉を象徴するような何か、〈父殺し〉に相当するような何かがあったはずだ。
「たしかにきみには自覚がないでしょう。〈父殺し〉をおこなったきみの意識は、この世界において、きみ自身から切り離されています。ゆえにきみは、自分がこの世界の作者であることを知らなかった。きみは主人公として物語の中に入り、作者としての意識には別の名前が与えられました。その名前とは――当然、何度も耳にしていますね?」
「聖JK……か?」
「そうです。その座についているのが誰かも、ご存知でしょう」
「あまねだ」
「ではあまねさんが最初に起こした事件は何でしたか?」
「……七五三殺人ゲーム」
「もう気付けるのではないですか?」
スポットライトの中で、澄神は微笑した。
間近まで迫っている感覚はある。俺はいつかの由莉亜との会話を思い出している。
『あまねちゃん、最初から赤鞠さんに勝つつもりじゃなかったの』
『どういうことだ』
『あまねちゃんが目指してたのは、聖JKなんだって』
どうやらあの事件を起こすことで、あまねは聖JKとなったらしい。よく考えろ。あまねは何をした? あの事件の何が、あまねにその条件を満たさせた?
『来須さん、心配はいらないよ。目的は既に達成されているから』
そういえば、あの事件には不可解な点があった。あまねが死ぬ前日、赤鞠は洋平を殺すつもりだったのに、死んだのは武彦だった。俺はあまねが武彦を殺したのではと疑ったが、その行動は必ずしもあまねの勝利を意味しない。プライドを賭けた勝負だと繰り返していたのに、赤鞠のターン中に邪魔するような手段を取るのも腑に落ちない。
しかし、それが方便だったなら? 最初から武彦の殺害が目的だったのなら?
いや、それなら真っ先に武彦を殺せばいい。わざわざ赤鞠との勝負を装う必要もないはずだ。あるいは、あのタイミングまで待つ理由があったのか……? 七五三殺人ゲームによって、武彦の何かが変わったとか……?
「あっ……」
俺は手帳を取り出した。水柱一族の家系図を書いたページを開き、確信した。
そうだ。何で気付かなかった?
「武彦は――俺の義父じゃないか!」
あまねを勝たせるため、俺は渚と結婚することで家系図の組み換えをおこなった。それがあまねの狙いだったのだ。つまり、武彦を俺の義父としたうえで殺害することが!
「それが〈父殺し〉ですよ。〈象徴界〉から〈想像界〉への逆戻りを起こす行為。そして〈父殺し〉をおこなったきみの意識――聖JKは、時間を逆行するようになるのです」




