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聖JKとアンチミステリ御破算  作者: 凛野冥
みかえる章:あまね<すべての者
34/39

The Return of the Fire Witch

    ・・・・


「ダーリン、ダーリン」

 ソファーで眠っていた俺は揺り起こされた。カーテンの開け放たれた窓から朝日が差し込んでいる。見上げた先には、制服姿の珠田が立っている。

「珠田、学校に行ってまいります。サンドイッチをつくって冷蔵庫に入れておいたので、朝食に召し上がってくださいね」

「ああ……今日は何曜日なんだっけか」

 会社に行かなくなったせいで、曜日感覚が狂っている。

「月曜日ですよ。ちなみに花天月高校は今日が終業式で、明日から冬期休暇です。しばらくは二十四時間体制でダーリンにご奉仕できるのです。それでは!」

 回れ右して居間を出て行く珠田を見送りながら、さて今日は何をしようと考える。

 そのとき、窓がガタガタと揺れた。今日は風が強いみたいだ。

『あの十二月二十一日は、風が強かったなあ』

 唐突に、いつかのあまねの言葉が鮮明に蘇った。

『終業式の日、夕陽が西の地平線に沈むころだよ。鴉のお面を被って、背中にプラスチックの黒い羽をつけた大勢の女子高生がね、校舎の屋上に横一列で並んだの。それからみんな一斉に飛び降りると、真下の地面に叩きつけられて死んじゃった』

 ぞわぞわぞわと、全身の毛が逆立つような感覚が俺を襲った。

「珠田!」

 起き上がる。走って廊下に出ると、玄関で靴を履いた珠田が振り向いている。

「どうしたのですか、ダーリン。あっ、行ってらっしゃいのチューですか?」

「お前達――今日、屋上から飛び降りるつもりじゃないだろうな」

 クラキ・クラミジア事件の聞き込みで澄神と訪れた花天月高校では、女子生徒がみな背中にプラスチックの黒い羽をつけていた。そして今日は――十二月二十一日。

「そうみたいですね」

 珠田は何でもないことのように首肯した。

「でも珠田は飛び降りませんよ。羽もつけてないでしょう? 飛び降りるのはあくまで、聖JK候補者の人達です」

「それが羽をつけた連中なんだな? 大量にいたぞ……」

 あまねは過去の出来事のように語っていた。だが過去にそんな事件は起きていない。だから俺はつくり話だと思った。本気に捉えなかった。

 しかしあれは、これから起こす事件の予告だったのだ。

 また強い風が吹いた。背後で窓がガタガタガタと音を立てる。

「あいつ……風が強い日になるって、よく当てられたな……」

 これは呟きだったのだけれど、珠田はにんまりと笑って応えた。

「あまねちゃんは未来から来ているのですから、知ってて当然ですよ」

「くだらない……そういう与太話はもういいよ」

「あれ? ダーリン、まだ気づいていなかったのですか?」

「何が」

「聖JKになった人は、自分の死に向かって、時間を逆向きに辿るのです。だから他の人達からすれば、死んだのに生きているように見えるわけで、それを〈復活〉と呼ぶのです」

「……なに云ってんだ?」

「分かりませんか? 聖JKの資格の有無も、そういうことですよ。つまり〈らふぁえる章〉以前に来須さんと会っている人は、この〈みかえる章〉で死んでも、それより前に生きていたのが確認されているのですから、時間を逆行してませんよね?」

 この説明は分からせる気があるのか、ないのか。

 考えていると、再び珠田が口を開こうとしたので、俺は遮った。

「いや、分かるよ……要は、そういう設定だって話だろ? そういうふうに演出しているって話だ。荒唐無稽で、いかにもあまねが考えそうだな。だが現実には――」

「うわ! 『現実には』なんて――今更、野暮な突っ込みはよしてくださいよ。それを云い出したら、七五三殺人ゲームとか、血液交換で人格まで入れ替わるとか、全身から血を噴いて死ぬ新種のウイルスとか、ぜんぶ荒唐無稽じゃないですか」

 珠田は俺に対して、いっそ説教するかのように云った。

「現実がどうとか、そんなのは云わない〈お約束〉でしょう。違います?」

「おい。さっきから一体、なんの話を――」

「あまねちゃんがどうしてダーリンのところに来たのか、憶えてますか?」

「……え?」

「〈うりえる章〉が開始した時点で、あまねちゃんはダーリンと一緒に暮らしていたのですよね? だけどそれよりも前にはあまねちゃんはいません。ダーリンにはあまねちゃんとの出逢いの記憶がないはずです」

 あまねが俺と暮らしているのは、何か訳ありだった。

 親戚連中がどうたら、だった気がする。

 具体的には……憶えていない。

「そういうところには今まで目を瞑ってきたのに、どうして時間の逆行だけ認めようとしないのです? それを否定したら、他の全部も否定することになりますよね?」

 刹那の空白の後に、

 ぐらあり……と、揺れた。

 俺か、この世界、そのものか。

 すべてが遥か後方まで、途方もない引力で吸い込まれていって、

 いま此処に立っている俺だけが、真っ暗な空間にひとり残されたみたいで。

「それでは珠田は学校に行ってまいりますので!」

「待ってくれ」

 手を伸ばしたが、振り払われた。

「遅刻しちゃいますよ! 珠田、せっかく無遅刻無欠席ですのに!」

「どこまでだ? どこから――おかしくなった?」

「ダーリン、お勉強し直したらどうですか? 本なら、その部屋の中にあるはずですよ」

 珠田は出て行った。

 俺は懐から煙草を取ろうとしたけれど、着ているのは寝間着で、懐などなかった。

『『荘子』斉物論にある〈胡蝶の夢〉を知ってる?』

『胡蝶となった夢から目覚めた人間と、人間となった夢を見ている胡蝶』

『人間は自分が認識するようにしか世界を捉えられない』

『世界とは、主体となる人の認識。だけど主体の認識は曖昧なもの』

 何か、途轍もなく恐ろしい知覚が、到来しようとしている。

 振り向いた先には、あまねに与えていた洋室の扉があった。

 数か月ぶりに――それとも、初めてだろうか。扉を開いて中に這入る。

 六畳の洋室。中央のベッドを本棚が囲んでいる。そして、その本棚にも収まりきらずに、足の踏み場がないほど至るところに積み上げられた、大量の書物。

 しかしよく見ると、どういうわけか、すべてが同じ本だと分かった。

 二十世紀の精神分析家――ジャック・ラカンの思想について書かれた本だ。


    ・・・・


 ベッドの上に胡坐をかいて、立て続けに煙草を吸いながら、読み耽った。

 ラカンの本は昔、よく読んでいた。その理論は極めて難解なため、当時も正しく理解できていた自信はないのだが、少なくとも大枠としての自分の理解を思い出すことはできた。


 まず前提として、人間の子どもは他の動物と比べ、かなり未熟な状態で産まれる。神経系が未発達なせいで自らの身体さえ満足に支配できず、自分ひとりでは、自己について統一的なイメージを獲得することができない。ゆえに自らの外部にある像に自分を同一化しようとする。換言すれば、他者との関係において、自己の存在を確認するようになる。

 そこで最初の他者となるのが母親だ。人間ははじめ、母親との閉ざされた関係による、満ち足りた世界にいる。互いが互いの欲望の対象として完結している完全な世界。子どもは〈母親の欲望の対象〉として自己を確認しているため、自己愛に耽溺たんできしているという見方もできる。この世界は〈想像界〉と呼ばれ、全能的で、絶対的享楽があるとされる。

 しかし〈想像界〉はひと時の幻想のようなものだ。母親には子どもの欲望を満たし続けることはできない。母親は子どもだけを欲望するのでなく、他にも欲望の対象がある。子どもからすれば、それは母親との想像的関係の崩壊を意味する。母親が子ども以外に欲望を向ける対象――その象徴こそが父親だ。子どもにとって父親は絶対的な強者であり、力で屈服させることは叶わない。

 ここで子どもは挫折をする。父親の法によって想像的関係は禁じられ、全能と絶対的享楽は否定される。〈父による去勢〉と呼ばれるこの過程を経ることで、子どもは〈想像界〉から〈象徴界〉へと移ることになる。〈象徴界〉は法の世界であり、言語の世界だ。

 そして人間は言語によって、多くの他者と関係していくようになる。想像的なものでなく、現実的なもの――すなわち〈現実界〉を描き出そうとする営みを通して、この世界の中で自己の存在を確認し続けていく。


 いつしか、灰皿には吸殻の山ができていた。

 俺は本を閉じて、携帯を手に取って、澄神に電話を掛けた。

『やあ来須くん。今度は真実への扉を開く鍵を手にしたうえでの電話でしょうね?』

「違っていたら笑ってくれ。本音としては、笑ってくれた方が有難いくらいだが」

『その要求は飲めませんね。この期に及んでまだ見当違いの推論を述べるようなら、私は黙って通話を切り、この番号は着信拒否にしますよ』

「分かった。それでいい」

 ひと呼吸おいてから、告げる。

「俺は精神病者だ。おかしいのはお前達じゃなくて、俺の方だったんだ」

 澄神は応えない。通話を切ろうともしない。

「……お前も、俺の妄想なんだな?」

 すると、澄神は『あっはっはっはっは!』と笑い出した。

 ということは……

『扉は開かれました。〈解決編〉は、名探偵である私に任せなさい』

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